五輪中止を望んでいたが、始まれば見てしまう。競技スポーツは基本的に面白いものである。中止を煽っていたマスコミが連日報道するのを「手のひら返し」とクサす輩がいるが、プレーが始まれば伝えるのは当然のこと。戦争反対を唱える新聞が開戦後に戦況を伝えるのと同じである。
ルール改正で面白くなった柔道
柔道のルールは詳しくないが、「有効」や「効果」など中途半端な決まり技やその印象度を加点するポイント制がなくなり、面白くなっている。足取りも禁止され、姑息な競技に成り下がっていた武道の魅力を取り返したのは喜ばしい。格別興味のなかった者でも楽しめる。
興味深かったのは、投げを警戒すれば足技に掬われてしまう点。逆も真である。組み手争いで上半身に力が入ると下半身がおろそかになる。投げを食らうのを嫌がると足元を狙われるのである。野球でいえば、打者が内角を意識しすぎると外角に踏み込めなくなるといったパターンと同じに思われた。
相手を投げたつもりが逆に返されることが少なくない。足を掛けると相手は片足立ちになる。そして上半身を浴びせ倒す。足技を使いながら同時に胴着をつかんだ手で相手の上半身を倒しにかかっている。足を掛けて回しをつかんだ腕で相手の上半身をひねり倒す相撲と酷似している。しかし、掛け返すと今度は自分の上半身が持っていかれてしまう。攻撃しているさなかに防御している相手から逆襲される。まさしくカウンターである。
足技は一本を取るために不可欠で、奪うことができればその後に寝技や関節技、担ぎ技にも移行できる。この一連の動きが柔道の妙味だ。足を掛けることで相手の意識をそこに集中させる。すると組み手がおろそかになり、背負いなどの投げを食らうリスクが生まれる。実によくできたスポーツだと感心した。新しい発見である。スポーツは、押しなべてこのような二面性がある。
バットを振らなかった原沢
かつては無差別級といい、最強王者とも呼ばれた100キロ超級で原沢久喜が3位決定戦にも敗れた。勝敗はともかく、技を出さない試合運びに多くの人は落胆した。負ける試合は共通点がある。ノムさんの名言「負けに不思議の負けなし」。技を掛けないのである。打者が一度もバットを振らず見逃し三振するのに等しい。
原沢の試合ぶりを見ていて、レギュラーになれない打者の姿を見た。緊張で上半身が固くなっていた。顔色も冴えない。闘争心が見えなかった。相手のリナールは3連覇を狙う絶対王者だったが、ポイント柔道の申し子。衰えもある。充分勝算はあったのに消極的な柔道に終始した。原沢は負けたくない一心で腰が引け、ズルズル後退し、足を取る仕草などで「指導」を重ねてしまった。
打者は実績を重ねてレギュラーを獲得する。少ない出番で多くの実績を残さなければポジションは取れない。打席に立てば、結果を求めるあまり初球のボールに手を出す。あるいは慎重になりすぎてど真ん中のストレートを見逃してしまう。ストライク先行されると、2球目はさらに焦りが増幅する。ここで追い込まれると、3球目はウエストボールなのに当てにいってハーフスイング。3球三振である。原沢を酷評するつもりはない。ただ、スイングせずに畳を降りてほしくなかった。バットを3回振ったのか?
髪の結い直しで興ざめした準決勝
女子70キロ級で新井千鶴との準決勝で敗れたロシア代表のタイマゾワが注目を浴びたが、髪を何度も結い直す造作に興ざめした。伸ばしたい乙女心はわかるが、16分を超える熱戦に自ら水を差した。それを差し引いても感動したとは思わない。勝負の場で、不要な動きや事前に対処できることを怠るのは、スポーツ精神にもとる。わずかな時間でも競技は中断する。自らの行為で時計が止まる。双方にとって束の間の休息にはなるが、流れは確実に止まる。怪我などを除いて無駄なことが起きない措置が望まれる。
こうした批判をセクハラの一種とみる向きもあるかもしれないが、一方で容姿を意識させる女子のウエアに関して問題提起もあった。ドイツ女子体操チームはボディスーツで登場した。スポーツ界の性差別に対抗するためだという。ビーチ競技でも同じような動きが出ている。どんなユニフォームを着ても構わないが、髪を結い直すような競技に不必要な行為は最低限にすべきだ。(三)