米軍のアフガン撤退が予定より1日早い8月30日に完了した。まだ数百人の米国人と米軍に協力した通訳などのアフガニスタン人合わせて2000人が残っているそうだが、20年間にわたるアフガン戦争の終結だ。


 米軍のアフガン撤退は、バイデン大統領が8月末までの完全撤退を発表したことで事態は急展開。アフガン政府軍は一斉に逃げ出し、あっという間に首都カブールはタリバンの手に落ちて大混乱に陥ったことから、バイデン政権の不手際が批判されている。


 おそらく、バイデン大統領はアフガン戦争の端緒となったニューヨークの同時多発テロ発生日の9月11日に向けてアフガン戦争の終結を宣言したかったのだろう。その気持ちはよくわかる。米国人は記念日が好きなだけに、9・11に今までアフガン戦争に従軍した兵士を英雄として労をねぎらいたかったのだろう。


 バイデン大統領を擁護するつもりはないが、アフガン撤退は誰がやっても同じだっただろうという気がする。アフガン政府では、選挙で選ばれたはずの大統領を筆頭に、幹部は各国からの支援金をみんなで収賄するという腐敗ぶりだった。政府軍といってもトップから幹部までみんなが資金を懐に入れ、末端兵士には給料が払われないから兵士は支給された武器をタリバンに売ってしまう。タリバンが最新のアメリカ製武器を持っていると伝えているが、当り前だ。


 イスラム教では他人のカネをネコババすれば厳罰になるが、異教徒の外国人が援助したカネなら罪にならないのだろう。タニマチのアメリカが撤退したら甘い蜜を吸っていた政府幹部が一斉に逃げ出すのは道理である。


 敵対するタリバンはイスラム原理主義者たちの寄せ集めといってもよい軍隊だ。とても相手になるはずがない。ガリ大統領以下、政府幹部は米軍の撤退より先に国外に脱出したのだった。


 それはともかく、米国に合わせて軍を出していたイギリス、フランス、ドイツ、オランダ、スペインなどのNATO諸国、韓国など各国は協力者のアフガニスタン人を含めて撤退した。もちろん、各国とも全員とはいかず、数千人規模の協力者を現地に残したままで、今後、各国の議会で問題にされるだろうといわれている。


 ところで、日本はどうなのかといえば、大使館員12人は8月17日にいち早くイギリス軍機に便乗してUAE(アラブ首長国連邦)に撤退。政府が派遣した自衛隊機3機は24日の夜と25日にカブールに到着したが、日本人1人と米国から要請されたアフガニスタン政府職員14人を国外に脱出させたという。日本大使館の現地職員やJICA(国際協力機構)の協力者たち500人は空港に辿りつけず置き去りになった。


 今「救出が遅かった」として種々報道されている。アフガンにいた日本人は大使館員に国連職員、国境なき医師団などのNGO、JICA職員で、民間人はごく少数のジャーナリストだけだという。


 日本は協力者500人をなぜ国外に脱出させられなかったのか。韓国は協力者とその家族500人をバスで空港に運び、国外に脱出させた。だが、その翌日、空港でISISの自爆テロが起こり、タリバンの検問が厳しくなり、1日遅れで日本が協力者たちを乗せたバスは空港に辿りつけなかったと説明されている。


 事実なのだろうが、暗に政府の自衛隊機派遣が遅かったことを問題視しているようにも受け取れる。実際、外務省からは「自衛隊機派遣は時間がかかり過ぎる。他国の救出機に依頼したほうが早い」という現地の判断があったともいう。


 確かに自衛隊の輸送機C130はプロペラ機でアフガニスタンまで行くのに数ヵ所に立ち寄り、給油しなければ辿りつけないからもっともな話。自衛隊出身の国会議員は「邦人救出では自衛隊は輸送のみであって、現地の街に出掛けて現地関係者をバスに乗せて空港に連れてくるようなことは法律上できない。空港で待つしかない」という。これももっともだ。迷彩服を着て銃を持つ自衛隊が空港外に出掛けたら、タリバンと銃撃戦になってしまうだろう。


 20年前、米軍がタリバンを追い出したとき、日本政府から派遣された大学教授は「自衛隊の救出機が1日遅れたことが協力者を脱出させられなかった直接の原因だ」と言っていた。加えて協力者が亡命できない法律や救出を邦人だけに限った法制度など多くの問題があり、憲法9条を含めた改正を行う必要がある、と力説していた。


 だが、そうだろうか。前にも書いたが、憲法を改正したら、欧米から自衛隊のアフガン派兵を求められる。自衛隊を派兵したら、協力者の救出どころか、自衛隊員の生命に関わる。協力者も500人では済まない。数千人にのぼることを覚悟しなければならない。


 アフガニスタンはもともと日本の植民地だったわけではない。自衛隊をもっと大事にすべきだ。むしろ、日本は民間がアフガニスタンで行なっている活動や国境なき医師団、JICAなどを支援することのほうが役立つだろう。


