1)粘菌は、動物か植物か


 南方熊楠(みなみかた・くまぐす、1867~1941)は、奇人・天才である。私が思うに、彼は森羅万象をことごとく知り尽くそうという強烈な欲求があった。当時の通常知識では、万物は、動物・植物・非生物(鉱物)に3分されていた。そして、先端学者の間では、動物と植物の境界が注目されていた。


「これは、動物なのか、植物なのか……、動物のような植物のような奇妙な生物、これはどう理解すべきか……」というわけだ。それが解明され、さらに、生物と非生物の境界が解明することが、万物を知ることに通じる。知識欲の行き着くところは、森羅万象、万物を知ることである。南方熊楠は、それに突進したのである。


 南方熊楠は、植物学者、生物学者、博物学者と言われるが、最も適切な呼び方は「博物学者」ではなかろうか。自然界に存在するすべてを研究する学問を博物学という。それは、途方もなく広範囲である。


 自然界、すなわち、動物界・植物界・鉱物界の3界を研究する学問を博物学という。研究の基本は、野外での採集・観察である。したがって、化石や昆虫が大好きなアマチュアが、時々、新種の発見をしてマスコミを賑わすことがある。今日では、分子、原子、遺伝子を研究の基礎にするが、南方熊楠の時代は、採集・観察の時代であった。


 なお、彼の研究は、博物学以外にも、民俗学、人類学などさまざまな分野に及んでいる。


 南方熊楠といえば、粘菌の研究である。とはいうものの、粘菌って、なぁ~に?


 それでは、生物の分類について、少々説明します。


 古代から、生物は「動物」と「植物」に2分する2界説で分類されていた。


 近代科学の時代となり、1894年、ドイツのヘッケルが3界説を提唱した。従来の「動物界」「植物界」に「原生生物界」を加えたのである。動物でも植物でもない生物を全部ひとまとめに「原生生物界」とした。ここで注意してほしいのは、「原生生物界」は、その後、2分・3分される。


 1969年、米国のホイタッカーは、「植物界」を「植物界」と「菌界」に2分し、「原生生物界」を「原生生物界」と「モネラ界」に2分して、5界説を提起した。しかし、70年代に入ると、DNAやRNAの研究により、ウーズは「モネラ界」を「真正細菌界(≒細菌)」と「古細菌界」に2分した。そして、通常は「モネラ界」は使用されなくなった。ただし、学校の教科書では未だに「モネラ界」が登場しているようだ。時代遅れの科学的知識を教えるのは困ったことだが、なぜか問題視されない。


 結局のところ、現段階では、ウーズの6界説すなわち「動物界」「植物界」「菌界」「原生生物界」「古細菌界」「真正細菌界」の分類が一般的であるようだ。


 したがって、先ほど注意してほしいと書いたのは、ヘッケル3界説の「原生生物界」とウーズ6界説の「原生生物界」では、大幅に範囲が異なる、ということだ。3界説の「原生生物界」は、6界説では「原生生物界」「古細菌界」「真正細菌界」に分かれるのである。


 なお、補足を。


 90年代に入ると、DNAやRNAの研究により、「動物界」~「原生生物界」を一括して「真核生物」とする、3ドメイン説(「真核生物」「古細菌」「細菌」)が登場した。さらに、最新学説は、「真核生物」と「古細菌」を合体させて、全生物を「古細菌」と「細菌」に2分する説も流行している。

 

 さて、南方熊楠の粘菌の話であるが、粘菌(変形菌)は6界説の「原生生物界」に位置する。6界説の「原生生物界」の主なものは、㋑藻類(昆布、ワカメ、アサクサノリ、アオミドロ、クロレラ、ミドリムシなど)、㋺原生動物(アメーバ、ゾウリムシなど)、㋩粘菌、㊁卵菌(水かび)、㋭その他――となる。そして、粘菌には、変形菌(真正粘菌)、細胞性粘菌、原生粘菌の3群がある。


