十年ほど前まで、筆者が海外に行く、といえば、それはすなわち“現地調査に出かける”ということであった。例外はほぼ無かったと言っていい。今ではすっかり状況が変わって、筆者が海外に行くのは、国際会議か国際学会に出席、あるいは講演するため、というのがほとんどになってしまった(それも直近1年半ほどはCOVID-19騒ぎで沙汰止み状態であるが)。この現地調査のための外国出張と、会議出席等のための海外出張で、まったく違うのが持参する荷物の中身である。


 ところが、筆者が初めて国際会議に出席するために海外出張した時、それは確か2010年ごろだったか、国際会議の様子をまったく知らなかった上に、海外に行くといえば持っていくべき持ち物リストは、フィールドワーク用のものですべて事足りる、と信じて疑わず、いつものフィールドワーク仕様の荷造りをして、ジュネーブで開催された国際会議に出かけたことがあった。今思い返すと顔が真っ赤になる程恥ずかしい思い出であるが、指定されたホテルに着き、会議に出席するうちに、持ってきたスーツケースの中身の多くが不要であり、逆に、必要な着替えや小物類が圧倒的に不足していることに気づいたのである。


 その時のスーツケースは、滞在日数プラスアルファ分の蚊取り線香、洗濯洗剤、洗濯バサミ、ロープ、ワイヤーハンガー、タオル、石鹸、シャンプー、トイレットペーパー、金属カップ、200V対応の湯沸ポット、同ヘアドライヤー、コンセントプラグ形状変換器一式、ヘッドランプ式懐中電灯、予備電池、各種ビニル袋、非常食(インスタントラーメン)、医薬品一式、などが大部分を占めており、衣服としては、スーツの上下1組、寝巻きがわりのジャージと、下着類や靴下、シャツ、ハンカチは、それぞれ1つずつ入っているだけだった。



薬草園で咲いている「黄芩(オウゴン)」


 海外に出かけるとき、飛行機に搭乗する際のスーツケースの大きさと重量には制限がある。現地調査の旅行の際に詰め込む荷物は、調査に必要、かつ現地では入手困難な道具や消耗品が優先され、自身の衣服類は、優先順位としては最も最後の部類になる。このため、筆者はいつも、下着類、靴下、シャツ、ズボンは、着用していくもののほかは、それぞれ1つずつ、スーツケースに入れた各種道具類のクッション材よろしく詰めてあるだけで、現地では、毎日夜になると、部屋の流しで着衣一式を洗濯するのが習慣であった。前述の国際会議に出かけた際の荷造りも、この生活スタイルを想定しての準備だったのである。しかし、国際会議のための滞在は、そんな生活様式であるはずもなく、またホテルの装備も大違いで、違和感たっぷりの初ジュネーブ滞在となった。


 多くの国際会議では、本番の会議時間以外の時間での、いわゆるロビー活動や会食などの場での会話が、重要な決定に影響を与えることが多く、あらかじめ示されたスケジュール以外の時間も、多くを渉外活動に費やすことになる場合が多い。従って、ホテルの自室で過ごす時間はかなり短くなる。前述の初ジュネーブの国際会議の折にも、その短時間内に着衣一式を洗濯したとて、あくる日に着用できるほど乾くわけはなく、持参した200V対応ヘアドライヤーが毎日たいへん活躍する状態であった。


 筆者が出かける現地調査は、植物を追うフィールドワークなので、分厚いコートを着込む必要があるような低温期に行うことは稀であり、多くの場合は気温は高めの時期になる。暗くなって宿に入ってから、シャワーで汗を流してジャージに着替え、シャツや下着は洗濯して干しておけば、なんとなく、あくる朝には乾いているのである。ただし、雨季の東南アジア地域ではちょっと工夫が必要で、着衣には乾きやすい化学繊維でできた衣類を選び、さらに洗濯した後、タオルで簀巻きにしてぎゅうぎゅうに絞る。そうすることで衣服の水分はタオルにほとんど吸収されて、衣服は短時間で乾くのである。タオルはなるべく薄いものを使えば、形が単純なので、短時間でも風通しがよければかなり乾いてくれるのである。



ウズベキスタンで採集した「黄芩(オウゴン)」の同族植物


 フィールドワーク用の持ち物は、現地滞在時間が5日でも1ヶ月でもあまり異なることはなく、行き先によって、持っていく蚊取り線香とインスタントラーメン(お湯をかけても、またそのままでも食せるもの)の分量が変わるくらいである。行き先にマラリアを媒介する蚊が多い場合や、湿地帯に滞在する場合は、蚊取り線香の必要量は倍増するし、中央アジアの砂漠エリアや東南アジアの山岳部など、ヒトがまばらにしか住んでいない地域に出かけるときには、食料調達に難渋が予想されるので、インスタントラーメンを十分量持っていく。こんな調子なので、どこに行くにも、外国出張といえば同じ装備だったのである。


 現地調査には、研究室の学生たちや、研究班の班員の他大学の教員や会社の研究員などを同道することが多かった。特に初めて現地調査に参加する、という人たちは、外国である上に先進地域ではないところに行くことに、大きな不安を感じる人が多いらしく、事前に丁寧に説明や指示をしないと、出発当日に、とんでもなく大量の荷物を持って空港に現れることがあった。筆者のグループの現地調査のやり方では、毎日移動しながら資料採取をすることも珍しくなく、滞在日数を重ねるごとに収集資料が増えて、全体の荷物が多くなってゆく。それなのに、そもそも個人が日本から持ってきた荷物が最初から多いようでは、なにをするにも余計な手間と時間、そして費用を浪費することになる。


 そこであるとき、筆者は同道のフィールドワーク参加者に配る「持ち物リスト」を作成した。初めて参加する人には、「こんなものまで要るんですか?」と言われることも多かったが、帰国してから、「あの持ち物リストのおかげで助かりました。」と言われることも多かった。やはり、現地での生活を、日本にいながら想像して準備することは難しいのである。時代の進化に合わせてリストは少しずつ変化してきているが、フィールドワーク初心者に必ず渡すというのは変わっていない。リストは男性用、女性用それぞれに作ってあるが、リストなしで準備したとき、男性が荷物に入れ忘れることが多いのが髭剃り、女性の場合は生理用ナプキン、のようである。どちらも、日本ではコンビニエンスストア等でいつでも入手可能な生活必需品だと思うが、外国では日本人好みのものはなかなか見つからない代物である。


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伊藤美千穂(いとうみちほ) 1969年大阪生まれ。京都大学大学院薬学研究科准教授。専門は生薬学・薬用植物学。18歳で京都大学に入学して以来、1年弱の米国留学期間を除けばずっと京都大学にいるが、研究手法のひとつにフィールドワークをとりいれており、途上国から先進国まで海外経験は豊富。大学での教育・研究の傍ら厚生労働省、内閣府やPMDAの各種委員、日本学術会議連携会員としての活動、WHOやISOの国際会議出席なども多い。