(1)安居院(あぐい)とは
『神道集』(しんとうしゅう)なる神道系の説話集がある。南北朝時代に編集されたものである。あまり有名な説話集ではないが、この本には、「日本古代史最大タブー」が掲載されている。「日本古代史最大タブー」については、お後のお楽しみ、ということで。
この『神道集』は「安居院作」となっている。「安居院」とは何か。
「安居院」を「あんごいん」と読む場合は、奈良県明日香村の飛鳥寺である。本尊は鞍作止利(くらつくりのとり)が作ったとされる飛鳥大仏である。
「安居院」を「あぐい」と読む場合は、比叡山の東塔竹林寺の里坊で、応仁の乱で消滅したが、再興され、現在は安居院西法寺となっている。最澄は、「比叡山の僧は山坊に住み山を下りてはいけない」としたが、比叡山は琵琶湖の湿気が多すぎるため、普段は山を下りて里で暮らすようになった。それが里坊である。なお、竹林寺自体も比叡山の麓にあった。だから、その里坊である「安居院」は、人々にとって便利な所であったに違いない。
平安時代末期、「安居院」を拠点として、澄憲(ちょうけん、1126~1203)が活躍した。
澄憲の父は信西(藤原通憲=みちのり、1106~1160)である。信西は当代随一の学識の持主であり、かつ、権謀術数の才能もあった。保元の乱(1156)前後には、絶大な権力を振った。そのため、「反信西派」が形成され、「反信西派」の信西襲撃となり、信西自害となる。それが、平治の乱(1160)の勃発であった。結果は、周知のとおり、平治の乱によって、平氏政権となった。
信西には24人の子がいて、澄憲は、そのひとりである。
澄憲は、最初は比叡山の竹林寺、そして「安居院」(あぐい)に住み、天台教学を学んだ。父親の遺伝子を受け継いだらしく、その知識量は莫大であった。そのため、人々にわかりやすく説法できた。それと、類まれなる美声の持主であった。さらに、身振り手振り・表情もすばらしく、聴衆は聞きほれ涙を流した。抜群の説法者・唱道者として「富楼那(ふるな)尊者の再誕」「説法の上手」と評判になった。
富楼那とは、釈迦の十大弟子のなかの最古参で、弁舌が極めて上手であったので「説法第一」と称された。
澄憲の長男の聖覚(せいかく、しょうかく、1167~1235)もまた、「安居院」を根拠地として活躍した。父・澄憲に勝るとも劣らない説法・唱道の名人であった。聖覚は天台宗の僧であったが、法然の弟子となった。親鸞も聖覚を尊敬した。
澄憲・聖覚の説法・唱道の技術は、安居院流唱導(安居院唱導教団)と称され、澄憲・聖覚の亡きあとも、受け継がれた。
(2)『元亨釈書』
聴衆を感涙させた安居院流唱導(安居院唱導教団)とは、どんなものか。現物がないので、想像するしかないが、ある本に『元亨釈書』(げんこうしゃくしょ)が参考になる、と書かれていた。「元亨」とは、元号で1321~1324年である。鎌倉幕府の終了は1333年であるから、鎌倉時代末期である。「釈」は釈迦の釈である。臨済宗の僧・虎関師練(こかんしれん、1278~1346)の漢文の日本初の仏教通史である。全30巻。虎関師練は五山文学の代表的人物である。
当時の儒学系インテリの評価は、あまりよくなかったようだ。論語に「怪力乱神を語らず」とある。君主は理性で説明がつかないことは語らない、という意味である。儒学系インテリにとっては、『元亨釈書』は少々「怪力乱神」が多いと思ったようだ。
そのことは、さておいて、漢文がまったく苦手なので、『元亨釈書』全巻の和訳したものを探したが、抄訳のもの(元亨釈書原本現代訳・教育社)しか見つからなかった。全巻は、400名余りの伝記、編年体の仏教史、10分類の各類史の構成であるが、手にした抄訳の本は、50人分の伝記であった。そのなかには、道成寺の安珍清姫伝説の安珍があった。平安末期の説話数『今昔物語集』にも、ほかの説話集にも安珍清姫伝説は登場しており、『元亨釈書』でも紹介されていて、あの伝説は「すごく流行っているなー」と思うと同時に、儒教系インテリの不満もわかるような気がした。抄訳50人分は、おもしろい内容であったが、安居院流唱導(安居院唱導教団)に関することは、何も書かれていなかった。
そこで、『元亨釈書』が参考になると書いてある本、『鑑賞日本古典文学第23巻中世説話集』(角川書店)に、『元亨釈書』のその部分が掲載されているので、そのまま引用します。
唱道とは演説なり。(略)治承・養和の間に澄憲法師、給事の家学をさしはさみ、智者の宗綱に拠(よ)り、台茫濡林を射て花鮮やに、性具舌端を出でて泉のごとく湧き、一たび高座に昇らば四衆耳を澄ます。
