(1)イメージ


 太田道灌(1432~1486)のイメージは、おおよそ次のようなものであろう。


㋑戦国時代初期の武将。戦国時代は通常、応仁の乱(1467~1477)からを言う。ただし、関東の戦国時代は享徳の乱(1455~1483)から事実上始まった。享徳の乱はゴチャゴチャしているので、別の項で説明します。


㋺関東で活躍した武将。関東といっても、広いのでござんす。だから、太田道灌ゆかりの地が多くありすぎて、もうゴチャゴチャ。ある人が道灌の関係する神社仏閣を数えたら、100以上になったようだ。私の住む東京都杉並区は、道灌と比較的に縁が薄い地域だが、それでも、荻窪八幡宮、井草八幡宮、下高井戸八幡宮と3つある。


㋩扇谷上杉家のトップ重臣で、扇谷上杉家の勢力を飛躍的に拡大させた。上杉家の説明も、ゴチャゴチャしている。山内上杉家、扇谷上杉家、犬養上杉家、宅間上杉家、さらには越後上杉家、またさらには……と、多くの上杉家が登場する。別の項で、上杉家の整理整頓をします。


㊁江戸城を武蔵国豊島郡江戸(現在の千代田区千代田)に築城した。現在の東京都豊島区は狭いが、当時の武蔵国豊島郡はとても広い。豊島郡江戸には、平安末期から鎌倉初期にかけて江戸氏の住居があった。江戸氏の没落後、扇谷上杉家のトップ重臣・太田道灌が1457年に江戸城を築城した。江戸氏を円滑に立ち退かせるため、立ち退くことが、「神意・天の声」という魔法を用いたようだ。


 築城の直接的理由は、前述の享徳の乱である。享徳の乱はゴチャゴチャしてわかりにくい。応仁の乱の10年も前から始まっている。関東の戦国時代の開始時とは、享徳の乱勃発時と言える。


 享徳の乱の「前期」の一連の合戦により、関東は、旧利根川(当時は利根川は東京湾へ流れていた)の「東側が古河公方(こがくぼう)の勢力」、そして「西側が関東管領(上杉家)の勢力」となった。古河公方の話もゴチャゴチャしますので、現在の茨城県古河市に根拠地があるとだけ記憶してください。古河公方の説明は、別にします。


 この頃は、山内上杉家と扇谷上杉家は連合して古河公方に対抗していた。太田道灌の江戸城築城は、東側の古河公方側有力武将・千葉氏に対抗するための前線基地であった。


 道灌が殺害(1486)された後、江戸城は扇谷上杉氏の所有となり、さらに、後北条氏の支配下となる。そして、1590年に徳川家康が江戸城に入った。家康が入った江戸城は荒れ果てたボロボロ状態であったが、全面的大拡張大建設が実施された。だから、太田道灌の築城した江戸城とは全然違います。


 なお、杉並区下高井戸4丁目の下高井戸八幡宮は、道灌が江戸城を築く際、鎌倉の鶴岡八幡宮から勧請したものである。


㋭太田道灌暗殺(悲劇の英雄)

 扇谷上杉家の勢力は、トップ重臣である太田道灌の大活躍によって、飛躍的に拡大した。道灌の人気・威信は抜群となった。扇谷上杉家の当主・上杉定正(1443~1494)は、「道灌が扇谷上杉家へ反逆するのではないか……」と疑い、道灌を上杉定正の館(神奈川県伊勢原市)へ招いて、入浴中に暗殺した。


㋬「山吹の里」伝説

 太田道灌は、文武両道の名将であった。武では「足軽軍法」を編み出し、30数回の合戦で負け知らず……、文では、何と言っても「山吹の里」伝説である。これについては、次の項で述べます。


(2)「山吹の里」伝説


 ある日、太田道灌は鷹狩りに出かけた。ところが急に雨が降ってきた。近くに小屋のような家があったので、そこで蓑(みの)を借りようと声をかけた。中から、若い娘が出て来て、何も言わずに山吹の花一枝を差し出した。道灌は腹をたてて立ち去った。


 帰宅後、家臣にその出来事を話すと、家臣は、


  七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき


 という古歌を紹介し、「貧乏でお貸しする蓑(歌の「実の」と掛詞)ひとつもございません」と山吹の花一枝に託して告げたのでしょう。その娘は今は貧乏ですが、かなりの教養を身につけています、と語った。それを聞いて、道灌は自分の無学を恥、それ以来和歌の勉強をして、立派な文化人になりました。