 20世紀の粘菌イメージは、「キノコ(菌類)と動物の性質を持ち、植物だか動物だかわからない原始的な群体性生物で、ネバネバしている」といったものである。また、20世紀では粘菌とされていたものが、21世紀には「粘菌でない」とされたものも多い。だから、南方熊楠の頃は、まさに、粘菌は、動物と植物の間の神秘不思議な生物であった。南方熊楠は、粘菌の神秘が解明できれば、万物の神秘を氷解させる鍵となる、と思っていたのではなかろうか。


 当然ながら、南方熊楠は生物に関して、粘菌だけを研究していたわけではない。シダ、コケ、菌類(キノコなど。南方熊楠は70種類の新種を発見)、地衣類(菌類であるが藻類と共生して生きる)、藻類、高等植物、昆虫なども研究していた。南方熊楠は、キノコの図譜3500枚、藻類のプレパラート(顕微鏡観察のために処理したもの)4000枚、粘菌標本7000点を残した。


(2)ウイルスは、生物か非生物か


 本筋から離れるが、ウイルスに関し一言。南方熊楠が現代に生まれていれば、必ずや、このテーマに取り組んだと思うので。


 ウイルスは、自己増殖はできないが、遺伝子を有する。ウイルスが「生物であるか、ないか」は説が分かれている。要は、生物の定義によって、判断が分かれる。


 ウイルスは、他の生物の細胞に入って増殖する。


 ウイルスは、大雑把に言って、生物の細胞の数百分の1の大きさである。生物で最も小さいのは各種の細菌(単細胞生物)であるが、ウイルスはその数十分の1の大きさである。


 ウイルスの種類であるが、生物の種類よりも多いことは確かである。野生鳥獣を宿主とするものだけでも、170万種あるといわれ、その半数が病原体になるリスクがあるようだ。


 生物の細胞は2分裂によって、「2のN乗」で数を増やす。しかし、ウイルスは感染した宿主細胞内で一気に増殖する。また、感染したウイルスは細胞内で見かけ上は存在しない期間(暗黒期)がある。当初、新型コロナウイルスの暗黒期は2週間程度と言われていたが、変異種のためか、1週間程度に短縮されたみたい。暗黒期に検査しても陰性と判定されてしまうので、厄介なことだ。


 ウイルス感染は、さまざまな病気を起こす。総称して、ウイルス感染症という。インフルエンザ、天然痘、麻疹、風疹、後天性免疫不全症候群(AIDS)、新型コロナウイルス感染症などで、しばしばパンデミックを起こす。


 一般的に、長期的に見ればウイルスは弱毒化するが、短期的には強毒化する場合もある。その長期・短期の期間は、不明である。新型コロナウイルス感染症で、「ウイルスは弱毒化する」の解説を聞いて楽観する人がいたが、解説を自分の都合のよいように勝手に思い込む癖なのであろう。願望を事実と思い込む人物が、権限ある地位につくと悲惨なことが発生する。


(3)サンフランシスコ、ミシガン、フロリダ、キューバ、ロンドン


 1867年(慶応3年)、南方熊楠は、現在の和歌山市で、金物雑貨屋の次男として生まれる。金物雑貨屋だから商品を包む反故紙(ほごかがみ)がドッサリあった。幼い日々、その反故紙に書かれてある絵と文字を片っ端から、眺め暗記し読んだ。


 「十で神童、十五で才子、二十過ぎれば只の人」という言葉があるが、南方熊楠には該当しない。幼少から天才、死ぬまで天才。ただし、幼少から奇人、死ぬまで奇人であった。


 小学生の頃、近所のお宅で『和漢三才図会』を初めて見て、父にねだったが買ってもらえなかった。『和漢三才図絵』は、江戸時代中期に編纂された絵入り百科事典である。編纂者は寺島良安(1654~?)で、約30年かけて、1712年に成立した。


 和漢の事象を天(1~6巻)、人(7~54巻)、地(55~105巻)の3部(三才)105巻81冊の膨大なる百科事典である。日本最初の大百科事典である。8歳の少年の好奇心・知識欲はものすごく、ある人から『和漢三才図会』全巻を借りて、筆写を始める。筆写しながら、これを全部記憶するのであった。そして、14歳には筆写を完了し、記憶した。