晩年戒法を慎(つつし)まず、しばしば数子を生む。長嗣聖覚は家業を克(よ)くして唱演に課す。(略)覚、隆承を生み、承、憲実を生み、実、憲基を生む。朝廷、その諭導を韙(よみ)して閨房(けいぼう)を緩(ゆる)す。故を以って、氏族ますます繁し。(略)
諂譎(てんけつ、へつらう、うたがわしい)交々(こもごも)生じて変態百出し、身首を揺(ゆる)がして音韻を婉(ま)ぐ。言は偶儷(ぐうれい)を尊び、理は哀讃を主とす。檀主を言ふごとに常に仏徳を加え、人心を感ぜしめんと欲して、先だって或るいは自ら泣く。痛ましきかな、無上正真の道、流れて詐欺俳優の伎となる。
要するに、インテリの虎関師練にしてみれば、澄憲・聖覚が始めた安居院流唱導は、奇想天外な話に仏の話を混ぜて、語るだけでなく身振り手振りの演技もし、庶民を感涙させる詐欺俳優の技術というわけだ。
ここで明確になるのは、虎関師練が対象とするのは、漢文が読める知識層である。しかし、安居院流唱導が対象とするのは無学な庶民である。『元亨釈書』はインテリの立場から、安居院流唱導を馬鹿にしているのであるが、次のことは、容易に推測できる。無学な庶民は、難しい仏教教学よりも芸能的説教に感動していたのである。
(3)『神道集』
鎌倉時代に一般庶民に新仏教が広がるが、その背景には、教学的には、極めて低レベルであるが、庶民の心に響く現世利益説教、しかも芸能的説教技術が続々と生み出されていたという事実である。念仏聖、歩き巫女、熊野比丘尼、勧進聖、御師(おし)、神人(じんにん)、陰陽師、説教僧、説教聖、修験者、盲僧、瞽女(ごぜ)、絵解法師、琵琶法師……いわば下級宗教家(兼芸能人)が諸国を巡った。安居院で教えを受けた者もいたが、人数的には少数であろう。大半は、安居院とは無関係であったが、商標・著作権のない時代であるから、無断で安居院流を名のった者もいたろう。諸国を巡る下級宗教家(兼芸能人)は、聴衆の直接的反応によって稼ぎが違うから、日々、話の内容、演技を進化させた。
話は劇的であればあるほど、受ける。とても良い人が悪人によって悲しみ苦しみのどん底に陥る。そこから神仏の力で復活する。このパターンはどん底が深ければ深いほど、説法者の迫真の演技力によって、会場全体が涙、涙となるのである。
そんなことと、神仏習合の本地垂迹説が絡んでいった。無学な庶民は、仏と神が実は同一だったという話に、「あぁ、なるほど、そうだったのか」と素朴に感動してくれるのだった。
かくして、全国各地の神社縁起に、㋐下級宗教家による、㋑劇的な、㋩本地垂迹説の話が作られていった。
全国各地のそうした説話が安居院に集められた。安居院が説教技術向上のための教科書にしようとしたのか、それとも、単純に、安居院の人間が編集しようと企てたのか、あるいは、安居院とは無関係の者が権威づけるため安居院の名を語っただけなのか、『神道集』(安居院作)の安居院は、そんな程度しかわからない。でも、『神道集』は本地垂迹説の最高傑作説話集である。10巻50章からなり、各地の有名神社が解説されている。そして、2巻6章に「熊野権現の事」がある。
(4)「熊野権現の事」
段落1は、いわば総論である。
段落2は、「五衰殿(ごすいでん)の女御(にょうご)」の物語である。この物語は非常に有名であった。
昔、インドに摩訶陀(まかだ)国という大国があった。その大王は善財王といった。大王には1000人の后がいた。そのなかのひとりが「五衰殿の女御」またの名を「善法女御」という。彼女は一番の醜女で、大王はまったく彼女の所へは通わない。そのため、彼女の住まいはボロボロ、虎や狼がいつもうろつく有様で、涙の日々であった。
彼女は、千手観音を身近にまつって、現世・来世の幸せを一心にお祈りした。すると、彼女は超美女に変身し金色に光輝いた。
大王は仏の示現と聞いて、彼女のもとへ行幸した。その美しさに仰天し、以後は彼女だけを愛した。その結果、ほかの999人の后は無視された。
「五衰殿の女御」が妊娠した。大王は大喜び。
999人の后は、「五衰殿の女御」を謀略で抹殺しようと企てた。
謀略は成功し、鬼谷山で首を切られることになった。裸足の妊婦は8日間、歩かされ、やっと到着。切られる寸前、赤子が生まれ、赤子の口に乳房を含ませたところで、首を切られた。王子は死骸となった母の乳房を無心に吸っていると、多くの野獣と12頭の虎が集まってきた。12頭の虎は王子を見ると王子を守護して、育て始めた。王子は4歳になった。