 この話は、岡山藩士で荻生徂徠学派の儒学者・湯浅常山(1708~1781)の『常山紀談』(じょうざんきだん)に掲載されている。『常山紀談』は史実はどうでも有名な話、豪快な話が収録されている。山吹の話も史実はどうでも、江戸時代に教訓話として広く知れ渡り、落語にもなっている。


 さて、この歌の出典は、『後拾遺和歌集』の兼明親王(醍醐天皇の皇子)の歌で、「なきぞ悲しき」の部分が「なきぞあやしき」になっている。その歌の詞書(ことばがき、歌の前文)は、太田道灌の逸話とそっくりである。つまり、誰かが、太田道灌の話に作り替えたことがわかる。


 それから、山吹は本当に「実がならないのか?」という単純な疑問。一重の山吹には実がなるが、八重の山吹の植物学的解説は省略するが、事実として実がつかない。『万葉集』の時代から、八重山吹は実がならない、というのは、歌人にとって常識だったようです。


 ともかくも、「山吹の里」の話は、完全に創作話なのだが、有名度が高くなりすぎたためだろう、江戸時代には実話と信じられてしまった。その結果、「山吹の里」は、関東に10数ヵ所を数えるようになった。そのなかのいくつかを紹介しておきます。


〇東京都豊島区高田1-18-1の「山吹の里」の碑……神田川にかかる面影橋のたもと。


〇東京都豊島区高田1-10-5の「山吹の里公園」……かつて「やまぶき村」だった。


〇東京都荒川区荒川7-7-2の「山吹の塚」……泊船軒という名の寺院の境内にある。


〇東京都荒川区荒川6-14-3の「山吹の里」……現在は「花の木児童遊園」。高畑三左衛門(当時のこの地の土豪)の娘が山吹の一枝の本人ということになっている。


〇東京都荒川区西日暮里2-19の「山吹の花一枝像」……2018年、日暮里駅徒歩3分の場所に設置された。また、1989年には日暮里駅前に太田道灌像「回天一枝」が設置された。太田道灌は関東全域で活躍したから、当然荒川区にも史跡がある。荒川区には『太田道灌と荒川区』(無料配布パンフレット)、『あらかわと太田道灌』(有料頒布、図書館で貸出)がある。荒川区はずいぶん太田道灌に注目しているなぁ、という感じです。


〇東京都新宿区6-12-11の「紅皿の墓」……大聖院という寺院の境内にある。娘の名は紅皿といい、道灌の歌の友として江戸城に招かれ、道灌没後は尼となり、この地に庵を結んで生涯を終えたことになっている。山吹の一枝を差し出した娘は、「歌の友」あるいは「側室」なのか、そうなってしまった。小説家ならば、彼女をヒロインにするだろうな。


〇東京都新宿区西新宿2丁目の「久遠の像」……新宿中央公園に、道灌と乙女のブロンズ像がある。像の周囲には山吹が植えてある。


〇東京都新宿区高田馬場2-14の「山吹の娘」(手塚治虫の壁画の中)……高田馬場駅早稲田口高架下の巨大壁画。通称、『アトムの壁画』だが、その中に「山吹の娘」もある。手塚治虫のいかなる漫画に「山吹の娘」が登場しているのか、私は知らない。


〇東京都中野区中野1丁目の「やまぶき公園」……やまぶきの花があるためか。


〇埼玉県越生町龍ヶ谷452の「山吹の花を持つ太田道灌」……龍穏寺境内、太田道真・道灌父子の墓所。


〇埼玉県越生町西和田24の「山吹の里歴史公園」


〇埼玉県川越市郭町2-13-1の「小江戸山吹の里」の碑……享徳の乱によって、古河公方の古河城などに対抗するため扇谷上杉家は太田道真・道灌親子に河越城(後に川越城)を築城し、扇谷上杉家の本拠地とした。さらに、道灌に江戸城を築城させ道灌を城主とした。河越城と江戸城を結ぶ軍事道路が川越街道である。そんな歴史を振り返るため設置。川越市役所前には太田道灌像もある。


