農林水産省は大阪堂島取引所が申請していたコメ先物取引の「本上場」を認めないことに決めた。「試験上場」を続けてきた取引所が「10年間の試験上場で生産者も流通業者も増加している」として、正規の「本上場」を申請。ところが、農水省は「取引参加者数は少ない。認可基準を満たしていない」と判断し本上場を認めないことにしたのである。


 大阪・堂島のコメ先物取引といえば、江戸時代の1730年に幕府から認められた世界最初のデリバティブ取引である。今回の決定でコメ先物取引は消滅することになる。


 周知のように、江戸時代後半には貨幣経済が進んだが、諸大名の収入は気候に左右される年貢米だったため、時代の進歩に追い付けず、諸藩は借金漬けに陥った。その借金の担保として来年収穫する年貢米を札差や蔵元などの商人に約束したのが始まりだ。なかには来年の年貢米だけでは足りず、再来年の年貢米を借金の担保にする大名も現れた。


 この困窮状態に幕府が諸藩を救うために借金をチャラにする徳政令を出すこともあったが、逆に信用がなくなり、次には貸さなくなる。こうした状況から、大阪の商人たちが幕府に来年収穫するコメを取引する先物取引の許可を求め、コメ先物取引が認められたという経緯である。


 だが、太平洋戦争が始まると、コメ先物取引は廃止させられた。戦後は食糧難でコメは配給制になり先物取引どころではない。その後、食糧難が解消したときには、自民党の支持基盤である農協が反対し、先物取引は認められなかった。歴史に「もし」は禁句だが、もし戦争がなかったら大阪は世界のデリバティブ取引の中心になっていたかもしれない。そのコメ先物取引が戦後、認められたのは民主党政権下の2011年。コメ価格決定の透明性と需給価格の指標になることを期待した試験上場だった。


 09年に成立した民主党政権は、巨額の税金を投入しながら、すでに破たんしていた減反政策に代わり、「戸別生産補償方式」と呼ばれる農業政策を実施した。中身は需給に合わせたコメ生産農地を指定し、その農地にはコメ価格が下がった場合は、政府が生産費を補填し、指定されなかった農地にはコメでもコメ以外の穀物、あるいは野菜でも好きなものをつくっていい、という農業政策だ。


 農村を歩くと、指定農地の田圃には旗が立っていたからすぐにわかった。農民は補償を受けられる指定生産農地でも指定しなかった農地でつくるコメも差はない。手入れに格差を付けると却って手間暇がかかってしまうからだ。しかも、生産補償方式では指定以外の農地でつくったコメを自由に輸出するという狙いもある。


 当時、中国には50トンくらいを輸出していたが、人気のある日本米は50万トンくらいに伸ばせるという目論見もあった。この生産補償方式という農業政策を支え、かつコメ価格の指標にしたいとう発想でコメ先物取引の試験上場を認めたものだった。


 この民主党の農業政策は優れた政策だった。というのも、生産補償方式はフランスなどヨーロッパで行われている農業政策で、アメリカは日本に対しカリフォルニア米を買え、と要求できないのだ。減反政策のような補助金ではないからだ。なにしろ、アメリカでも生産奨励として税金を支給しているためである。


 だが、政権が代わり、12年に安倍晋三内閣になると、戸別生産補償政策は変更された。安倍首相は政策の善し悪しよりも、民主党がつくったものかどうかで判断した。そのいい例が生産補償方式で、民主党が実施した政策として廃止し、その代わりに需給に見合った分のコメをつくらせ、あとの農地でつくられたコメは「飼料用米」として補助金を出す政策に変えた。


 飼料用米は価格が安いが、補助金で埋め合わせるという内容だ。結果、食用のコメをつくるよりも、飼料用米をつくったほうが補助金で確実に儲かるというおかしな事態も起こった。誰もコメの流通を追跡していないようだが、どうも飼料用米が牛のエサではなく、大量に、かつ安く仕入れたい外食産業に流れているような気がする。


 それはともかく、コメの先物取引が活発にならないのは農協の反対があるからだ。かつてはすべてのコメを農協が集荷し、精米業者に売り渡していた。だが、時代の変遷で農協が扱うのは6割程度に減少している。「庭先取引」というものが現れたからだ。庭先取引とは文字通り、農家の庭先で精米業者と農家が価格と量を交渉して農協を通さず売買するものだ。農家にとっては農協の手数料を節約できるし、精米業者も手っ取り早い。さらに最近は農家がネットで直接販売する手法も現れている。おかげで人気の銘柄米や大規模生産者のコメは農協経由が少なくなっているともいう。


