これまで10回にわたって戦後の日米交渉の変遷、その政治的過程と変革、流動する環境変化とその影響などについて、述べてきた。期間ごと、テーマごとにみてきたという点があり、総合的に俯瞰するという使命からは少し外れたし、焦点が当てづらくわかりにくかった点があったことは、詫びるしかない。


 しかし、戦後の日本経済は、ともかくも米国との各種の通商交渉を通じても、かろうじてその高度な成長を遂げるために相当に厳しい戦いを強いられてきた歴史とともにあることがわかってきた。米国、あるいは米国市場抜きでは日本の戦後経済成長はなかったし、逆に言えば、その成長ゆえに米国との経済交渉摩擦は、複雑化、迷路化していった側面をみることができる。


 また、特に90年代後半からは、日本の文化的個性が、米国の市場原理的な経済運営スタンスをかなり強固に拒んでいる現実をみることもできた。それは、国内の政治、官僚の自己利益保持、保身の鎧をまといつつ、外からみれば理解しがたい、いわゆる「内ゲバ」的な演出をみせながら、意見の集約を回避するという極めてずるい戦略も、無意識的かもしれないが内在しており、それが米国側には本質的な大きな「障壁」になっていることも見えてきた。


 象徴的なのは、米国の保険会社が日本で寡占状態を保持している民間医療保障保険商品は、実質的に市場開放されても大きなシェアの変化が生まれていないことである。細かくみれば各種の要因があるが、日本の岩盤的規制は、岩盤を弱くしても崩れにくいことを証明している。たとえ、米国の会社であってもフロンティア的に作られた市場は、老舗の看板が幅を利かせる。日本の悪名高い岩盤規制は、岩盤を打ち破る強烈なドリルを必要としている。つまり、岩盤規制は、それを撤廃するだけではなく、撤廃の効果をあらしめるために付加的なインセンティブが必要なのかもしれない。そして、そのインセンティブが今度は新たな規制となって、岩盤化していく。


●複雑化する交渉の要因は「指標」戦略と抵抗


 今回からは、TPPと医療保障の問題、医療イノベーションと特区、それらの混合された課題の抽出をこころみたい。まず取り上げるのはTPPだ。


 これまでの連載から、戦後から21世紀初頭までの日米間の経済摩擦、交渉の過程を振り返ると、以下の3点の特徴に集約できるのではないかと思える。


 第1は、日米間の経済交渉は繊維交渉などの非常にシンプルな問題から、時間とともに相互の国内規制、商慣習の違いをベースとした「障壁問題」など、論点が複雑化していったことである。それも規制、商慣習を一括りにせず、徐々に個別ごとの商品、ビジネス、システムのひとつひとつについて交渉テーマとなっていったことだ。日米両国の経済システムが近づけば、そうした協議が細分化され、複雑化することは当然かもしれないが、このことは殊に日本において、国内当事者間の利害得失を鮮明にする効果が生まれ、前述した内ゲバ的な抗争を引き出して、議論を迷走化させてきた。むろん、相手国の米国にも利害得失関係はあるのだろうが、繊維にしても、自動車にしても、米国内基幹産業の根底を揺るがすということで、米国内では集約的な政治問題に変質していくという側面がある。利害を超えて世論が一方向に集約していくという図があるようにみえるのだ。


 日本では、コメの自由化が先に進まない。外食産業などでは輸入米需要もあるようだが、現実的には食糧安全保障の考え方が浸透して、国内世論としてはコメの自由化には反対が強いが、一方でTPP交渉の進行の中で、現政権は農協改革に積極的だ。コメが貿易産品として主役になってもいいのかという論議は棚の上に置きながら、搦め手から経済交渉への道筋形成を指向しているように映る。


 もうひとつ交渉が複雑化する要因は、米国側が好んで使う「数値目標」という交渉手法だ。米国は、例えば自動車部品交渉などでも、期限を区切って輸出入に関する細かい指標を設定し、日本側にそれを履行するよう求める。巷の値切り交渉と同様で、最初から達成不可能と思える指標を示し、交渉の過程の中で、米国側が折り合っていくような印象付けを行うのも極めて政治的な演出。しかし、交渉内容をシンプルに世論に示すことではまことに有効な手法で、「こんな条件も日本は拒む」、あるいは、「日本は約束した期限を守らなかった」などの喧伝に使うことができる。少々、意地悪な言い方だが、そこには非常に練りつくされた戦略がある。ただ、そうした数値目標などが協定化された例は意外に少ない。日米保険交渉のように、結局、なし崩しのような形で(日本国内では)規制緩和が行われた印象が強い。


 つまり、徐々に日米交渉が複雑化したのは、協議すべき当該産品、項目が増えたことだけではなく、米国側の戦略が数値目標に代表されるように緻密化し、それに対抗する日本側に、利害衝突の要素が表面化し、国内合意がままならないという構図が生み出されてしまったことが要因だとみえるのである。


●激動した政治に左右された日米交渉も教科書


 第2の特徴は、日米間の経済交渉は、その時々の両国の政治的な動きに左右されやすいことだ。そして、それはしばしば、双方主張の言いっぱなしで、結局、当初の目標はうやむやになったりするケースがあった。それは複雑化というより、迷走する原因ともなっている。具体的な話は、重複するので避けるが、特に90年代以後、米国ではイラク戦争に勝った父ブッシュが、経済問題でクリントンに敗れたりするなど、米国世論は必ずしも世界の警察官を気取るだけでは政権を信頼しなくなったという時代の潮目を迎えたことが、この間の象徴的な例だ。非戦を掲げて経済を前面に出して選挙に勝ったクリントンは、かなり厳しい経済交渉を日本に要求した。