 なお、前述の高田馬場駅の巨大壁画のことであるが、そこは川越街道に接しているから「山吹の娘」を描いたのかも知れない。


〇埼玉県蓮田市椿山4丁目の「蓮田市の山吹の里」……それらしき伝承があるようだ。


〇神奈川県横浜市金沢区瀬戸の「金沢区の山吹の里」……それらしき伝承があるようだ。


〇長野県佐久市猿久保の「久遠の像」……西新宿のブロンズ像と同じもの。佐久市出身実業家が、2つとも寄贈した。道灌と無関係の地。


 その他、各地にあるが、そもそも「山吹の里」伝説はフィクションである。フィクションならば誰からも文句が出ないので、「町起こし」に役立たせようということかな。


 それから、太田道灌の像は各地にある。


 なお、太田道灌の著作として伝えられている和歌集や紀行文があるが、それらは偽作・創作と判明している。ただし、当時の歌人の和歌集などに太田道灌の和歌が掲載されていることなどから、太田道灌は文化的教養を持っていたことは確かである。


(3)ゴチャゴチャしている関東戦国史


①「享徳の乱」以前


 ここで、古河公方、上杉家、享徳の乱などの解説をしておきます。


 室町幕府は関東統治のため鎌倉府を設置した。鎌倉府の管轄は現在の関東全域と山梨県及び伊豆半島である。1392年に東北も追加された。鎌倉府は、「鎌倉公方」とその補佐役「関東管領」、関東諸国の守護などで構成された。初代鎌倉公方は、足利尊氏の次男であった。4代目の鎌倉公方の頃になると、鎌倉公方は室町幕府から独立姿勢を見せる。むろん、関東の伝統的豪族は「独立賛成」であった。


 ここに、「室町幕府(第6代将軍・足利義教)+関東管領(上杉家)」と「第4代鎌倉公方・足利持氏+伝統的関東豪族」の対立が発火した。1439年、第4代鎌倉公方・足利持氏は討たれて、鎌倉府は消滅した。しかし、翌年の1440年、独立志向の伝統的関東豪族(結城氏ら)は足利持氏の遺児を奉じて、下総国の結城城(現在の茨城県結城市)に結集した。約1年間の結城合戦は、当時としてはすこぶる大合戦であった。結果は、足利幕府・関東管領の勝利となった。伝統的関東豪族は、結城合戦には敗退したが、足利将軍と関東管領への恨みは深い。


 第6代将軍・足利義教は、独裁・恐怖政治・暴君であった。織田信長を魔王と呼ぶならば、足利義教は超大魔王である。当時の人は「万人恐怖、言フ莫レ、言フ莫レ」と書き残した。その足利義教は、赤松満祐によって「鴨の子見物」を名目にした結城合戦の慰労会で殺害された(1441年)。つまり、当時は、平和時ならば卑怯な方法である「騙し討ち」も、よくある方法なのだ。


 超大魔王・足利義教の死によって、幕府・関東管領と伝統的関東豪族との間に、融和・和解の動きが出た。その結果、1447年、第5代鎌倉公方に足利成氏(1438~1497)が就任した。足利成氏の父・足利持氏は敗死した。兄2人は結城合戦の敗戦処理で首を切られた。足利成氏の怨みは深かったに違いない。幕府・関東管領の融和・和解への期待は、崩れ去る。


②「享徳の乱」前期……鎌倉公方から古河公方へ


 1454年12月27日(=1455年1月15日)、第5代鎌倉公方・足利成氏は、関東管領・上杉憲忠(1433~1454)を謀殺した。これによって、「足利幕府+関東管領」と「鎌倉公方(後に古河公方)・足利成氏+伝統的関東豪族」の、28年間におよぶ享徳の乱となった。


 余談になるが、享徳の乱の原因は数々あるが、双方の「怨み」の深さも一因と思う。原始仏典の『法句経』に、「怨みに報いるに、怨みをもってするれば、ついに怨みのやむことなし」という文章がある。また、『論語』および『老子』には、「怨みに報いるに徳を以ってす」とある。昔も今も、こうした境地の人は極めて少ないようだ。


 さて本筋に戻って……


 各地で合戦が勃発し、第5代鎌倉公方・足利成氏は関東各地を転戦した。その間に、室町幕府は足利成氏討伐を駿河守護今川氏に命じ、今川氏は鎌倉を占拠してしまう。足利成氏は鎌倉へ戻れなくなり、下総国の古河(現在の茨城県古河市、茨城県西端、関東のほぼ中央)を根拠地とした。以後、古河公方と呼ばれた。


 享徳の乱が勃発し、多くの合戦を経て、1458年には、利根川の東側は古河公方(足利成氏)の勢力範囲、西側は関東管領(上杉氏)の勢力範囲となった。


 1457年に、扇谷上杉家は、古河城を中心とする古河公方勢力に対抗するため、太田道真(1411~1492)・道灌父子に河越城(後の川越城)を築城させ、そこを扇谷上杉家の本拠地とした。また、同年、太田道灌に江戸城を築城させ、道灌が城主になった。


