五輪開幕の直前、少年期のいじめ加害体験を雑誌インタビューで誇っていた過去が暴かれて炎上、開会式の音楽スタッフを急遽、辞任することになった音楽家・小山田圭吾氏の独占告白が、『「障がい者イジメ、開会式すべて話します」』と銘打って週刊文春に載った。


 子ども時代、全裸にした同級生に自慰を強要したり、排泄物を食べさせたり、知的障がい者だった同級生を段ボール箱の中に押し込んだりしたことを2つの雑誌で得々と語った問題のインタビューは、四半世紀ほど前の記事とはいえ、あまりにグロテスクで、私自身、炎上時に初めてそれを読み、吐き気を催すほど嫌悪感を覚えたものだった。


 今回の氏の弁明では、こうした「武勇伝」は実際には、かなり盛って話をした面があり、他者によるいじめを傍らで見ただけの経験も、自身の加害行為のように喋った部分があるという。20代のアーティストとして、軽くてポップな見られ方を嫌い、イメチェンを図ろうとして、極端な露悪趣味に走ってしまったらしい。


 一連の騒動で憔悴し7キロも痩せたという小山田氏は、文春の取材に「浅はかで愚かな行為」だったと繰り返し反省の弁を口にした。ネットの書き込みには、今回の文春での釈明にも「言い逃れだ」とさらに叩く向きがあるようだが、私はと言えば、問題発覚時の義憤がウソのように薄れ、今はただ水に落ちた犬を冷ややかに見つめる気分があるだけだ。


 そんな氏の騒動について、作家・橘玲氏が週刊新潮で始めた新コラム『人間、この不都合な生きもの』のなかで、2週前の号なのだが触れていた。斜め読み、飛ばし読みで日々週刊誌に接するため、実はこのコラムのスタートも今週の第6回を発見して初めて気がついた。心理学や社会学などの海外の知見にも触れながら、国内外の世相を読み解くのが、氏のスタイル。時に斜に構えた「冷笑系」の雰囲気が垣間見え、正直、苦手な部分もあるのだが、それでも彼の視点・論点には、他の筆者には見られないオリジナリティがあり、ついつい引き込まれる。


 というわけで、今週改めて連載の初回まで遡ってコラムを読み、第4回に見つけたのが『キャンセルカルチャーという快感』と題した一文であった。過去の不適切な言動からポスト解任を求める要求を、近年欧米では「キャンセルカルチャー」と呼ぶらしく、小山田氏の事例がまさに当てはまる。橘氏は従前から、世界は今、急速な「リベラル化」の大潮流のさなかにあると唱えていて、キャンセルカルチャーもそれに付随する現象だと説く。そのうえで「過去の過ちは永遠に許されないのか」「似た立場の人物による同種の過ちでも、人により指弾されたりされなかったりする理不尽がある」と疑問点を提示。大衆はなぜ、かくも「正義の鉄槌」に熱中してしまうのか、という問いを立て、社会的動物であるところの人間は、この「鉄槌」によって脳内に快楽を感じるようにできているのだと解説する。詳しい論拠は出て来ないが、何らかの脳科学的研究を下敷きにした主張のように読める。


 となると私自身、五輪開幕前、小山田氏の過去にあれほど激高した感情が、約2ヵ月後にすっかり冷めきってしまったのは、もはや彼が糾弾すべきポジションから転落し、脳内の快楽物質を誘引する存在ではなくなってしまった、ということなのだろうか。そうやって自分自身、「快楽の獲物」を追い求める群衆の一部になっていることを、改めて指摘されてみると、五輪前の憤慨が浅ましく、気恥ずかしいものだったようにも思えてくる。


 小山田氏を擁護したり、彼の憔悴に同情したりする気持ちは毛頭ないのだが、それでも不意打ちで己の深層心理を鏡に映されると、「快楽物質の分泌」を全否定できない自分に気づかされる。誰を責めるわけでもない橘氏的な人間社会の俯瞰には、ふと読者に自戒の念を呼び起こす効用があるのかもしれない。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。