その頃、30里離れた山奥に喜見上人(きけんしょうにん)なる聖(ひじり)が住んでいた。年齢は1700歳である。『法華経』の薬王品を説教していたら、十羅刹女(じゅうらせつにょ、法華経を守護する10人の魔女)から、王子の存在の啓示があり、さっそく救出した。喜見上人は、3年間養育した後、7歳の王子を大王へ引き渡した。
喜見上人は、999人の后の謀略からの一部始終を報告した。大王は、「こんな恐ろしい女たちの顔など二度と見たくない」と言って、摩訶陀国からの脱出を決意した。大王・王子・喜見上人の3人は黄金の飛び車に乗った。大王は5本の剣を投げて、落ちた所へ行く、と決めた。
5本の剣は日本まで飛んできた。5本の剣は日本各地の5ヵ所の山に落ちて、3人が乗る飛び車も5ヵ所を回ったが、最終的に、第1の剣が落ちた紀伊国牟婁(むろ)郡の上倉山(熊野速玉神社の背後にある山で、巨岩がある)に落ち着いた。しかし、日本に来てから7000年間は姿を現さなかった。
段落3は、狩人・千代包(ちよかね)の熊野神発見物語である。孝霊天皇(第7代)の時代、3枚の鏡となって登場した。
若干の解説をすると、本地垂迹説では、「インドの仏が、一時期人間として苦労する。その人間が日本へ来て、神となる」というのが基本のようだ。熊野権現とは、熊野三山の神々で3つまとめて三所権現ともいう。熊野三山は熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の三社を云う。
熊野本宮大社は証誠殿(しょうじょでん)とも呼ばれ、その本地は阿弥陀如来、かつての喜見上人である。それが、家津美御子(けつみみこ<スサノオ>)となった。
熊野速玉大社は新宮(にいみや)とも呼ばれ、その本地は薬師如来、かつての善財大王である。それが、速玉神<イザナギ>となった。
熊野那智大社は西宮とも結宮とも呼ばれたりする。その本地は千手観音で、かつての「五衰殿の女御」である。それが、牟須美(=「結」、ふすび、むすび)神<イザナミ>となった。
王子はどうなったか。三所権現の下のランクに「五所王子」があり、その第1が、「若一王子」(にゃくいちおうじ)である。崇神天皇(第10代)のときに出現した。本地は十一面観音、かつての王子、それが天照大神となった。
なお、熊野権現を整理すると、上位に「三所権現」、中位に「五所王子」、下位に「四所明神」の計12柱の「熊野12所権現」となっている。ただし、「若一王子」は「五所王子」のなかでも別格扱いで、「三所権現+若一王子」で、「上四社」と言われたりする。人間は神様にもランクづけをしたがるものらしい。
999人の后はどうなったか。大王の後を追って紀伊まで来たが、相手にされず追い払われて、とうとう赤虫になった。赤虫とは、熊野特有のアリらしい。赤虫にはなったが、熊野の地は浄土とみなされているので、三悪道(地獄・餓鬼・畜生)には落ちなかった。
段落4は、熊野の地は浄土の地であるが、ほかの地は恐ろしいことが起きる。ここに、「日本古代史最大タブー」である「第2代・綏靖天皇(すいぜい)の食人習癖」が記載されている。
垂仁天皇(第11代)のとき、諸国に疫病が大流行した。天皇は驚いて多くの社を祭った。その数は3742所である。世に3700余社の鎮守と称された。
綏靖天皇(第2代)は、朝夕に7人ずつ人を食べた。臣下は「誰が生き残れるか」と、そればかり心配した。この天皇は長生きしそうなので、多くの人民が亡びてしまうと心配した。臣下が、この暴君を滅ぼすため、帝をもてなしたうえ、奏上した。
「神武天皇は120年、天下を治められた。当帝もあと100年や200~300年間はご在世のことと思います。しかし、近い将来、某月某日、火の雨が降ります」
そして、諸国に使いを出して告げた。
「火の雨で命が惜しいと思う者は、岩屋を造って、そこにこもるがよい」
人々はあわてふためいて各自岩屋を構えた。
都でも、その日を期して宮中に岩屋を造り、「国王もその当日はずっと入っておられますように」と、頑丈な柱を立て、下から人が上がれないことを確認したうえで、帝を中へお入れした。その後、帝を探したが見えなかったので、代理者が天下の政治を行い、世の中も静かになった。
段落5は、熊野権現は伊勢神宮と同格であると説明する。
ということで、「熊野権現の事」はお終いとなる。映画も漫画本もない時代である。下級宗教家(兼芸能人)の話に、庶民は涙を流して拍手をし、「熊野神社ってすごいな~」と思うのであった。
…………………………………………………………………
太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。