③「享徳の乱」中期……五十子陣


 1458年、京の足利将軍は、古河公方(足利成氏)に対抗するため、新たな鎌倉公方を派遣した。ところが、鎌倉を中心とする武士たちは、反将軍・反新公方の意識が強く、結局、新公方は鎌倉へ入れず、鎌倉の手前の伊豆の堀越に留まった。そのため堀越公方と称された。


 古河公方陣営と関東管領(上杉氏)陣営の合戦は、どうなったのか。個々の合戦は省略するが、1457年、関東管領(上杉氏)は古河城に対抗する最前線の拠点として、五十子陣(いかっこのじん、現在の埼玉県本庄市)を築いた。そして、関東管領(上杉氏)軍の主力は五十子陣に参陣した。太田道灌も1474年に参陣している。五十子陣を中心に、両陣営は勝ったり負けたり、そんな状態が20年も続いた。


 ここで、上杉氏について説明します。


 上杉氏の出自は諸説あるようだが、鎌倉時代後期には、そこそこの武家であった。室町幕府の初代将軍・足利尊氏の生母が上杉氏だったので、重んじられるようになった。上杉氏は関東管領を世襲し、上杉氏一門が上野、越後、武蔵、相模の守護となった。


 上杉氏は、山内上杉家が嫡流で、一門から犬養上杉家、宅間上杉家、扇谷上杉家が出た。この4家の名前はそれぞれの屋敷があった鎌倉の地名が由来である。


 宅間上杉家は早い時期に衰退し、犬養上杉家は上杉禅秀の乱(1416年)によって力を喪失する。


 享徳の乱以前は山内上杉家の実力は扇谷上杉家の2倍以上あったと推測するが、享徳の乱を通じて、太田道真・道灌父子の活躍により、互角の実力になった。享徳の乱に際しては、両上杉家は連合して古河公方と戦っていたが、享徳の乱が終わると両家は争うようになる。その結果、両上杉家は力が減退し、扇谷上杉家は後北条氏に滅ぼされる。山内上杉家も後北条氏の攻撃に耐えきれず関東を放棄し越後へ逃れる。越後は、もともとは山内上杉家の分家であったが、この頃は家臣筋の長尾氏が力を持っており、上杉の名称と関東管領職を譲る。それが上杉謙信である。


④「享徳の乱」後期……太田道灌の大活躍


 五十子陣の攻防は一進一退であった。それが急変したのは、1477年、山内上杉家の重臣・長尾景春が古河公方と手を組んで、五十子陣を急襲したのだ。長尾景春の乱である。両上杉家首脳は東上野へ敗走する。


 関東の伝統的豪族は、長尾景春の乱を歓迎した。つまり、両上杉家は危機に陥った。そこに太田道灌の大活躍。石神井城の豊島氏など各地の長尾景春に呼応する豪族を打ち破る。そして、用土原(埼玉県寄居町)・針谷原(埼玉県深谷市)で長尾景春の軍に大勝利する。長尾景春は古河公方(足利成氏)に援軍を求め、古河公方が本格的に参戦する。


 太田道灌は各地の長尾景春陣営(千葉氏など)を破って、ほぼ長尾景春の乱を平定したが、享徳の乱の本星である古河公方は健在である。しかし、伝統的豪族が太田道灌に次々と撃破されたためか、戦乱の歳月が28年にも及んだためか、古河公方は室町幕府と和議を求めるようになっていた。最初の和議の話から5年を経た1482年、和議が成立して、享徳の乱が終わった。


 享徳の乱によって、扇谷上杉家の支配地域は倍増した。太田道灌は扇谷上杉家の「家宰」である。家宰の権限は極めて大きく、扇谷上杉家の支配地域は表面的には拡大したのであるが、その事実上の支配者は家宰である太田道灌であった。扇谷上杉家当主・上杉定正の耳には、複数の方面から「道灌謀反」の声が聞こえてくる。


 享徳の乱収束から4年後、扇谷上杉家当主・上杉定正は、相模糟屋にて太田道灌を暗殺する。


(4)豊島氏との戦い……練馬区・杉並区・中野区


「享徳の乱」後期、長尾景春の乱に、石神井城・練馬城の豊島氏が同調する姿勢をみせた。豊島氏の支配地域は、扇谷上杉家の本拠地である河越城と太田道灌の居城である江戸城の中間にある。つまり、扇谷上杉家の戦力が分断されてしまう。


