●「見た目」と正義感と良識派の岩盤


 前回まではフランシス・ゴールトンを中心に、差別、ことに人種差別の始まりは18~19世紀の「探検の世紀」から始まっているのではないかとの認識を明らかにしてきた。アフリカ大陸の探検は、産業革命でアジア利権を中心にアドバンテージを得た英国を中心に隆盛し、そこで露わになったのが「見た目」の違う人種の存在で、そのことが見世物や博物館展示といった異人種の見世物=差別につながり、奴隷制度まで行き着いた。差別の「認識」の始まりは基本的に「見た目」の違いからの出発だ。


 この「見た目」の違いを、その優劣の差と捉え、科学的にそれを証明しようとした人間たちが19世紀から20世紀初めまで存在し、それが一般的に「常識」として敷衍し、それは世界的な潮流を作って、今に至る。いったん科学的な装いをまとった差別肯定の常識の構造化は、なかなか壊せるものでもなく、再構築して消失するものでもない。テレビCMで日本人相手に白人が商品を奨める光景に違和感が薄いのは、そうした差別常識が構造化していることの証拠だ。


 心理学者の山下恒男は写真、指紋法、知能テストの発明を通じて、科学の装いをまとった「近代のまなざし」が、差別のまなざしを醸成したと喝破している。例えば写真は、まさに「見た目」の違いを活写するために必要不可欠なものとして、現在も生きている。運転免許証やパスポートなどがそれだ。筆者は、運転免許証を持たないためにかなり「自分を証明する」のに苦労した経験がある。写真は「科学的」に「差別」する目的で発明され、進化してきたのだが、今や差別されないための証明として必要となってきたというパラドックスに気付かされる。


 山下は人類学者の鳥居龍蔵(1870~1953)が台湾民族の研究に写真を活用したことに触れながら、「鳥居龍蔵が人類学研究に人類学研究における写真の応用において、パイオニア的役割を果たしたことは疑いのない事実である。また、鳥居をしてアジア各地の人類学研究に向かわしめた背景に、当時の日本の植民地主義があったことも事実である」として、ある意味、こうした科学的な研究が政策と不可分だったことが日本でも常態化していたことを明らかにする。


 一方でこうも述べている。「日本人は西洋人の好奇のまなざしの対象でもあった。「飯沢(飯沢耕太郎=写真史家)は1864年にフランスに派遣された徳川幕府の使節団についてふれ、パリ自然博物館の動物学研究室に勤めていたルイ・ルソー撮影による団員の写真が残されていると書いている。それは『人類学調査の写真の典型的な撮影のスタイル』であり、『ルソーは向こうから飛び込んできた珍しい東洋人種の見本に、こおどりしてシャッターを切ったに違いない』と推測している。『未開人』を撮る存在であると同時に西洋人から撮られる存在でもあったという二重性に留意しなければならない。それはある意味で、現在まで続いている日本の立ち位置でもあるからである」(近代のまなざし)。


 山下はさらに、こうした写真の存在が、新興の学問であった人類学・民族学だけでなく、精神医学にも用いられた形跡を疑う。「狂人←→未開人」という図式が反映されたのではないかとみるのだ。19世紀に欧州で若い女性のヒステリー発作写真集が研究者の間で、いくつかは大衆にも提供されたことがその根拠だが、そうした経緯や歴史を辿りながら、写真は「見た目の違い」を強調していく。写真に撮られた顔貌によって、精神病理を研究していくことはただちに差別につながると考えるのは暴論だが、しかしそうした研究が写真の発明によって進歩し、またそれによって人々の差別観念の肯定に一役は買ったということがいえるだろう。


●医療史は差別の黒歴史?


 差別の始まりは、小さな社会のなかでは「違い」を区別することで生まれる優越への勘違いで済んでいたかもしれないが、英国人を主流とする「探検」が異人種、異民族、異言語の存在を明かして、大きな差別の構造化を形成し、「見た目」の区別を明確化するため科学が援用され、写真が多用されてきた。そして、写真による顔貌の違い、指紋の発見に伴う個の違い、知能テスト開発に代表される優生学の進歩などがわかってくる。


 区別する科学は、差別する根拠に変貌する。移民受け入れ時の米国や、ナチスは頭の形を計測する手法もとっていたとの信じられないような「優生学」の歴史を、我々は知らなければならない。


 そして、固着化したのが「医療での差別」だ。優生学の歴史はある意味、医療の「黒歴史」と背中合わせである。しかし、我々は優生学的な思想、差別観は時代遅れであり、すでにネガティブポジションに追いやられたと思い込んでいる。ハンセン病の国の謝罪、水俣の悲惨を通じて知識としてそれらが過去のことのように考えがちだ。しかし、実は医療における差別、弱者に対する差別はより深刻な状況になっているとの認識も新たに持ち直さなければならない時代状況になっている。


 尊厳死や平穏死といった高齢者の延命願望を否定する世論の醸成、そこから延長されている「安楽死」の是認の方向、総理大臣の「自助」重視の精神論の弱者排除論の台頭、コロナ感染者に対する忌避感、さらに今後はワクチン非接種者への問答無用の差別も始まるとの懸念も広がり始めている。


 コロナに関しては思い起こすべきだろう。開業しているパチンコ店への行政、メディア、大衆の非難の大合唱。それがいまや、一部地域ではパチンコ店の店舗構造を活用してワクチン接種が行われ、メディアは賛辞でそれを報道している。なかには、最も感染予防策が徹底していると評価するメディアが登場するに及んで、この国のお手軽な「差別意識」の構造性も明るみになってきた。


●経済優先社会の醜さ


 こうした状況について生物学者の池田清彦は「『現代優生学』の脅威」という。これをタイトルにした本(活字)は今年4月に刊行された。池田は同書で現代優生学の特徴を、「一言で表せば『社会にとって有益でない人間の生存コスト、社会全体で担うべきではない』というものです。この考え方をもう一歩押し進めれば、『社会にとって無益な人間の遺伝子は残してはならない』『無益な人間は社会から隔離し、場合によっては生命を絶つべきだ』という価値観につながります」と述べる。


 池田もハンセン病問題の一定の終結をもって、日本には「消極的優生学的」主義は消えたかのような、表舞台から姿を消したような風潮にあることに警告を鳴らす。相模原やまゆり園事件に言及しつつ、「(優生学的な)そうした主張は、完全に途絶えたわけではありません。生産性や合理性を重視する新自由主義などと合流し、形を変えて現代に甦りつつある」。


 筆者も最近の「差別」を考えるとき、どこかに新自由主義的な経済優先社会の肯定が背景にあるようにみえていた。前述した総理大臣の「自助」の翼賛は社会の定義を取り換える発言で看過はできない。それと前後して、「生産性がない」「税金で生活保護をするなら猫を救え」などの暴論がまかり通っている。池田が言うように、こうした思潮は差別の肯定が表舞台から消えたわけではないことを如実に示す。


 差別構造を壊滅できない最大の主柱は「正義」だ。池田は、「今の私たちは、『自分とは異なる倫理感や行動規範を持つ人々の行動を変容させる』ことに社会的正義を感じはじめている」と言い、その正義感が、人類が何度も重ねてきた悲劇の再来を目前にしているのではないかという。正義という大上段の話ではなくても、私たちは「良識」という大前提で無邪気に信じているものも多い。


 そして、そのことが医療の現場で差別を起こしている例もある。次回はそれらの検証とコロナにおける差別に視線を向けてみたい。(幸)