 だが、それでも農協の力はまだ強い。政治力もある。以前は農協の協力がなければ当選できなかったが、今は、当選させられなくても、落選させる力がある。その農協がコメの先物取引に反対している。先物取引が認められると、農協の価格支配ができなくなってしまうからである。


 試験上場でコメの先物市場が期待に反して活発にならなかったのも、主に農協の反対によるものだ。先物市場の参加者は、当業者と呼ぶ生産者、精米業者、輸出入と流通を担う商社、さらに取引業者や相場師などが参加するが、取引の始まりは多くが「売り」から始まる。それに対し参加者が自身の需給や相場観から買いと売りが入り混じり価格が決まる。だが、6割の量を握る農協が加わらないのだ。


 例えばシカゴの穀物市場では、小麦取引では現物を所有している大規模農民が売り注文を出し、取引が始まるが、日本の農民には売りに回るだけの度胸がない。農協から「村八分」にされるのが怖いのかもしれない。結果、当事者が積極的に参加しないコメ先物市場は細々としたものに終始している。


 しかし、指標になるべきコメ先物市場がなくなったらどうなるのだろう。恣意的な価格になったり、地域ごとにバラバラな価格になったりしてしまいそうだ。政府が価格を決めたりしたら、それは社会主義と同じだ。先物市場がなくなることは消費者にとっても生産者の農家にとってもいいことではない。先物市場は「資本主義のメッカ」である。日本の資本主義の後退と言うべきなのだろう。


 先物市場がなくなるということは、日本の農業の衰退を示すものだ。筆者が先物商品市場を取材するようになったのは昭和50年代だったが、商品市場に出入りして取材する週刊誌記者など皆無だった。業界紙だけだった。商品先物市場は全国に散らばっている。東京と大阪を双頭に生糸は横浜、乾繭(乾燥したマユ)は前橋と関門、といった具合に各地にある。


 東京では証券取引所のある兜町と日本橋川を挟んだ対岸の蛎殻町に東京穀物取引所があり、その周囲に商品取引会社が軒を連ねていた。兜町と蛎殻町を結ぶ兜橋は俗に「涙橋」と呼ばれていた。相場で失敗して帰る人が涙を流しながら渡るからだそうだ。


 だが、この世界は面白い。大物相場師がしばしば仕手戦を繰り広げていたからだ。仕手戦で勝利した相場師は大概、「長者番付」に載るが、翌年には相場に失敗してスッテンテンになったりしている。大物相場師は「〇〇筋」と呼ばれた。例えば、静岡筋といえば栗田嘉記氏だし、桑名筋とは板崎喜内人氏だ。どちらも大相場で勝利した人物だが、相場に失敗してスッカラカンになることもある。栗田氏は債鬼たちがアパートに押し寄せてお互いにどうするか話し合っているとき、水槽の金魚を無心に眺めていたといわれ、板崎氏は株の世界から商品の世界に入った大阪の相場師だった。が、相場に失敗、リヤカーに家財を積んで桑名に引っ越した、なんていう伝説を持っていた。彼らには信者というか、支持者がいて、相場に失敗しても、また資金を提供して相場を張らせ、再起するのだ。


 帯広筋とは小豆相場で大儲けした鈴木樹氏だ。六本木筋と呼ばれたのは東京・六本木周辺を縄張りにした暴力団だという。もちろん、筋と呼ばない場合もある。銀座にショールームをもつポルシェの販売会社の社長は「ポルシェ」と呼ばれたし、大物相場師と恐れられた岐阜の本多忠氏は「マムシの本忠」と呼ばれていた。マムシなんていうから怖いのかと思うと、とんでもない。すこぶる付きの紳士だった。


 ベアリング・システムのTHK創業者の寺町博氏も大物相場師に数えられていた。工業高校卒業後、南方戦線に送られたエンジニアである。復員後、スウェーデンのベアリングメーカーとの合弁会社の社長を務めていたが、相場で失敗。23億円の穴をあけてしまい、親会社から「博打をやるような人は社長にふさわしくない」と解任されてしまった。


