●薬は錦玉か地雷原か


 医学の進歩と一口に言っても、その速度感は19世紀、20世紀の前半と後半、さらにその後半の75年以降の4半世紀、そして21世紀以後と考えてみると、その速度感は大きく違う。そして、それを極めて乱暴に簡略化してしまえば、19世紀以後の治療の進歩はすなわち医薬品の進化の歴史であり、医薬品によって人は簡単に死ななくなった。一方で、医薬品を使わないで長生きする、という新たな健康長寿意識や哲学も生まれてきた。ある意味、医薬品の開発と使用と恩恵は、人の心、近代の死生観や哲学、文学、人生観を大きく変えてきた。物思う人の歴史の側面を支えてきたといえよう。


 ただし、今でも、治療の難しい疾病はいくらでもあるし、COVID-19のようにまったく新しい、人類には未経験のウイルスに襲われることもある。認知症という、知的生物ゆえの疾病のダイナミズムに直面し、戸惑っているという状況も目の前で展開されている。


 COVID-19パンデミックではワクチン、治療薬の開発が世界人類の最大の関心事になった。認知症でも最近は新たな治療薬開発が議論を呼んでいる。ことほどさようで、新たな感染症、未だに克服できない難病、長寿になったがゆえの新たな心身困難など、それらを解決する手段として、人々の期待と関心は予防薬や治療薬に向かう。


 とくに日本では、今さら持ち出すほどの話でもなく、江戸時代までは医師は薬のプロフェッショナルであって、現在の薬剤師と間違えそうだが、ただ当時から治療手段は医薬であっても、患者とコミュニケーションをとることを大切にしていた点で、現代の薬剤師とはまるで違う。薬はある意味、人々が生病老死を語りあうときの、避けることの難しいコミュニケーション・ツールであったし、現在も希望のコミュニケーション・ツールであることは否定できない。


●公正公平の中で存在する価値


 ただ、大昔からも薬は人々の希望であり、期待であったことに間違いはなく、現在は前述したような新たな哲学的カテゴリーも加わった。そして薬はいつからか、ある疾患に効果のある「物質」が“見つかる”のではなく、”見つける”対象となった。人々の希望と期待は、見つけた者に富と称賛を約束するものとなった。


 現代にいたって、医薬はまさに怪物だ。希望、期待、利益、非難、落胆、崩壊などの要因として常に顔を出す。一方で確かに近代以後、医薬は公平の象徴である。新型コロナウイルスワクチンに関しては、公平ではない世界が現出しているが、それはいつか近い将来に公平性が担保されることは間違いない。時間がかかっていることに世界が苛立っていることは確かだが。ワクチンに関してはそういう展望は強引にだが持つことはできる。


 医療が社会化すると、当然ながら医薬も公正な分配が行われなければならない。公正に分配されることを前提にすると、より効果が高く安全な薬は、分配のなかで富を生み出すはずでなければならないはずだ。しかし、そうはなっていない。新薬は高い。高薬価であれば公正公平を確保するのは難しくなる。しかし、製品に価格を付けるという商業論理に基づけば、公正公平では仕組みが作れない、経済システムが機能しない。


 医療が社会のシステムに組み込まれるとき、医薬の供給は社会保障・福祉サービスのなかに仕組みが持ち込まれる。治療の最有力手段である薬が、その範疇から外れることはあり得ない。医療は公平に公正に分配されるものだから、薬もそのカテゴリーのなかで公正公平に分配されなければならない。人々は医療=医薬という常識、前提の括りで医薬への期待を持つ。その期待は、近代の人々にとってすでに常識で、その約束は為政者が果たさなければならない。


 一方で製品の付加価値で最大のものは利潤であり、儲けであるから、市場の経済システムで薬は競争的に開発され、市場に投入され、開発者や販売者の期待は利益にフォーカスされるので、ビジネス的な戦略が必ず存在してくる。戦略に、人々にあまねく提供するという意思は盛り込まれてはいない。それも実は常識で、最初から、供給側と需要側の「常識・前提」は実は交わることのない平行線。だから、薬には、夥しい、多様なジャンルの「トラブル」が内在し、たびたび表面化して不公平の種となり、不公正の象徴となり、ときには具体的な「危害」となって、人々を苦しめることになったりする。