 同時期、『本草綱目』『諸国名所図会』『大和本草』『前太平記』『経済録』など次々に筆写・記憶した。


 そして、1880年(明治13年)、13歳にして、英語の洋書と組み合わせて、自作の教科書『動物学』を編集した。序文冒頭に「宇宙間諸体森羅万象にして、これを見るにますます多く、これを求むればいよいよ蕃(しげ)く、実に涯限あらざるなり」と書いた。


 1884年(明治17年)、大学予備校(現・東京大学)へ入学。学業をほったらかしで、菌類などの採集に明け暮れる。頭痛・眼病もあり、落第して、1885年(明治18年)末に中退する。基本的に、独学、フィールドワークの体質なのだろう。


 1886年(明治19年)末、米国留学のため横浜を出港。サンフランシスコのパシフィック・ビジネス・カレッジ、ついで、ミシガン州立大学へ入学。でも、あまり授業に出席せず、独学、フィールドワークであった。独学は、片っ端から洋書を購入して乱読するというものであった。


 1888年(明治21年)、寄宿舎での飲酒禁止に違反したことが発覚して、自主退学。ミシガン州のアナーバーに移り、相変わらず、乱読・独学とフィールドワークであったが、シカゴの植物学者カルキンスと文通するようになり、生物学の標本製作の方法を学んだ。


 1891年4月(明治24年)4月から約1年間、フロリダ、キューバを放浪する。主たる目的は、高温多湿な土地の隠花植物の採集である。当時、高温多湿の土地は、北方地方に比べ圧倒的に多様な生物が存在していることが知られ、南方熊楠は居ても立っても居られずフロリダ・キューバへ旅立ったのだ。


 むろん、隠花植物の採集をしたのだが、この1年間の放浪生活は漫画のように愉快である。フロリダでは中国人博徒の食客となり5連発ピストルをもらう。顕微鏡2台、ピストル1挺、書籍若干で旅をする。さらには、キューバではサーカス団の日本人団員と仲よくなりアルバイトをする。「事実を基にしたフィクション」なら、フロリダ・キューバの南方熊楠である。


 1892年(明治25年)9月、ニューヨークからロンドンへ渡る。ロンドン時代は1900年(明治33年)8月、33歳まで、約8年間続く。その間は、大英博物館へ通い、読書と筆写の日々である。筆写したノートは52冊になった。また、多くの論文を『ネイチャー』などに発表して、日本の若き学者は英国学会で知られた存在になる。


 ロンドン時代で特筆すべきは、土宜法龍(どきほうりゅう、1854~1923)と親交が始まったことである。土宜法龍は明治・大正期の代表的仏教学者であり、真言宗の高僧である。土宜法龍との交流は、その後30年間、膨大な文通がなされた。おそらく、密教の曼陀羅の影響が南方熊楠にしみ込んだと推測する。


 曼陀羅は、釈尊を中心に諸仏諸菩薩が配置されるのが基本で、単純に考えれば、釈尊を弟子たちが囲んでいる図である。でも、深く考えると、それは、釈尊を中心とする世界観を表現しているのだ。1枚の絵に、森羅万象、全ての万物が取り込まれている。


 南方熊楠の知識欲は、個々バラバラの知識をひとつに体系づける、すべては合理的に関係し合っている、それを構想していたと思う。動物と植物の中間のような粘菌の究明は動物と植物の総合に繋がり、さらに、あらゆる相違・分断はその中間的存在を探求することで克服できるのではないか、仏教用語で言えば「諸法無我」(すべてはひとりで孤立していない。関係し合っている)ということかな……、そんな「南方マンダラ」を思い描いていたのではなかろうか。


 ロンドン時代で、もうひとり、特筆すべき出会いは、孫文(1866~1925)である。孫文はロンドンに亡命中であった。孫文は西欧文明を学んで中国の近代化を目指していた。南方熊楠も西欧学問を学んでいた。2人は何を語り、どこで意気投合したのだろうか。単に、同じ東洋人、ということではないだろう。


 私の推理は、動物と植物の差、それと同じように、西洋と東洋の差、これをどうするか。とりあえずは、西欧の文明を学ぶ、その次は、かくかく……ということではなかろうか。2人は、1901年(明治34年)2月、和歌山で再会している。


