●20世紀に爆発した優生学


 前回は19世紀終わりから始まった優生学の萌芽と、20世紀の遺伝子研究を中心とした新たな「新優生学」への転換期までをみてきた。今回は、前回にも触れたフランシス・ゴールトン(1822~1911)を軸に、今年刊行された池田清彦の『「現代優生学」の脅威』、2012年に刊行された山下恒男の『近代のまなざし』をテキストとして活字を追ってみたい。


 ゴールトンは専門家には著名な学者だが、一般にはダーウィンやメンデルなどよりは馴染みのない人物。しかし、実際には彼の死の直後の1912年に国際的な優生学会議がロンドンで開催されており、多くの生物学者や医史学者からは、「優生学の祖」と位置付けられている。また、その国際優生学会議には後の英国首相、ウィンストン・チャーチルも参加しており、一昨年の米国におけるBLM運動では、英雄チャーチルに対する批判も起きた。


 ダーウィンの従弟であるゴールトンは神童だったと言われ、母方の家業でもあった医師への道をめざしていた。しかし父の死と、それによって得た遺産によって彼は医学の道を進む必要がなくなり、探検旅行を始めた。1845年のことだ。南西アフリカ旅行によって、その地の地図を著し、その功績で王立地理学会からメダルを与えられ、同学会の正会員になることで学者への道が開かれた。


 ダーウィンと同じく探検家から学者という道筋は、当時は自然の成り行きのようだが、彼が探検した南西アフリカという部分が、その後の優生学の契機となったことは、かなり濃厚に類推できる話だ。容貌が異なる人を差別の対象とすることは当時は当たり前で、白人優越主義が「常識」だった当時は、探検家の活躍の後を追った商人たちが、奴隷の売買を始め、また見世物小屋の主たる収入源となった。


 人間を見世物にすることにはすぐに批判が生まれたようだが、それを忌避するためにその「展示」は博物館や博覧会といったグレードの見世物となり、それに箔を付けるために優生学をベースにした「研究」が生まれたのである。


 当時の探検家は等しく、それまでは知られていなかった異人種や異民族を知ることになり、その言語も採集する。はじめは物珍しさも、自分たちを尺度に相手を測れば、その違いを「差」と短絡していくのは当然の成り行きかもしれない。


 探検家に関して筆者は、ナイル川の源流を探したリヴィングストンやスタンリーについてもいくつかの文献をみたが、ダーウィンを含めて、歴史に名を残す著名な探検家のことごとくが、奴隷制度に反対したと記述されている。しかし、それは筆者のいささか強引な推理だが、奴隷制度の悪辣な人種差別の頂点ともいえる所業がまったく否定され、反倫理として規定されて以後に、彼らの行動を是認し、その業績に傷をつけないために修正されたのではないかと思える。たぶん、「差別」に無意識でも「反対した」ことになるかもしれない。


 例えば、リヴィングストンは世界3大瀑布と呼ばれる、ジンバブエとザンビアの国境に位置する大滝を「ヴィクトリアの滝」と名付けたとされる。当時の自国の女王名を付けるのは、当時の「探検」がする側の優越的マインドで行われることに何の躊躇もなかったことがうかがわれ、その後の「見世物」に通底していくと考えることに違和はないと思う。そして、この白人優越主義は、欧米で差別的行為がいっときも休むことなく続いている状況を見れば、今でもほとんど変わることはない。


●俗説に科学がお墨付きを与えた


 山下の活字からみていこう。ゴールトンは探検家として名を成した経緯から当初は地理学や気象学の研究をしていたが、1859年にダーウィンが『種の起源』を出したことによって強い影響を受け、生物学系への研究に傾斜する。


 彼が後に「優生学」と名付ける人種改良思想を初めて公にしたのは1865年の『遺伝的才能と性格』という論文。以下、山下はこう説明している。「彼は人名録などを用いた伝記的研究で過去の著名人の近親関係を調べ、身体と同様に才能も遺伝することを統計的に立証しようとした。そして、結婚を工夫することによって人類を向上させることができるという後年の優生学的な考えをすでに示している」。アメリカインディアンや西アフリカの黒人にも言及し、人種差も遺伝すると主張している。


 山下はこうした経緯に触れながら、このゴールトンの一連の研究が知能テストの開発につながった経緯を紹介していくのだが、それはそれで大変面白いがここでは触れない。


 池田のゴールトン(注・池田はゴルトンと表記)が果たした役割に関する説明は以下(筆者要約)だ。「1900年にメンデルの遺伝の法則が再発見されたことを受け、ゴルトンは20世紀に入ると『既存の法と感情の下における人種改良の可能性』(1901年)という論文を発表し、はっきりと優生学に踏み込んだ言説を唱えるようになった。こうしたゴルトンの主張により、『優秀な形質を持つ個体はその子も優秀で、劣った個体からは劣った子が生まれる』という広く社会で共有されていた俗説に科学がお墨付きを与える時代が到来した」。


 そのうえで池田は、この時代はゴルトンのみならず、優れた遺伝学者や統計学者によって研究され、先端科学として一大潮流を形成していたという。つまり、1901年に優生学はゴルトンによって確立されたが、それはメンデル遺伝学に触発された白人優越主義の人々に都合のいい学際ムーブメントの中で確立されたものであり、それは単に遺伝学ではなく、心理学、精神医療、などの研究の活発化も招いたと言えるようだ。


 例えば、山下が詳細に語っている「エリス島」の話で、極めて杜撰な「知能テスト」によってアメリカ移民が選別された史実を知ることができる。エリス島は米国移民局入国審査所があったところで、1892年に開所され、1954年に閉鎖された。このエリス島については、映画『ゴッドファーザー(PARTⅡ)』の中で、主人公ヴィトー・コルレオーネが米国に渡ってきた孤独な少年の姿として動き回る舞台となっている。


 この頃、エリス島ではヘンリー・ゴダードという心理学者による独善的なテストが、移民の許可を与える道具のひとつとなっており、ゴダードの判断根拠の大きなウエイトが「見た目」だったことも伝えられている。


 ゴダードは「モロン」(魯鈍)という概念を考え出したことで有名だそうだが、彼は「モロン」が社会に脅威を与えると考え、その「生殖」の禁止を提唱したという。山下はゴダードの2つの論文を読んだことを明かしながら、心理学草創期の論文だと割り引いても科学的とは思えず、メモあるいはエッセイの類いだと酷評している。


 1912年の国際優生学会議以後、こうした科学を装った「差別」の歴史はますます大きな流れを作り出していく。この流れをみていくと、やはりゴールトンが果たした役割は大変大きく、米国のエリス島での入国審査では早くも「見た目」が判断材料になり、アーリア人系以外の人種がすでに「魯鈍」扱いされていることがわかり、さらに「生殖」への深入りまでも言及されるようになる速度感には言葉を失う。


「異物を排したい」という人間の根底にある非理性が、一瞬のうちに世界の常識に、圧力になっていく。山下は、「アメリカ移民はいかに選別されたか」ではなく、「アメリカ人はいかにつくられたか」という言い方のほうが適切かもしれない、さまざまなバックグラウンドをもってエリス島にやってきた移民たちはアメリカ教の洗礼を受け、その信者となった――と語る。


 この「見かけ」はナチによる人種差別の悲劇でも意外に大きな要素となっている。(幸)