 当たり前のことをクドクドと書いている。しかし、前提としてこのことが理解されないと、社会保障サービスのなかでの医薬品に関する議論はできない。自由市場のなかでの製品の需要側の選択性の自由さ、供給側の戦略立案の自由さを考えてみる。「社会保障サービス」というシバリのなかでの市場の自由性は、どうしてもある程度の制限性は受け入れなければならないはずで、だからといって、医薬だけを医療サービスの枠外に押し出してしまうなどという合意は、現代社会ではたぶんできない。


●70年代の新米記者の斜め観察


 筆者がこの世界に入ったのは1972年で、73年には当時の厚生省担当記者として配属された。この頃、最も大きくて重要な厚生省関連情報は「薬価」であり、中医協(中央社会保険医療協議会)では薬価の引き下げを求める側と、それを最小限にとどめたい陣営の論争が続く毎日だった。


 一方で、サリドマイドに続くスモンという大規模薬害訴訟も進み、薬をめぐる問題の噴出はとめどがないような状況だった。コストの問題と、コンプライアンス、レギュレーションの問題が一気に噴き出していた。


 新米記者は、この職に就く前からあった業界用語、「基本通知」「添付」「白箱」などという“固有名詞”を覚え、そのいちいちを覚えるのに四苦八苦していた。74年10月には東京・平河町の都道府県会館であった「サリドマイド被害訴訟和解調印式」の取材にも参加した。初めて大人数のサリドマイド児と遭遇し、率直に大きな衝撃を受けた。


 その後のスモン訴訟では、医薬品副作用被害救済基金法という新法の成立までの取材も仕事だった。行政担当記者だったが、製薬業界関係者のこの薬害と新法の行方に対する関心は強く、多くの企業関係者とも知り合った。救済基金法は79年に成立したが、そこまでに至る間にはいろんなシーンに遭遇した。


 スモンを和解に導いたのは当時の厚生官僚や、国会の社会部会(当時)の主要メンバーで、それらを思い起こすと、当時の彼らは相当に大きなあの困難をよく和解にまで持ち込み、救済基金法案成立までたどり着いたなと思う。


 自民党の社会部会リーダーだった橋本龍太郎は、スモン訴訟の行方が見通せないとき、国会の廊下で、「薬害立法もいいけど、薬剤費の問題をどうするのか?」という筆者の質問に、「俺は今、薬剤費のことなんか関心ねぇんだ!」と気色ばんだ。3割に達するとされた薬価差益の問題は社会的関心が強く、大幅な薬価改定は避けられない状況に陥っていたときだ。こちらも場違いで質問する相手を間違えたという認識もなかったが、橋本の苛立ちには、山積する問題を片づけるためにも、まずスモンの決着を付けたいという強い意思は伝わった。


 そんなある日、当時の厚生省薬務局のトップを、早朝に部屋に訪ねたが不在だった。書記にまだ登庁していないのかと訊くと、課長に訊けという。苦り切っていた。隣接する課長室に行くと、トップは和解を渋っている、外資のトップを説得するため、突然、欧州へ発ったという。「俺も知らなかったんだ。記事にするな」と言われた。彼らがこうした一連の解決に使ったエネルギーを改めて思い起こすと、医薬が現代社会で多くの福音をもたらすと同時に、多様な課題を頻発させてきたことに思いが至る。


 社会党の社会部会リーダーだった村山富市は、救済基金法は、被害者目線ではない、不備が多いという党内意見を受けて、立法実現の調整に奔走していた。廃案寸前で社会党が付帯決議の内容でまとまることになって同法は成立した。不透明な方針転換で、筆者は国会内で村山に「急転直下の判断はなぜか。何らかの取引があったという噂が流れている」と訊いた。村山は「根拠のない話を書かないだろうな」と筆者を睨みつけた。


 法案が成立して、池袋のサンシャインビルに基金の事務局が置かれることになり、空室状態のオフィスを内覧した。橋本も現れて、「ローラースケート場でもやれる広さですね」と筆者が話しかけると、彼は「本当にそうだな」と上機嫌だった。村山も、橋本もその後総理大臣になった。ときどきの政局の流れももちろんあるが、筆者の経験のなかでは、医薬が持つ現代社会での怪物的な存在に立ち向かった政治家や官僚の、地力のようなものの存在感に意識が向かう。


 製薬企業や、薬に希望や期待を託す患者や一般市民は、未だに、その扱い方がよくわかっていないのではないかと思うことがある。次回から、主に薬害に関する活字を追いかけながら、製薬企業の社会的価値と責任について考えていく。(幸)