 豊島氏の本拠地は石神井城で当主・豊島泰経がいた。練馬城は支城で、弟の豊島泰明がいた。石神井城の場所は東京都練馬区の石神井だが、練馬城の場所は、遊園地「としまえん」(2020年に閉園、練馬区向山)である。


 以前、私は、豊島区に「としまえん」があるならば当然だが、練馬区になぜ「としまえん」があるのか、と不思議に思った。調べたら、武蔵国豊島郡とは、現在の千代田区・中央区・港区・台東区・文京区・新宿区・渋谷区・豊島区・荒川区・北区・板橋区・墨田区南部・練馬区の大部分(大泉地域を除く)の地域で、その豪族が豊島氏である。「としまえん」は豊島郡であり、豊島氏の城があった、ということで謎は解けた。


 太田道灌は豊島氏と、どんな戦いをしたか? 道灌が関東管領・山内上杉顕定の被官高瀬民部少輔に充てた長文の書状『太田道灌状』に戦いの様子が書かれてあるが、不明な部分も多い。さらには、自分が書いた書状だから「自分を立派にみせよう」という気持ちが反映されているのではなかろうか。というのは、杉並に伝わる話と相当違うのだ。そんなことで、「太田道灌は正々堂々の武将」と「太田道灌は勝つためには手段を選ばない武将」の2パターンを書いてみます。


㋐「太田道灌は正々堂々の武将」パターン。これは、『太田道灌状』が基本である。


 道灌は、まず小さいほうの練馬城を攻撃した。練馬城に矢を射り、火を放った。練馬城主・豊島泰明は、石神井城に援軍を求めた。石神井城の豊島家当主・豊島泰経は全軍を率いて練馬城救援に出撃した。両軍は江古田原(現在の東京都中野区)で激突して「江古田・沼袋原の戦い」となった。戦いの結果は、道灌軍の勝利で、弟・豊島泰明は戦死した。兄・豊島泰経及び生き残った兵士は石神井城へ敗走した。


 その後、道灌は、石神井城を攻めるため愛宕山(現在の早稲田大学高等学院付近)に陣を置いた。数日後、和平交渉が成立した。豊島泰経が和平条件の「城の破却」を実行しなかったので、道灌軍は総攻撃した。豊島泰経は城を捨てて逃亡した。豊島泰経は再起を図るべく転々とするが、その度に道灌軍が追撃した。そして、豊島泰経は行方不明になり、豊島氏は滅亡した。


㋑「太田道灌は勝つためには手段を択ばない武将」パターン。以下は、『杉並郷土史叢書4、杉並の伝説と方言』(森泰樹著)によります。


 杉並区に伝わる伝承が基本である。石神井城のすぐ南方面が杉並区である。杉並区北西部の上井草・今川には、道灌山、道灌坂、道灌堀、道灌橋の名称が伝わっている。杉並区上井草3丁目14番には「道灌橋公園」がある。三谷小学校の北である。そして、上井草・今川の少し南の荻窪八幡宮には太田道灌が必勝祈願のため植えた槙(まき)が存在している。道灌が石神井城を滅ぼした際、この辺りに本陣を設けたのであろうと推測される。


 さて、杉並区に伝わる伝承は、『太田道灌状』の戦とは全然違う。


 豊島泰経は毎朝、石神井城から井草八幡宮(杉並区善福寺1丁目33番、上井草・今川の西隣)へ乗馬で出かけていた。まぁ、身体訓練と領地視察であろう。その日も、4~5人の供を連れて上井草4丁目3番へ来ると、5~6人の農民が道路整備をしていた。「早朝より道路整備とは感心なことじゃ、褒めてとらそう」と、馬の速度を落として近づいた。その瞬間、農民は隠し持っていた槍で、豊島泰経を串刺しにした。豊島泰経は落馬した。豊島泰経のお供は農民(太田道灌の待伏せ兵)を蹴散らせ、豊島泰経を助けて石神井城へ帰った。しかし、間もなく死亡した。この地は「道灌の切通し」と呼ばれ、現在は「切通し公園」になっている。


 その日、道灌軍本体は、弟・豊島泰明の平塚城(東京都北区中里)を攻撃したが、城の豊島軍が強く、さらに、練馬城などから援軍も来て、道灌軍が逆に包囲されそうになったので、城下周辺を放火して江戸城へ引き返した。


