今週は週刊文春が『コロナ爆発徹底解明』という特集の1項目で『自宅療養に必要なもの』というテーマに触れ、週刊新潮も『政府がダメだから自分で命を守る「デルタ株」防衛術』という巻頭特集を掲載した。入院治療がなかなか見込めない中等症以下のコロナ感染者になったときのため、食料・飲料の備蓄や解熱剤の用意、地元自治体の訪問介護システムの確認などを説くものだが、正直、両記事ともそれ以上の中身がほとんどなく、不安の軽減にはほど遠い。
ただひとつ、前々号の新潮が「都内感染者5000人強」という予測を(あり得ない数値と見て)鼻で笑っていたことを思えば、危機を直視する意味合いで同誌もそれなりにスタンスの修正を図ったように見え、その部分だけは評価できる。
それにしても、医療崩壊が日を追って現実味を帯びるなか、いったんは重症コロナ患者以外「自宅療養中心」と打ち出した政府方針が、「中等症も原則入院対象とする」と事実上元に戻ったり、「酸素ステーション」や野戦病院の新設が叫ばれたり、医療機関のキャパオーバーをめぐる議論はてんやわんやの状況だ。これまで1年半、いったい何をしてきたのか。ことここに至っての「ドタバタ感」に呆れる思いだが、いちシロウトの素朴な思いとして、欧米と比較した「医療体制の遅れ」という話がどうにも曖昧模糊として、歯がゆさを禁じ得ない。
「桁違いに少ない患者数で医療崩壊する日本の脆弱さ」は各種討論で数え切れないほど指摘されてきたし、「欧米の病院は国公立が中心だが、日本は民間開業医が多いため大掛かりな人員の再配置が難しい」「欧米の感染者も大半は入院せず、自宅療養で治している」という話も耳にするが、どの議論でも基礎となるデータがほとんど出て来ない。
主要先進国では医師・看護師の何%がコロナ治療に携わり、昨年来、その比重が大きく変わったなら、どのような手段でそれは可能だったのか。コロナ以外のさまざまな医療へのしわ寄せはなかったのか。自宅療養の患者たちは、どの程度医師・看護師とコンタクトできているのか。容体の急変に対応するシステムはどうなっているのか……。
そういった「彼我の差」がもう少しクリアにならないと、桁違いの患者数に対応する新システムの方向が見えてこない。もしかしたら、日本の死者・重傷者を低めに抑えてきた「ファクターX」は、日本ならではのシステムの細やかさに外ならず、もしこれを欧米的なざっくりした仕組み(そうなのかどうかも定かではないが)に切り替えたら、死者・重傷者も欧米並みに急増してしまう話かもしれない。
つまり、システムを穴だらけにしてこぼれ落ちる犠牲者を増やすようならば、対応患者数の拡大も意味がないことになる。いずれにせよ、医療体制の仕組みを議論しようにも、あまりに基礎となる情報がなさすぎる。厚労省はもちろんのこと、欧米先進国に取材拠点を持つメディアももう少し具体的な〝彼我の差〟を掘り下げてほしい。さもないと目指すべき方向が一向に見えてこない。
文春の今週号トップは『菅9・6「首相解任」』という政局記事。週刊ポストにも『〈永田町動乱〉二階を切れない 菅首相を2人は見限った 安倍と麻生の極秘会談で「菅降ろし」の号砲が鳴った!』という記事を載せている。確かに過去1年の菅首相を見る限り、この人には永田町や霞が関の権力掌握にしか取り柄がなく、恫喝も忖度も通じない感染症が相手では、まるっきりの無力であることが明白になっている。かと言って、両記事が注目する「安倍・麻生vs.二階」という“実力者”たちにしたところで、その点では菅首相と何ら変わりはない。「菅首相では選挙を戦えない」と反旗を翻す可能性のある若手議員らも、所詮は自身の再選しか頭にない。
このところ「コロナ敗戦」という物言いをさまざまなメディアでよく目にする。76年を経てもこの国の指導者層は、結局あの頃のまま。目の前の最大の危機に手を拱き、コップの中の勢力争いにうつつを抜かしている。何とも侘しい話である。
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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。