 だが、寺町氏はTHKを創業。ベアリングといえば、誰しも球体を思い浮かぶが、寺町氏はニードルベアリングを考案した。このニードルベアリングを採用した日本のオートバイはマン島の国際レースで上位を独占した。球状のベアリングは1分間に3000回転しかできないが、ニードルベアリングは8000回転もするのだ。今日でもマン島のオートバイレースは日本のホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキのバイクばかりが走っている。


 寺町氏によれば「中学時代の恩師が小豆相場に失敗し大損したので取り返してやると小豆で大勝利。ついでに生糸相場に手を出したら失敗してしまった」と語っていた。彼はその後、数値制御の「LMガイド」と呼ぶベアリング・システムを考案し、THKを世界的メーカーに育てたが、社長を譲り、自身は商品取引会社を買収して先物相場にのめり込んだ。「株より先物相場は面白い」というのがその理由だった。


 元プロ野球のピッチャーが社長をしていた商品取引会社もあった。オーナーが先物取引の衰退から証券会社に衣替えしたとき、どうするのか聞くと、「社員は全員証券会社に移ってもらうが、株より商品先物のほうが面白いから、自分だけは商品相場の世界に残る」と語っていた。相場師にとってはスッカラカンになっても相場が面白いらしい。一度、入ったら抜けられない世界のようだ。


 彼ら相場師は乾繭や小豆、生糸などで互いに買い方、売り方で争うこともあれば、誰かが買い占めを始めると、名だたる相場師が売り方に回り大相場になることもある。しかも買い方の旗艦店になった商品取引会社が買い方を支援すると、その会社の外務員が売り向かい、双方がえげつない言葉で相手を攻撃するのだ。なにしろ、証券市場では客を投資家と呼ぶが、商品市場ではそんなやわな呼び方はしない。堂々と「投機家」と呼ぶ。正に鉄火場だった。


 だが、そんな相場師たちが活躍したのは過去の話。伝説的な相場師に代わって、大手商社や機関投資家が気候や需給見通しを基本にした相場に代わった。しかし、それも長くは続かなかった。先物市場が活況を呈したのはせいぜい昭和のバブルが始まるころまでだった。


 生糸や大豆、小豆や乾繭も次々に消滅していった。理由は国内生産の減少である。国産小豆が需要の9割を占め、日本の活況ぶりからシカゴの穀物取引所が小豆の市場をつくったほどだが、バブルのころには国産小豆は消費量の1割に落ち込み、9割を輸入に頼るようになった。大豆も半分以上が国産大豆だったが、安い輸入大豆が増え、それにつれて栽培をやめる農家が増え、輸入に頼るようになった。絹の着物が売れなくなり、生糸と乾繭も需要と供給の双方が減少……。


 輸入物では生産地の都合で価格が動き、国内の先物市場は成り立たなくなるのである。商品取引のメッカであった東京穀物取引所の跡地はマンションに代わった。実は、中国は日本から先物取引の仕組みを学び、先物市場を創設したが、今も活況なのは自国で9割以上を生産する緑豆くらいしかない。


 つまり、穀物にしろ、商品にしろ、国内で自給できなくなったとき、先物市場は成り立たなくなるのだ。唯一、コメだけは日本が自給自足している農産物である。当然、先物市場が成り立つ商品である。その米の先物市場を廃止するということは、逆説的だが、コメも自給できなくなる可能性が高いといえなくもない。


 食糧自給を達成するためには、価格決定の透明性と安定性を確保する先物市場が必要である。投機で一時的な高騰や暴落があったとしても、あくまで一時的なものであり、最終的には需給に見合った価格に落ち着く。それが市場経済の鉄則だ。食糧自給を維持するためにも先物を続ける必要があるはずだ。


 農業政策は10年先を見据えなければならない。ところが、日本の農政は猫の目政策が続いてきた。大規模農業を進めたかと思うと、数年後にはやめ、第2種兼業農家である三ちゃん農業を支援する……。結果、やる気のある農民は意欲を失い、自給率は下がってきた。


 テレビで農業で成功したと紹介されているのは、ほとんどが、新鮮さが命の野菜である。基本食料のコメや小麦ではない。コメの先物取引市場廃止は、唯一、食糧自給を維持しているコメさえ、将来、自給自足を維持できなくなるのではないか、という不安を呼ぶ。(常)