自民党総裁選の投開票日程が9月29日の水曜日だったため、翌木曜日発売の週刊文春、新潮には最悪のタイミングだった。両誌とも、トップは政治ネタでなく「眞子さま・小室圭さん問題」、総裁選関連で勝者を決め打ちする「綱渡り」はせず、結果がどう転んでも記事として成立する「内幕モノ」で凌いでいる。文春は「『新総理で自民大分裂 河野vs.安倍全暗闘』、新潮は『謀略の人間喜劇「河野太郎」「岸田文雄」を躍らせた「安倍前総理」』と似たようなニュアンスだ。


 投票の結果は周知のとおり、一番人気とされていた河野氏は1次投票の段階からトップを取り損ね、逆転狙いだった岸田氏は決選投票で一気に差を広げた。1次投票での河野氏の国会議員票は、3番手の高市早苗氏にも及ばない大敗ぶり。そして誕生した岸田新総裁は、甘利明氏を党幹事長に据え、麻生太郎氏を副総裁、安倍氏イチ押しの高市氏を政調会長に遇したほか、閣僚人事でも細田派を重用、党重鎮「3A」への気遣いを前面に打ち出して、早くも「安倍傀儡」と批判を浴びている。


 それでも一部政治評論家によれば、新総務会長となる「党風一新の会」リーダー・福田達夫氏や、官房長官に就任する松野博一氏の抜擢は、同じ細田派でも安倍氏が希望した人選ではなかったといい、岸田氏はこうした微妙なさじ加減で、自らの意志を通しているらしい。


 その昔、中曽根康弘氏が田中派傀儡の「田中曽根政権」と揶揄されて発足したものの、やがて持ち前のしたたかさで、権力を我がものとしていったように、岸田氏も胸中に保守本流・宏池会の意地を宿し続け、いつの日か清和会・日本会議的な右派勢力を遠ざける流れにならないか。そんな淡い期待を抱くのだが、どうであろう。過去数年の禅譲狙い・低姿勢から一転してじりじりと「わが道」を目指すのか、それともそうした「意地」はとっくに失われ、去勢され切った「抜け殻状態」のままなのか。自民党リベラルの「失地回復」、国民政党への回帰、という意味でも、いつの日か岸田氏の「手のひら返し」を見てみたい気がする。


 8月からの週刊新潮連載、作家・橘玲氏のコラム『人間、この不都合な生きもの』について、何回か前にも取り上げたが、私は以来はまり続けている。今週号のテーマは『「話し合い」のベストな方法』。橘氏は3週前の回で「ダニング・クルーガー効果」というアメリカの心理学研究を紹介し、「論理的推理能力」でも「ユーモアのセンス」でも、客観的評価が高い学生グループと低いグループを比較した場合、前者のほうが自己評価は低くなりがちで、後者は不相応に過大な自己評価をする傾向がある、と明かしている。橘氏はこのことを身も蓋もなくこう説明する。「バカの問題は、自分がバカであることに気づいていないことだ」。つまり「バカにつける薬はない」のだと。


 ネット上で日々、一流の学者や専門家に食って掛かり、上から目線で的外れの論戦を挑む「素人論客の群れ」の存在に困惑しているため、ストンと腑に落ちる。で、今回のお題は複数の人間が話し合って物事を決めるとよりよい結論に近づくか、というテーマである。結論は「否」。上記の「過剰自己評価」の影響を受け、能力の低い人間の大きな声に引きずられ、話し合うほどに「決定の質」は低下するというのである。


 民主主義の本質にも関わる話だが、優秀な個人、少数者の判断で動くほうが人間の集団は誤らない、という議論にはそれなりに説得力がある。ただしそれが、独裁やトップダウンを正当化する根拠になり得るかといえば、それも違う。独裁的リーダーや支配者層が抜きん出て優秀な存在でない限り、それは成り立たない。世界を見渡しても歴史を遡っても、頭脳明晰な独裁者はさほどいない(そもそも独裁者呼ばわりされる統治をする時点で、あまり賢くはない)。彼らはやはり、支配欲・権力欲へのあくなき執着という一点でのみ「抜きん出たパワー」の持ち主なのだろう。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。