 平塚城に、豊島家当主・豊島泰経が騙し討ちで死亡の連絡が来た。弟・豊島泰明は「石神井城が危ない。当主が急死して混乱しているに違いない。そこを道灌軍に攻められたらヤバイ」と判断して、平塚城の兵士および援軍に来た練馬城の兵士など約300人を連れて石神井城へ出発した。


 江戸城の道灌は、豊島泰経襲撃成功の連絡が入ると、平塚城攻撃から帰った兵を再編成して1000人の軍として、本人も石神井城へ向かった。


 両軍は、江古田原で遭遇して「江古田・沼袋原の戦い」となった。多勢に無勢、豊島軍は総崩れとなり、豊島泰明はじめ約150人が戦死した。


 杉並区桃井1丁目23番に「おこり塚」が、昭和35年頃まであった。これは、敗走した豊島軍を道灌軍が追撃し、ここら辺りで戦闘が行われ、道灌軍の戦死者を葬った墓と云われる。「おこり」とは熱病で、塚を荒らすと「おこり」になるという伝説で、たぶん墓荒らし防止の伝説でしょう。当時は雑木林で、いくつも塚があったが、1つだけになってしまったが、それもなくなった。現在は、住宅が並んでいるだけなので、探し回らないように。塀の中を覗き込んでいると、泥棒に間違えられます。


 翌日、太田道灌は、荻窪八幡宮で必勝祈願のため、槙(まき)を植樹した。現在は高さ20mで境内にあります。


 そして、道灌軍は、愛宕山に第1陣、観音山(練馬区上石神井1丁目、井草高校付近)に第2陣、道灌山(杉並区上井草3丁目、上井草総合運動場付近)に第3陣、そして今川4丁目28番付近に本陣を置いた。


 道灌軍は石神井城を攻撃したが、簡単に落城しそうにない。そこで、使者を送り、降伏を提案した。攻撃と降伏提案が繰り返された。そうこうすると、豊島軍は、当主の豊島泰経は待伏せで死亡、弟の豊島泰明も「江古田・沼袋原の戦い」で戦死、最高指揮官不在の脆さが噴出して意見バラバラ。結局、降伏した。


 道灌の条件は、石神井城の防御施設を壊すことだったので、豊島側は防御施設を壊し始めた。防御施設の取り壊しが終わったら、突然、道灌軍が攻め込んだ。大部分の兵士は戦死し、奥方は自害し、息女照姫は豊島家の家宝と黄金の鞍の馬に乗って、三宝寺池へ飛び込んで死亡した。


 石神井公園の中には、照姫の塚があり、毎年「照姫祭り」が行われている。三宝寺池の黄金伝説は、今も人々をワクワクさせているようだ。


㋒太田道灌の猫伝説。「江古田・沼袋原の戦い」は、かなりの激戦であった。初戦はものすごい激戦で、みんなバラバラ状態。その夜、道灌は1人で道で迷ってしまった。すると、1匹の黒猫が現れ、自性院(新宿区西落合1―11-23)に招き入れ一夜を明かした。黒猫が道灌の危機を救ったのである。


 合戦の後、道灌はその猫を江戸城へ連れて帰り可愛がった。その猫が死んだので、石像をつくって自性院に奉納した。


 江戸時代になって、この「猫地蔵」は人気が出て、参拝者が頭を撫で回したので、つるつるになってしまった。それで、秘仏となり、年1回、節分の日の御開帳となった。自性院は「猫寺」という愛称で、有名らしい。


 それでは、猫好きが困るだろうということで、新宿住友三角ビル前の三角広場に、猫の像が設けられた。有名な彫刻家・流政之の作品である。猫の名前は「玉ちゃん」と名付けられた。


 最後に、太田道灌の本当の姿とは?


 道灌の「足軽軍法」とは何か。明確ではないが、たぶん、あらかじめ訓練した足軽を伏兵として隠しておく。騎馬武者が敵に向かっていき、敵の騎馬兵が寄ってきたら、「馬を返して」逃げる。敵騎馬兵は追いかける。伏兵の足軽が槍で敵騎馬兵を打ち取る、という戦法だろう。要するに、「騙し」である。


 格好よく言えば、孫氏の「兵は詭道なり」である。泥臭く言えば、「切り取り強盗は武士の習い」(江戸時代に庶民の間で流行った言葉)である。平易に言えば、「勝つためには手段を選ばず」である。これが太田道灌の姿だろうと思う。儒教的武士道とは、まったく違う。


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太田哲二(おおたてつじ

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。