観光で出かける海外旅行では、現地での食事は楽しみのひとつであると思うが、現地調査では楽しみの場合と、そうでない場合が混在する。観光では旅行者のための、あるいは地元民のための外食産業が整っているところに行くが、現地調査はそうはいかない。宿が見つかれば何か食事にありつけるというのも、日本ではそうかもしれないが、日本の外では確約はない。また、食事を共にする、ということに、共同体にお邪魔させてもらうという大きな意味が加わることも多く、「食べる」ことは現地調査では、情報収集のためにはかなり重要な作業である。その「食べる」ことが重要な意味を持っていることを示す話はあまたあるのだが、中でも象徴的だったエピソードをひとつ紹介しよう。


 もう20年以上も前の話ではあるのだが、その頃、中央アジアのシルクロード沿いの村々で使われている薬用植物の調査を5人ほどの研究者グループで行っていた。主にカザフスタンとウズベキスタンの中を、それぞれの国の研究者との共同研究という形で調査旅行していた。中央アジア地域には、何本かのいわゆるシルクロードが走っているが、そのうちでも草原の道と称されたりする道が、現在でも大きくて周辺に大きな都市が多くあって幹線道路のような役割を果たしている。そこから外れて内陸の方に移動すると、昔ながらの生活が残る地域もまだまだ多く、ソ連時代に破壊された伝統薬物の知識の断片が、まだ残っている場合もあった。そんな古い記憶を求めて、我々はたびたび、そういう田舎地域に赴いた。


 ここで少し解説を入れると、ユーラシア大陸の多くを占めていたソビエト連邦が崩壊した後、連邦に含まれていた小さな国々はそれぞれ独立国家となって、“--スタン”という名前の多くの国になった。カザフスタンとウズベキスタンもそうして生まれた国である。場所は、今回の話の当時はまだ存在していたが、今は地図上から消えてしまったアラル海に、東からかぶりつくようにあるのがウズベキスタン、その北側にロシアと接して大きな面積を占めているのがカザフスタンである。これは現地調査を始めてわかったことであったが、ソビエト連邦は各地で行われていた薬草治療等の伝統医療を全否定し、禁止した上で、関係する施設や書物、道具など全てを破壊するように命じたそうである。このため、各国の主な都市には伝統薬物に関する知識や道具類はまったく残っておらず、廃棄をかろうじて免れた昔の書籍の復刻版から独立後に普及した、書籍から学んだ伝統薬物の知識、がちょこちょこある程度であった。われわれが収集したかった情報やモノは、書籍から学んだものではなく、人々の間で使われながら連綿と受け継がれてきた知識とモノであったので、現地調査の対象は次第に、都市から離れた田舎の地域に移っていった、ということなのである。


 そういう地域へ通じる道は多くの場合、不便で路面の整備がよくない。いや、これは鶏と卵の関係で、そこに通じる道が整備されないので、昔ながらの生活習慣のまま、そこが存在していると言った方がいいのかもしれない。そこは、あたり一面が湿地帯でぬかるんでいるので、昔からそこに住んでいる村人以外はほとんど誰も近づこうとしない地域である、とカザフスタンの研究者が紹介してくれた村だった。そのエリアは、やぶ蚊やブトなどの虫がたくさん飛んでいて、カザフスタン人でも都市部に住む者は行きたくないと思う地域だ、という触れ込みのもと、それでも行くだけ行ってみよう、ということになった。


