●差別するために進歩する医科学


 差別のわかりやすい場面が生まれる、あるいは差別を判断しやすいシーンは、人種、性自認を含む性別、民族を含む出自と階級差、貧富などがあるが、最近それらに加わっているのが「医療」における差別だ。そして、医療における差別は、前述した要素に加え、年齢、疾病、延命などの要素が絡み合い、多くの社会的・文化的課題として浮上する傾向も見せ始めている。


 このなかで差別を生み出す要因に現れ始めているのが、医療者と一般人の情報の非対称性から生まれる、正否の判断の一方通行。そして看過できないのが、医療を受ける人の生産性だとか、生きる意味の喪失感の肯定とか、コストの問題がその一方通行の大きなファクターとなっていることだ。


 医療は人間が生き延びるために、進歩を重ねてきた科学の具体であり、適用だ。そしてその科学が、人間を区別する、差別するために機能してきたことは前回までに触れた。写真であり、指紋であり、知能テストであり、そこに遺伝子科学も加わってきた。すでに、一部の地域では、がん遺伝子の発現リスクの高い群に属する人々を差別する私的保険も登場している。保険会社のリスク評価が正当なら、ほとんどの差別は正当性を肯定されるかもしれない。筆者は、それを飛躍した議論だとは思わない。写真、指紋、知能テストは社会にとってリスクを減らす意味の大きな発見・発明だった。


 問題は、このリスクを減らすということへの無謬性を疑わないという景色だ。医療は今でも、リスクを最小化するために年齢や、生産性や、コストで差別することにほぼ無関心である。実際、人を触るための科学とそれを活かした社会倫理はリスクの低減は正義であり、無謬だとして歴史を作ってきたのだ。


●戦前法の改正法だった優生保護法


 1948年に施行された日本の「優生保護法」は、近代で最も近い時期に制度化された差別的な制度であり、世界の医療史でこれを明記する学者もいる。しかし、その提唱と成立は女性保護や女性の社会的権利保護を目的にして出発している。1922年に産児制限運動に共鳴した加藤シヅエが、戦後に初の女性代議士となり、提案した法案が優生保護法で、目的は人工妊娠中絶と不妊手術の合法化だった。しかし、この法は新法ではなく改正法であったことは意外に知られていない。


 戦前には1940年に制定された「国民優生法」が成立し、48年まで制度として残った。池田清彦は著書『「現代優生学」の脅威』で、「国民優生法が『優生保護法』として改正される48年までの間に538人が断種されたが、その大半は精神障害者だった」との事実を示しながら、これがナチスの「遺伝病子孫予防法」真似たものであり、「この優生保護法もまたナチスの法をまねた戦前の国民優生法の考えを引き継いでいた」と述べる。


 池田はこの法の問題点について、藤野豊の著書『強制された健康』を引用している。ここでも藤野の解説を紹介しておく。「国民優生法は48年に成立した優生保護法に継承される。優生保護法は女性に堕胎を認めた点が画期的と評価されるが、その一方では、優生学の立場から遺伝性と決めつけられた病者への断種・堕胎、さらには国民優生法にさえ書かれなかったハンセン病者への断種・堕胎が明記されていた。96年に優生学的な規定が削除され、母体保護法となるまで、優生保護法はファシズムの残像を映し続けた」。


 ハンセン病患者へのいわれなき差別は、戦後になって、それでも丁寧にパッケージされた優生学の「常識」と「同調圧力」によって、なんの疑いもなく、人々に受け入れられたものだ。


 注目しておくべきは、このある種の「消極的優生思想」は、戦後のリベラルな思想を持つ人たちに支持され、強い共鳴を得たことである。加藤はむろん女性解放運動のリーダーのひとりであり、改正法には史上最年少で医学博士となった福田昌子や、産婦人科医の太田典礼なども加わって推進された。さらに当時の多くのメディアも法改正に賛意を示していたフシがあり、社会的にはほぼ翼賛的に作られたとみえる。


 また、太田典礼は76年に「日本安楽死協会」を設立している。現在は尊厳死協会と名を変えたが、優生学的姿勢に疑問を持たなかった人物が、安楽死を推進した医師であることに、優生学の本質と強固な「常識」が医療界に固着していることを類推させる。