 自衛隊機派遣が1日遅かったという問題でも別の考えがある。政府が決定してから自衛隊機を飛ばすことが果たしてベターだったのだろうか。欧米各国は7月ごろから協力者の救出を考えていたし、日本大使館も500人の救出リストをつくっていたのだから、首相にやる気があるなら、方法はあったはずだ。


 ハッキリ言えば、決定を待つのではなく、その前に入間基地から出発させればよかった。自衛隊の輸送機はカブールまで2日くらいかかるから、万一、自衛隊機派遣がダメになったら、その時点で引き返らせればよいのだ。


 もうじき、12月8日を迎えるが、太平洋戦争の発端になった真珠湾攻撃では山本五十六司令長官は機動部隊をアリューシャン列島付近に秘かに進めさせ、日米交渉が妥結したら「戻れ」という無線を発するが、なかったらそのまま真珠湾攻撃をせよ、と指示したのではなかったか。


 日本政府のトップは説得力に自信がないのか、それとも決断力に欠けていたのではなかろうか。協力者を脱出させられなかったことは今後、禍根を残すだろう。


 さらに最も問題なのが大使館だ。500人の協力者のリストをつくりながら、協力者をさておいて大使館員全員がいち早く脱出してしまったことだ。韓国も全員が脱出したが、直後に数人がカブールに戻り協力者の救出に尽力している。韓国に比較しても情けないというか、いかにも日本の大使館らしい行動だ。


 実は、こんな経験をしたことがある。かつて家内がドイツ語を勉強したいと言い、ミュンヘンに1ヵ月近く滞在した。宿泊は短期滞在者用ホテルである。ところが、1週間たったとき、夜中に電話が来た。泣きながら「飲んでもいない冷蔵庫のジュースやビールの代金、電話してもいない外国への電話料金を請求された。フロントに使ってもいない、と言っても相手にしてくれない」と訴えるのだ。


 仕方がないから、片言のドイツ語で通じなければ、日本語で怒鳴ってやれ、と答えた。その翌日、深夜に再び電話が来て、「日本語で怒鳴ったら、フロント係はせせら笑っている」と再び泣く。事情はすぐわかる。フランスやドイツのホテルでは下働きには外国人を使っている。フランスではアラブ人や北アフリカの人が多く、ドイツではハンガリー人やベトナム人、シリアやイラク、イランなどのアラブ人が多い。


 高級ホテルやアメリカの大手チェーンホテルでは従業員教育がしっかりしているか、見張っているため、問題が起こったという話は聞かないが、こうした出稼ぎの人は宿泊者が日中、出掛けると、部屋を掃除するときに冷蔵庫のジュースを勝手に飲んだり、母国に電話したりするのだ。むろん、料金は自動的に宿泊者に付け回されている。長期滞在すると、稀にこういうことが起こる。


 しかし、仕事を放り出してドイツに行くわけにもいかない。家内にミュンヘンに日本領事館があるからそこに電話して助けてほしいと訴えろ、と伝えた。その翌日、家内は電話で「領事館のKという人と日本語に堪能な大使館職員のトーマスさんという人がホテルに駆けつけてくれ、交渉してくれた」という。結果は今までの無断飲食、無断電話は証明しにくいので支払う、今日以後の冷蔵庫のもの、電話は使わないから、もしその料金があったらホテルの責任、ということに落ち着いたそうだ。


 翌年、有給休暇で旅行した折、ミュンヘン領事館を訪ね、K氏に礼を言った。彼は領事に出世していて、トーマス氏は日本文化を研究している大学院生で、今は関西の大学に留学しているということだった。


 その後、海外駐在経験のある大手銀行とメーカーの広報部長氏らと食事をした折、この話をしたら、2人とも「そんなことはあり得ない。週刊誌の人だと知ったからですよ。ふつう、どこでも日本の大使館は在留している邦人の面倒など見てくれませんよ」と強調する。いや、家内は亭主が週刊誌の人間だなどと言っていない、といっても信用しない。


 だが、それからしばらくして事情がわかった。同僚のデスクが担当した殺人事件で取材記者が広島県の廿日市市の警察署を取材した折、刑事課長が私の名前を挙げて「よろしく言ってくれ」と言われたというのだ。その課長の名刺を見るとK氏だった。


 早速、K氏に電話して旧交を温めたが、K氏の話によると、彼は広島県警に就職し、数年後に警察庁に出向になったそうで、警察庁で1年経たない間に外務省に再出向。その勤務地がミュンヘン領事館。赴任して間もなく家内から相談を受けたというのである。K氏は外務省の気風に染まる前に領事館勤務になり、しかも、もともとが警察官だ。日本人から窮状の相談を受けて助けなければ、という行動に出たということだった。


 大手銀行やメーカーの広報部長が自らの経験から「日本の大使館は当てにならない」というのも事実で、私の家内の場合は偶然というか、運がよかった、ということだった。


 米軍のアフガニスタン撤退の混乱のとき、日本大使館が協力者500人の脱出より先に大使館員全員がカブールを脱出したのも当然、いや、最も大使館職員らしかったのだ。(常)