調査に使った車_旧ソ連製ジープ



 我々のフィールドワークでは、国際空港のある大都市に活動拠点とする場所を1箇所つくり、そこに大きな荷物は預けて、身の回りのものと調査用具だけを持って、地方へ巡業のようなスタイルで数泊から1週間ほど出かけ、都会の拠点に戻って収集サンプルと情報の整理をする、ということを繰り返す。カザフスタンでも同様のスタイルで動いていたが、この時は、その湿地帯にあるという村を含め、いくつかの村を回って1週間ほど調査する予定で出た。最初に到着したのは砂漠の中にぽつんとある旧ソ連時代の研究所跡で、独立後も一応、研究所として維持するために、ひとつの家族が住み込みで管理人としてそこに居る、というところだった。研究所だった建物はもう使われておらず、電気ガス水道は死んでいるが、石造りなので、構造自体はしっかり残っている。そこで、その建物の中で宿泊することになった。管理人家族は隣に小さな小屋を建ててそこで暮らしていたが、聞けば、数週間から1ヶ月に1回程度、政府が車やヘリコプターで食料やその他の必要物資を運んでくるそうで、それを頼りに生活しているのだという。一番近い村まででも100 km近く離れていたと思うが、そんな陸の孤島のようなところに一家族だけで住んでいるというのに驚いた。井戸があるわけではなく、運ばれてくる水と、たまにある降雨や昼夜の温度差で水蒸気を集めて使っているということのようだった。


 我々はカザフスタン人研究者2名、車の運転手1名、日本人が自分を含めて3名、のグループだった。結果的にそこでは3泊したのであるが、その間に1回だけ、サウナで身体を洗う機会があった。水がないから、それ以外はシャワーも風呂もない。そのサウナもユニークだった。密閉できる天井が低い小部屋に、昼間、ひなたで熱しておいた石を複数、持ち込み、コップ1杯の水とタオルを持って入る。扉を閉めたら、熱い石の上にコップの水を半分かけると、たちまちすごい量の水蒸気になって一瞬でサウナ室が出来上がる。またたくまに汗が吹き出てくるので、その自分の汗で、身体を洗うのである。もう一度同じことを繰り返して汚れを落とせば、1回のサウナタイムは終了である。


 たったコップ1杯の水でどうやって身体がきれいにできるのか、初めは自分も半信半疑だったが、自分から出た汗という、無菌の水分を使って泥や埃にまみれた身体を清めるという知恵に、まったく脱帽、であった。この砂漠のサウナ、入浴後は意外とスッキリしていて、多湿環境に慣れた身には新鮮な感覚であった。


 その砂漠のなかの廃墟のような研究所から、さらに内陸の方へ半日ほど車で走ってその村に着いた。事前に聞かされていた、やぶ蚊とブトだらけ、というのは事実ではなく、他の村と大きく変わらない様子の村だった。村に入ると、どこでもまず初めに村長さんに挨拶をして情報とサンプルの収集許諾を得て、それから調査開始となる。村では日本から客人が来たというので珍しがられ、我々が植物サンプルを採りに出かけている間に、歓迎の宴の準備がされていた。


当時の一般的なレストラン



 採集から村に戻ると、ビシュパルマークというカザフ族の伝統料理が用意されていて、ともかく座って食べようという。その村で1泊ないし2泊する予定で来ていたので、宿となる空き家も用意してくれてあった。


 ビシュパルマークは、羊の肉、小麦粉を練って作った幅広の麺、玉ねぎやニンニクなどの野菜類、ジャガイモなどを重ねて蒸した料理で、このあたりでは最高のもてなし料理のひとつであるらしい。羊の肉をナイフで切り崩しながら、麺や野菜と指先で混ぜて手で食す。蒸しあがったばかりの大皿には、てっぺんに、子羊の頭が載っていた。どうやら、我々が村に到着した時に人懐っこく寄ってきた子羊は、我々が採集に出かけている間に、このビシュパルマークになったらしいのである。


ビシュパルマーク



 頭は当然、ひとつしかないので、これを食べるのは非常に名誉なことで、至上の歓待をありがたくいただきます、という意思表示となる。通常、この通過儀礼で村人たちの輪の中に我々が受け入れてもらえることとなり、ようやく現地調査本番となる、というのがストーリーである。そしてその任務は、日本人グループのボス役が務めなければいけない。その時の日本人3名のうちでは最も年嵩の男性の助教授がボス役であったので、その子羊の頭はその助教授の前に差し出された。黒山の人だかりの村人たちと、村長以下村の重役たち、それに我々が注目する中で、さあ、そのボス役だった助教授は---?「食べられない」と頑としてそれを拒み、ビシュパルマークそのものにもまったく手をつけなかった。