 さて、南方熊楠はロンドン生活で大失敗を起こす。


 ひとつは、大英博物館で暴力事件を起こし、一時入管禁止となる。日本人差別が原因で、それに癇癪を起したからである。もうひとつは、大英博物館で女性の声高を制したら、職員と大喧嘩となり、大英博物館を追放される。


 なにやら、喧嘩ばかりしていたような記述になってしまったが、実際は、「喧嘩の仲裁」に励んでいた。「喧嘩の仲裁が、本物の英語の上達の道」と思っていたらしく、安い酒場へ頻繁に通い喧嘩が起きるのを待っていたという。まぁ、半分は本当にしても、半分は安酒を飲むためであろう。


 喧嘩のことで、もうひとつ。南方熊楠は、いわゆる「癇癪持ち」であった。それだけではなく、集団授業・集団生活になじまず、我慢できない、頭痛・てんかん、ものすごい暗記力……、これらのことから、何らかの脳異常かも知れない。本人も「脳に何らかの異常」を自覚していた。その予防行動が、独学・フィールドワークなのかも知れない。南方熊楠は死期を悟ると、死後の脳解剖を依頼している。脳解剖の結果、やはり、ある部分に異常がみられた。


 南方熊楠は、ロンドンの次の目的地を中央アジア・インド・チベットと目論んでいたが、仕送りがストップしたため、日本へ帰ることになった。


 一言付け加えておきます。東洋・インドと西洋の交流ルートが中央アジアである。西洋と東洋の差、それを探求するには、中央アジアを知らねばならない。そんな思いが強烈であったに違いない。南方熊楠の論文・手紙には、そんな中央アジアへの思いが伝わってくる。


(4)那智、そして田辺で


 1900年(明治33年)10月、和歌山市に帰る(33歳)。翌年、1901年(明治34年)2月、前述したように、和歌山市へ孫文が来て、再会し、歓談した。10月に、弟が勝浦(和歌山県の東海岸・熊野灘、新宮市の南)に酒造会社の勝浦支店を開いたので、そこに約3年間、逗留した。そこは、近くに、那智山があり那智原生林があった。南方熊楠は那智原生林に接して狂喜乱舞した。そこは生物の宝庫であった。毎日、生物の採集と各種の論文執筆に明け暮れた。ここで、「南方マンダラ」といわれる南方熊楠の根本思想が形づくられたようだ。


 1904年(明治37年)10月、和歌山県田辺に定住する(37歳)。以後、74歳で没するまで、田辺の人であった。結婚し、子も得た。


 結婚にまつわる愉快なエピソードがある。婚約者に会うための口実に、ノミ・シラミの付いた汚れた野良猫を持っていったのだ。一緒に、猫を洗いましょう、というわけだ。現代なら、絶対に婚約解消だね。なお、彼は猫と亀が大好きだった。


 当時の田辺は鉄道もなく、まったくの田舎町であった。その田舎町から『ネイチャー』などへ研究成果を発信し続けた。『ネイチャー』に掲載された南方熊楠の論文の数は51本で、この数は『ネイチャー』でナンバーワンだそうです。


 田辺湾に神島(かしま)という小さな島がある。南方熊楠は、神島でも狂喜乱舞した。神島は、珍植物の宝庫であり、植物生態学エコロジーのすばらしい模範の島であったのだ。「エコロジー」という言葉を用いて自然保護を訴えたのは、南方熊楠が最初であったようだ。そして、その神島に危機が訪れようとした。


 1906年(明治39年)、神社合祀令が発令された。神社合併・神社整理の政策である。1871年(明治4年)の太政官布告に「神社の儀は国家の宗祀(そうし)にて、一人一家の私有にすべきに非ざるは勿論の事に候」とある。要するに、神社は宗教ではなく「国家の宗祀」である、これが明治政府の国家原則である。神社は国家機関であるから、公費を支出する。数が多いと公費支出も大変なので、数を減らして威厳のある神社に公費支出する。具体的には、「一町村一神社」政策である。


