菅首相が3日、月末に予定されている自民党総裁選への不出馬を突然表明し、次期総裁・首相の座をめぐる動きが混沌としてきている。コロナ対応をめぐる不人気が日に日に深刻化するなかで、菅氏は総裁選前の衆議院解散や総裁選先延ばし、自身の後ろ盾になってきた二階幹事長ら党役員の入れ替えなど、さまざまな奇策を模索したが、結局のところ、そういった「悪あがき」すべてが裏目に出て、自滅してしまった。


 第1次安倍内閣の総務大臣として、菅氏を最初に認識した時点では、私は淡い期待を持つひとりだった。党人派の叩き上げ政治家。政界のどこを見ても世襲議員や松下政経塾出身者の「のっぺりしたお坊ちゃま顔」ばかりになり、昭和期に多かった土の匂いがする武骨な政治家はめっきり減っていた。若き日に彼の故郷・秋田の地に暮らす経験をしたことも、個人的な親近感につながった。


 しかしこの期待は、彼の官房長官就任以後、瞬く間にしぼんだ。地方出身の叩き上げ政治家が、皆が皆、田中角栄的な庶民に寄り添うタイプとは限らない。菅氏はむしろ権力欲・支配欲の塊のような人だった。どこの新聞であったか、沖縄の辺野古埋め立てを力づくで推進した背景に、「オレは言ったことは必ずやる」というメンツへのこだわりがあった、という解説を読んだ記憶がある。


 当時の私は数年間、沖縄取材を繰り返し、事態を見ていたが、いまは亡き翁長知事が、膝詰めでどれほど県民の心情・歴史的体験を訴えても、その心を1ミリも動かせなかったのは、何のことはない、菅氏の側に沖縄を理解する気は毛頭なく、ただひたすら「中央」ひいては彼自身に従わない沖縄に苛立つだけだったのだ。人事を振りかざし、邪魔者は排除する。そんな菅氏の流儀を知るにつれ、当時の内幕がより深く見えてきて、死の間際まで対話の糸口を見つけようとした翁長氏が不憫に感じられる。


 すでに多くの報道番組で次期首相をめぐる「街の声」を聞いているが、とくに目立つのは「次の人は国民の声に耳を傾けてほしい」という意見だ。実際、安倍首相、菅首相の2つの政権は、かつてなく「対話が成り立たない時代」だった。国会質疑や記者会見で発せられたのは「噛み合う言葉」でなく「強弁」。安倍首相は毎回のように「民主党時代は~」というさや当てに答弁時間を費やして、「いま現在」の深い議論を回避した。菅氏も官房長官会見では、厳しい質問が出るたびに「ご指摘は当たらない」のひとことでやり取りを断ち切っていた。


 そう考えると、菅首相の発信力欠如がコロナ禍で指摘されたのも、ある意味当然だ。国民の警戒心を引き上げるべき局面でも、彼はまずワクチン接種などプラス面を強調した。「自分はちゃんとやっている」という自己弁護のために「本当にヤバい事態だ」というメッセージを弱めてしまったのだ。今後、総裁選報道にあたって想起すべきなのは、菅氏が首相になったとき、彼の異論排除、対話嫌いの特徴は知られていたはずなのに、とくにテレビでは「パンケーキおじさん」などと、歯の浮くような追従一色になったことだ。今度はどの候補者にも当選者にも、あの繰り返しは勘弁してほしい。


 今週の週刊文春は、まだ菅氏が総裁選出馬に向け、あれこれ画策していた時点の報道だが、『日本中枢の崩壊 菅「錯乱」と河野パワハラ』という記事を載せている。正直、発売直後に見たときには「菅vs.岸田」の対抗軸以外になぜ河野太郎氏にここまで焦点を当てるのか疑問に感じたが、5~6人の混戦が見えてきた現状では、彼への着目が意味を持ってきた。選挙に勝てる顔を求める若手議員や一般党員の人気を考えると、その浮上が予測されるからだ。だが、河野氏と言えば、外務相時代、「ハイ次」「ハイ次」と質問を無視し続けた会見の傲慢な印象が強烈だ。そう「対話嫌い」という部分では、彼もまた、安倍、菅両首相の系譜を継ぐ。そのことは、きちんと再認識すべきだろう。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。