ビシュパルマークを振る舞う



 「え?!」筆者にしてみればあり得ない拒絶反応を示した、その助教授は、フィールドワークの経験が浅く、後から聞いた話では、差し出された頭の意味はうすうす解っていながら、薄暗い小屋の中でハエがぶんぶん飛び回り、蒸した羊のむせ返るようなにおいの中で吐き気をこらえるのが精一杯だった、のだそうである。無理もない、と思う反面、やっぱりここでしっかり羊の頭にかぶりついて、村との一体感を作れないなら、フィールドワーカーとしては続かないよな、と思った次第である。


 せっかくの最高級のもてなしを準備したつもりだったのに、主客がそれに手をつけてくれなかったことは、村長をがっかりさせたに違いない。申し訳ないと思いつつ、でもグループの一番下っ端の筆者には、どうすることもできなかった。さらにこのあと、宿となる空き家を見た日本人男性2名は、そこで宿泊するのはあまりにも条件が悪い、と、サンプルを乾かす場所がないという理由を作って、宿泊しての調査をキャンセルし、急遽、くだんの砂漠の中の研究所まで、車を飛ばして帰ることにしたのである。


 村人たちががっかりした表情を見せたのは言うまでもない。加えて、この小旅行をアレンジしたカザフスタン人研究者は激怒していた。もともと調査中にも、このボス役助教授とカザフスタン側のボス役だった研究者は、いろんな場面で意見が合わず、小衝突を繰り返していたのであるが、このエピソードは決定的に両者を犬猿の仲にしてしまったようであった。現地共同研究者との間によくない感情が生まれると、これほどやりにくいことはない。雑用係で財布役でもあった筆者が、その後はあれこれ気を遣ってカザフスタン人研究者の機嫌を覗っては、両者の仲をとりもつ羽目になった。


 さて、カザフ族の伝統料理のビシュパルマークであるが、数回訪れたカザフスタンでの現地調査で何度も食べる機会があった。家庭ごとに味付けも盛り付けも、また羊の肉以外の材料もさまざまで、まさに伝統料理らしい料理であった。みんな自分の実家のビシュパルマークが一番美味しいって言うんだろうなと思いつつ、くだんのカザフスタン人研究者に「どこのビシュパルマークが一番美味しい?」と聞いてみたら、「もちろん、うちのだよ。今度、ご馳走するからうちへおいで。」という返事だった。この約束はまだ果たされておらず、その後、2011年に、筆者は彼が教授として務めていた大学のサマースクールプログラムの講師に招かれ、首都アスタナで再会して親交を深めたのだが、この時は他の外国人講師の世話などもあって彼は忙しく、残念ながら、彼の家でビシュパルマークにありつく余裕は与えられなかった。


 もともと、羊の脂で手をギチョギチョにしながら食すビシュパルマークであるが、人工都市アスタナでふるまわれるビシュパルマークは、きっと洗練されたロシア料理風になっているのだろう、そんな予想をしながら、現実はといえば、コロナ禍の緊急事態宣言の下、自宅に篭ってこの原稿を書いているのでした。



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伊藤美千穂(いとうみちほ) 1969年大阪生まれ。京都大学大学院薬学研究科准教授。専門は生薬学・薬用植物学。18歳で京都大学に入学して以来、1年弱の米国留学期間を除けばずっと京都大学にいるが、研究手法のひとつにフィールドワークをとりいれており、途上国から先進国まで海外経験は豊富。大学での教育・研究の傍ら厚生労働省、内閣府やPMDAの各種委員、日本学術会議連携会員としての活動、WHOやISOの国際会議出席なども多い。