 神社の合併は、神様の合併をともなう。そのため、稲荷神社、八幡宮、金毘羅神社、天満宮が合併して、奇妙なる「稲八金天神社」が誕生した。名称がすこぶる評判が悪かったので、漸次、社名が改められ、満州事変の頃には2社があるだけとなり、戦後は、ゼロになったようだ。


 神社合祀令の推進は知事の裁量に任されたので、府県によって相当の差が出た。強固に推進されたのが、三重県、和歌山県、愛媛県である。合祀政策によって、全国約20万社の神社のうち、約7万社が潰された。三重県では、なんと約9割が潰された。和歌山県もそれに近い数が潰された。


 氏子や神社信者は、若干の反対集会は開いたが、「お上に従うことが美徳」という意識のため、強い反対運動もできず、せいぜい「廃された神社の神様が祟りを起こす」と不満を述べる程度であった。


 このとき、敢然と立ち向かったのが、南方熊楠である。小さな神社を潰すことは、その周囲の神の森林も潰すことで、各地で森林伐採が強行され、その売却代金が公金となった。森林伐採は神島にも及ぼうとしていた。


 地方紙に神社合祀反対の論陣を張った。東京の有力者に手紙を書いて協力依頼をした。そして、ありとあらゆる反対運動を行った。酔っぱらって役所へ「殴り込み」のようなことまで実行した。逮捕されて刑務所に入れられたのだが、そこで、新種の粘菌を発見して大喜び、なんてこともあった。とにかく、南方熊楠の大活躍によって、次第に政府の強硬路線は収まっていった。1918年(大正7年)には、神社合祀令は廃止しなった。


 神島に関しては、神島の樹木伐採の代金は小学校建築費用に充てることになっていたが、それを覆した。そして、1912年(明治45年)、和歌山県の保安林に指定された。


 1929年(昭和4年)、昭和天皇が神島に上陸し、南方熊楠が戦艦長門でご進講をする。昭和天皇は、原生生物の研究をしていたので、世界的に名のある南方熊楠に注目していたのである。ご進講にあたって礼儀作法ゼロなので、田辺の芸者が熱心に教えたが、どうやら本番では上手にお辞儀ができなかった。それから、110点の粘菌標本を献上したのだが、通常、桐の箱に収めるのだが、キャラメルの空箱に入れて献上した。天皇もビックリしただろうな。


 ともかく、これで神島は安泰となり、1930年(昭和5年)に、県の天然記念物に指定、さらに、1935年(昭和10年)に、国の天然記念物に指定された。


 なお、昭和天皇はよほど南方熊楠の印象が強烈だったのだろう。戦後の1962年(昭和37年)、白浜の宿から神島を眺めて、33年前を思い出して歌を詠んだ。


   雨にけふる 神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ


 和歌にフルネームをいれるなんて、「いかがなものか」と思うが、昭和天皇にとって、とても楽しい人物だったのだろう。


 なお、南方熊楠は、神島だけを守ったのではない。世界遺産の熊野古道も南方熊楠が守ったといえます。


 最後になるが、南方熊楠は神社合祀令反対運動、神島保護運動ばかりをやっていたわけではない。生物研究以外にも民俗学・人類学の分野でも多くの論文を発表している。


 民俗学と言えば、柳田国男(1875~1962)である。2人は1911年(明治44年)から文通を始める。さかんに文通されたが、1917年(大正6年)には、どうやら意見の違いから、文通は終わりとなる。


 ひとつは、「性」への問題意識である。南方熊楠は「性」の問題、すなわち、男色・オナニズム・宦官・売春・淫乱などは重大なテーマと考え、さかんに研究し発表した。しかし、柳田国男は「性」のテーマは「卑猥」になるとして民俗学の対象から距離をおいた。あるいは、「人柱」のテーマについて、南方熊楠は民俗学の範疇としたが、柳田国男は「そんなことが外国に知られたら国辱だ」として、日本における人柱を否定した。


 つまり、南方熊楠は社会規範やナショナリズムといった拘束を抜け出て、完全に自由に考えた。完全に自由に考えてこそ、森羅万象、万物を知る道と心得ていたのだ。南方熊楠は、凡人には理解できないくらい、とてつもなく大きな自由の大きな人物なのだろう。だから、奇人となる。


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太田哲二(おおたてつじ) 

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。