週刊ポストや週刊現代にいつからか、昭和のスター・文化人の「思い出」「金言」を特集する記事が目立つようになった。ジャーナリズムの要素をほとんど失ったこの2誌を、私はすでに斜め読みしかしていないのだが、記事タイトルで埋まった表紙を眺めるうち、同系統の特集が頻繁にあることに気づいたのだ。とは言っても、記事の中身は驚くほど空っぽで、肩透かしに遭う。往年のスターを知る関係者に適当に電話しては、「何の話でもいいので思い出を」と聞き出した断片を並べただけ。そうとしか思えないほどに、記事内容には脈絡がなく「やっつけ仕事感」があふれている。
たとえば、今週のポストに載ったのは『永六輔、小林亜星、大橋巨泉、渥美清、初代若乃花、金田正一――「昭和ヒトケタ世代」が教えてくれたこと』という記事だ。何が書かれているかと言えば、永さんについては、路地裏でのラジオ中継のコツを伝授された話を、亜星氏についてはスーパーのイベントで一緒になった思い出を、タレントの毒蝮三太夫氏がそれぞれ語っている。巨泉氏については漫画家の黒鉄ヒロシ氏が、11PMでの名司会ぶりを懐かしむ……。5ページすべてがそんな羅列なのだ。
だから何?という感想しか正直浮かばない。読者に伝わるのは、記事の書き手本人が、この仕事に興味を持っていないということだ。現代のほうの記事は、『準備がしっかりしていたから、フィナーレも綺麗に あの有名人が実践していた「老いの作法」その中身を公開』というもので、大滝秀治、外山滋比古、八千草薫、大島康徳、安崎暁の各人の逸話を並べている。こちらは「終活」の大特集を構成する1本で、「老い方」(病床での姿)という共通テーマがある分だけ、ポスト記事よりましなのだが、それでも「安直に情報を寄せ集めたまとめ記事」という印象はいかんせん否めない。
ポストが特集した「昭和ヒトケタ」について補足すれば、たまたま私も関連するテーマを調べていて、昭和5年(1930年)生まれの野坂昭如氏と昭和8年(1933年)生まれの菅原文太氏の対談を読み、15歳、中学3年で終戦を迎えた野坂氏と、12歳、まだ小学校(国民学校)6年生だった菅原氏とでは、わずか3歳差で価値観崩壊のショック、大人や社会への不信などの度合いがかなり違っていたことを改めて認識した。
野坂氏は自らを「焼け跡闇市派」、菅原氏を「疎開派」と呼び区別した。逆に野坂氏より3つ以上年長だと、「軍国主義以前」の世相について薄らと記憶や伝聞があり、自由主義や社会主義、共産主義といった思想の存在を知っていた。野坂氏ら焼け跡闇市世代にはそれさえなく、戦後教育で「リンカーンが『人民のための人民による……』といったと聞いたってわからず、ただアッケラカンとしていた」という。
世代論として「昭和ヒトケタ」を考えるなら、多感な少年期に世の価値観・人生観がひっくり返った体験を抜きに語れないはずだし、そういった部分に強い関心を持つからこそ、珍しく今回、ポスト記事にも手が伸びたのだが、とんだ期待外れだった。現代史の流れにも取り上げる対象人物にもこれといって興味はなく、ただページを埋めるだけに記事をつくる。そんな手抜き工事ばかりしていると、誌面はとめどなく劣化してしまう。
かと言って、もはや誌面を充実させ、部数減を食い止める気概も編集部にはないのかもしれない。そう考えると、批判しても空しいだけなのだが、せめて記事をつくる担当者個人には、編集者・ライターとしてのキャリアアップを目指すうえで、もう少し「記事の質」にこだわる姿勢を持ったほうがいいのでは、と忠告をしたくなる。老婆心ながらそんなふうに思うのだ。
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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。