●またパターナリズムになっていく


 このシリーズでは一貫して、この30年間ほどで臨床現場での「聴く力」の評価重視が勢いを増している状況を眺めている。鶏が先か卵が先かの議論に堕すつもりはないが、その状況がどうして生まれてきて、臨床側、患者側から受け入れられ始めたのか。筆者としては「脱パターナリズム」が契機となっていると考えている。


 一方で、「聴く力」あるいは「傾聴」が臨床現場で評価され、必要な技術であり、ルーティンであるとの認識が生まれ、その実績がいくつかエビデンスを持ったことで、パターナリズムとの決別を促す動機となったという主張もあるかもしれない。どちらが先かは別にして、それがパターナリズムからの脱却に大きな力を与えているという前提はつけておいていいのではないか。


 前回は、ニューヨーク在住の内科医で、ニューヨーク大学医学部准教授のダニエル・オーフリの著書『患者の話は医師にどう聞こえるのか』は、「診察室のすれ違いを科学する」を中心に、医療者側からの「レポート」として、傾聴を主体とする良質のコミュニケーションが医療に与える高い品質の科学的エピソードを活字で知ったことを紹介した。


 そこには、聴く力によって死の寸前にいた患者をコミュニケーション不足から見逃しそうになったことや、文字が読めない患者への気づきの遅さがもたらしたリスクの例などがあった。とくに筆者が注目したのは、オーフリの、医師にも患者にも内在する「差別」がもたらす不幸感の存在の指摘であり、その科学的な医療の質に対する影響分析であった。


 またオーフリは、「ふるまいやコミュニケーションの取り方を改善することはもちろん重要だが、医療に従事するわれわれは、同様に心の持ちようを変える努力をする義務もあると思う」と述べつつ、「高いプロ意識を受け継いでいきたいと思うのであれば、少なくとも直感的な感情に自分の方から挑んでいく必要がある。最初のステップは、なにもかも潔く白状することだ」とパターナリズムに陥らないルーティンにまで言及した。


●過去を遮断することのリスク


 すでにパターナリズムの弊害は論考すべきときではないが、しかし、未だに多くの臨床医や患者の一部からその弊害排除を求める声が上がるのは、それでもなおかつパターナリズムを残したままの現実が臨床の世界に色濃く残っていることを示しているともいえる。


『わたしたちはどんな医療が欲しいのか?』を書いたドイツの緩和医療専門医ミヒャエル・デ・リッダーは、「患者さんにとっても、医師にとっても、人間性が失われていることこそが現代医療の苦難の本質です」と、一貫する硬骨な主張の中で、パターナリズムの排除の必要を語っている。医療資源の濫用の基本的要因、構造化している要因を彼はパターナリズムを第一に挙げているのだ。その意味で言えば、「パターナリズム」は「知らしむべし、寄らしむべし」の父権主義的なニュアンスと、教条主義的なニュアンスをまとっていることも明らかになる。


 パターナリズムの教条主義的な側面として、リッダーが指摘する「医療資源の無駄遣い」も、ある意味容易に想像できるものではあるが、新たな考え方や新たに常識となった医療慣行は、それが定着し、医療常識として浸透すると、いつのまにかパターナリズムの教条主義の道具としての側面も見え始める。


 もっとも、そのリスクが高まっているのがインフォームドコンセントだ。この「説明と同意」と訳される医療用語は、今や慣習化された診療ルーティンの一部と化した。筆者はテレビの医療ドラマの中で、「インフォームドコンセント取れました」というセリフが高らかに叫ばれるシーンを何度かみた記憶があるが、そうした「定型化された新たな医療慣行」は実はすでにパターナリズムの道具であり、それが何の内省もなく、疑問を持たれずに医療で使われている背景に、やはり「パターナリズム」の頑健な存在を見ることができる。


 哲学者の國分功一郎と医師の熊谷晋一郎の対談講義集『〈責任〉の生成』で、國分はOECDが提唱する「キー・コンピテンシー」を、問題含みと前提しながら借り、「キー・コンピテンシーに象徴される現代社会というのは、パターナリズムの否定から生まれている」と述べて、熊谷の意見を促している。


 なお、OECDのキー・コンピテンシーとは「単なる知識や能力だけではなく、技術や態度をも含むさまざまな心理的・社会的リソースを活用して特定の文脈の中で、複雑な要求(課題)に対応することができる力」と定義されている。


 これに対し熊谷は、自ら脳性麻痺という重い障害の精神的なシバリからの解放が、80年代以降のパターナリズムの否定から進んできたという状況を肯定しながらも、キー・コンピテンシーは「意志を持って前向きに、過去のことはすぐに忘れて、とにかく振り返らずに前だけを向いて生きていく」という、遮断の力を持つ「意志」の力への傾倒に警戒も示している。


 両者の対論をこうした文脈で読むことは浅薄すぎて躊躇するが、過去のことはまったく省みないということでパターナリズムの否定が生まれると、結局はそれ自体がパターナリズムになってしまうというレトリックが生まれる認識を筆者は持つ。


●患者に強く残る医療者の父権性


 いくつかの医療における「聴く力」「傾聴」という臨床現場での態度がルーティン化すると、インフォームドコンセントのようにいつしかアリバイとしてパターナリズムの道具になってしまうリスクは高いと思う。何より、オーフリは「実績」として「傾聴」が誤診やインシデントのセーフティネットとして機能することを、自らの学びとして報告はしているものの、それだけを効用として強調しているわけではない。患者が何を考えているか、何を訴えたいかを聴く力そのものを重視しているのである。


「自分が知らない何か」、そしてそれを共有する手立ての探索」自体が、オーフリにとって必要なことだ。そして、肝心なのは「過去を遮断しない」ということも、そうは直接に語っているわけではないが、実はキー・コンピテンシーの先をすでに見ているということかもしれない。


 こうしてみてくると、実は「聴く力」が、有力な診療形態として成立するには、過去のパターナリズムを常に「棚卸し」し、反芻し、今ある新しい「聴く医療技術」が教条化されてはならないという代謝の連続性が必要だということに気が付き始める。さらに医療者側の「聴く力」を研いでいくためには、患者側の「話す力」の必要も今後は大きな声で語られる必要がある。患者が、医療側には常に父権性を有しているという認識がいつまでも強固に存在し続ければ、医療側が聴きたくても聴けない状況が続く。医療者側はそのために、自らのパターナリズムを排除することが認識されている状況に、現状があるといえるだろうか。


 例えば「告知」はどうであろうか。患者は「告知」される側でいていいのか。そして、「エビデンス」はパターナリズムの都合のいい道具にはならないだろうか。過去のパターナリズムを咀嚼しながら、「告知」も「エビデンス」も新たな診療方法として活用されるために「聴く力」のなかでどう考えていけばいいのだろうか。(幸)