●コストで医療を語らせる無謀


 最近の動向で医療差別にダイレクトに結びついているのが、コストの問題だ。筆者が専門紙記者として厚生省の取材をしていた70年代は、100歳以上の高齢者は100人以下で、名簿が発表されていた。メディア報道も「長寿」を寿ぐ論調で埋め尽くされていた。しかし、いつからか100歳以上長寿者への「寿ぎ」感は急速に薄らいだ。今や8万人を超える。通常の景色となっただけだというかもしれないが、そこには長寿による医療費の問題が国家の存亡と関わるといったような“キャンペーン”的な風潮と無縁ではない。


 医療コストを理由に命の選別をする主張は、まだそれほど大っぴらに語られているわけではないが、私はそのことを当たり前に語り出す、それが正論じみた「論破者」の定番になってくる予感がする。


 池田清彦は著書で、実はその「本音」は社会に蔓延していると説く。社会学者やメディア研究者の対談で飛び出した「延命医療1ヵ月切り捨て論」や、麻生太郎財務相の「さっさと死ねるようにしてもらいたい」発言は、いずれも社会的批判を浴びると訂正したり、謝罪したりが繰り返されているが、池田は、「こうした発言は、かつてであれば社会的に大バッシングされてもおかしくはなかった。しかし、このような極端な主張に対しても『よくぞ言ってくれた』と言わんばかりに、擁護や賛同の声が上がるといった風潮が社会全体に広がっている」として、「財源を根拠に『安楽死』を制度化することは、確実に優生学的な思想へとつながっていく」と述べている。


 ところで、ALSなど難病患者に比較的安楽死を望む人が多いことはあらためて検証したほうがいいのではないかと思う。そこにはコストの問題もあるが「人の役に立てない」あるいは「人に迷惑をかけている」というネガティブな思いが強いのではないだろうか。これは基本的に、その人たちが抱えている直接的な疾患に加えて「孤独」を主な理由としたメンタルの問題が大きいのだろう。そう考えると、その人たちの安楽死願望に対して同調したり、同情したりする前にその孤独や苦痛を除く精神的医療ケアの進歩を望むのがノーマルではないだろうか。役に立たないとか生産的ではない人などいないという地平に立って、彼らを救出する医療の進歩を私は強く望む。


 そのベクトルから考えていくと、医療差別を減らしていく処方箋は心理学や精神医学の進歩にあるのではないかと思える。当然のことながら、精神医学も優生学の跋扈に手を貸してきた歴史がある。知能テストなどは社会がそれを便利に使ってきたこともあるが、相当に大きな誤謬を「常識」として社会に与えてきたということもおそらく事実であり、精神医学が何の歪みもなく、「優生学」への反証科学を構築できると考えるのも短絡だろうと思う。しかし、例えば一部の精神科医は知能テストを、社会で生きづらさを抱える未成年者たちの支援ツールとして使えという提言もある。


●差別から救う医科学への期待


 精神科医の宮口幸治は著書『ケーキの切れない非行少年たち』で、非行少年の環境の悪さ、支援の薄さなどを勘案すると、少年犯罪を重罰化するだけで問題が解決するわけではないことを強調している。安楽死を求める人に、その境遇や立場に共感しているだけで彼らの気持ちが変わるわけではない、と私は読み替えてみたりする。


 非行少年もむろん、社会では差別される存在だ。宮口はそうした現状を「『反省以前』の子どもたち」として説明する。「凶悪犯罪を行った少年に、何故そんなことを行ったのかと尋ねても、難しすぎてその理由が答えられないという子がかなりいた」「更生のためには、自分のやった非行としっかりと向き合うこと、被害者のことも考えて内省すること、自己洞察が必要だが、そもそもその力がない」。


「力のなさ」は「反省以前」の問題であり、簡単な足し算ができない、漢字が読めない、簡単な図形が写せない、短い文章すら復唱できない、そういった少年に重罰化で対応することはまるで無意味だと、この精神科医は強調する。そして、ホール型ケーキを3等分せよという課題に対して、凶悪犯罪者の少年は、面積を等分するという発想がまるでできない。「こういったケーキの切り出し方しか出来ない少年たちが、これまでどれだけ多くの挫折を経験してきたことか、そしてこの社会がどれだけ生きにくかったことかもわかる」と著者は嘆息している。


 彼らに「ひたすらに反省を強いる」ことに意味はない。彼らを救う手立ては彼らを差別することなく「知る」ことである。


 「差別と医療」のテーマは今回で終了し、次回からは薬害と製薬企業をテーマに活字文化を探してみたい。(幸)