 一方で日本でも90年代は政治の動きがめまぐるしく変動した。いわゆる55年体制が崩壊し、村山政権が誕生したり、首相が短期間で代わり、象徴的なのはいったん米国側と合意した交渉スケジュールを、いとも簡単に反故にした細川政権などの例もあり、日米間の交渉は互いの信頼関係に基づく土台が揺るぎかけたこともある。忘れてならないのは、こうした日米間の政権移り変わりの中で、官僚レベルの交渉が実質的な力を持ったことである。脱官僚政治と声をあげながら、官僚に委ねられたテーマと権限は、実は拡大したとみるべきかもしれない。TPP交渉が、そうした土台の変化をそのままに行われると、世論が気づく前に、重要な経済政策の転換が行われるのではないかという危惧も、あながち大げさなものとは言えないだろう。


●TPPは日米の経済覇権に反発も


 第3は経済のグローバル化が80年代後半から進んだことだ。85年にはプラザ合意が行われ、ドルの国際的信用は低下した。相対的に招来された円高は、日本経済の国際的地位を高めると同時に、貿易摩擦、経済政策が偏狭な地域間だけの問題ではなく、国際間の協調をベースにした協議の必然をもたらした。ドル、円、ユーロといった金融間の力の均衡は、協調なくしては、大きな世界経済不安をもたらすことが認識され始め、それが国際紛争の火種となることが明瞭化した。


 ガット・ウルグアイラウンド、WTOという国際機関協議の誕生の歴史は、その後の中国をはじめとするBRICSの経済成長とも相まって、複数国間の貿易協定への動きに連動した。TPPは、その意味で実質的に日米の経済枢軸国としての地位の確立が、両国に思惑として存在していることを裏付けると同時に、仮に協定が両国の覇権を位置づけると世界に認識されたならば、新たな国際的な経済摩擦を生む可能性さえ孕むだろう。


 その意味では、国際協調が日米両国に与えるインパクトはこれまでの比ではない。リーマンショックという恐怖は常に起こりえるという常識は生み出されたし、現在の原油価格の異常な下落振りは、きわめてその不安を強く煽り立てている。


●影響を与えるか『21世紀の資本』


 第2次大戦の終了から70年を経て、これまでみてきたように、日米間の貿易、経済交渉は量的にも政策的にも、戦略的にも、国際環境的にも変動を続けてきた。


 特に90年代以後を俯瞰する中で、忘れてならないのは経済学主導による、国際経済の動きとそのインパクトの大きさだ。日本では、小泉政権時の「改革」が、市場原理主義の主張者によるリーダーシップで行われてきたのは記憶に新しい。小泉改革では、「聖域なき規制緩和」が叫ばれ、それは社会保障政策も埒外ではないことが明確にされた。そのため、5年間に及ぶ社会保障予算の削減、3%を超える診療報酬の引き下げが断行され、さらには混合診療の導入に関するきわめて具体的な政策提言も飛び出した。


 むろん、政権が代わり、民主党政権になってからは、こうした市場原理的政策は沈静化したが、再び自民党政権に復した現在では、徐々にこうした政策のぶり返しは目に見え始めている。


 社会全体に、こうした市場原理的な政策が投入されたひずみは、雇用形態に象徴的にあらわれ、それは「格差社会」が表面化する効果をもたらした。若者の雇用が不安定化し、所得も増えない中で、世代間、雇用形態間の格差はすでに白日のもとになった。このことは、社会保障を含め、少子高齢化のさらなる進行などデメリットが少なくないことがみえてきたということだ。


 最近の大きな話題のひとつは、フランスの経済学者トマピケティの『21世紀の資本』が経済書としては異例のベストセラーとなっていることだろう。すでに多くの解説が紹介されているので、同書が何を語っているかは周知されていると思うが、結局は市場原理的な経済政策は「富の分配」には大きな障害となるということである。少数の富裕層が、大量の富を占有するという図は、決して健康な社会ではなく、大きな不安、混乱、抗争を招くということを膨大なデータでエビデンスを示しながら問う同書の影響は、今後の国際経済に微妙な影響を与えるはずだ。


●「規制の同調化」もテーマになるTPPの不透明感


 TPP交渉の先行きはまだよくわからない。しかし、その行方は日米間の交渉結果で協定へたどり着くという構図は出来上がっている。その意味で、これまでの日米間の交渉における「指標」の重視、時の政権の姿勢、国際協調と緊張の影響、中国をはじめとする新興経済大国の今後の動向と経済戦略、そして国際的課題となっている「格差」の是正を求めるエネルギーの拡大と富の分配の新たなシステムづくりなどが、複合的に交渉に影響を与えることは当然であろう。


 国民皆保険制度は、TPP交渉の課題には入っていないと、弱弱しいアナウンスが聞こえてきたこともあるが、最近、そうした話が政府サイドから聞こえてこないのはなぜだろうか。TPPは協定国間の「規制」の同調化もテーマになる。日本独自の国民皆保険制度がただで済むのだろうか。ただで済むと言い切ることに説得力はない。『21世紀の資本』が、国民皆保険制度堅持の追い風になるかも現状では不透明だ。


 次回から、国民皆保険制度とTPP交渉の課題をあらためてみてみよう。(幸)