甲府市の4人家族宅に19歳の少年が押し入って50代の夫婦を刺殺、2階にいる娘2人のうち妹にもケガを負わせた凄惨な放火殺人事件。今週の週刊文春、週刊新潮はこの事件の詳細を報じている。前者のタイトルは『甲府一家放火殺人 19歳の犯人は皆勤賞の生徒会長だった』、後者は『「甲府夫婦放火殺人」ネットにあふれる偽情報「19歳生徒会長」闇の奥の“素顔”』である。


 両記事が描くのは、この家族の18歳の長女に一方的に惚れ込んだ同じ定時制高校の少年が、彼女につれなくされた逆恨みで凶行に及んだいきさつだ。中学まで陰気で目立たない性格だったのに高校進学後、かなり無理をして陽気なキャラにイメチェンし、生徒会長まで買って出た。そんな「ちぐはぐさ」にスポットが当てられている。


 新潮記事は例によって容疑者を「実名・顔写真入り」で報じている。実名報道を禁じる少年法の規定に異を唱え、1997年の神戸連続児童殺傷事件以来、独自の判断で実名報道を続けている。今回の記事に対しても、山梨県弁護士会がすぐ抗議声明を出し、批判しているが、編集部は「犯行の計画性や残忍性、結果の重大性に鑑み、常識的に妥当と判断した」とひるむ様子はない。


 ちなみに、当該の少年法規定はこの5月に改定され、来年の4月以降18~19歳の「特定少年」には起訴後の実名報道が可能になる。新潮、文春の両記事は、もし起訴の時期がずれ込めば、今回の甲府事件が改正法の適用第1号になる可能性もあると指摘する。とは言っても、新潮の過去の「独自路線」に対しては、条文の公益性や報道機関の使命など、彼らが訴え続けてきた建前論に、私はずっと違和感を覚えていた。先にLGBT差別で『新潮45』が休刊になった件をはじめ、新潮の媒体には日ごろからヘイトを煽る「ギリギリの記事」が溢れている。


 それを考えると、実名禁止への抵抗も、現実には写真誌フォーカスの創刊時、「君たち、人殺しの顔を見たくはないのか」と語ったとされる名物編集者・斎藤十一氏の「路線継承」と理解したほうが、はるかに腑に落ちる。要はのぞき見主義、売らんかなの開き直りである。ネット時代の今日では、週刊誌の煽りは瞬く間に何百倍、何千倍もの吊し上げに直結する。自分たちの独自基準で報じたあと、何が起ころうと「知ったこっちゃない」。そんなスタンスを普段は隠そうともしないのに、いざ矢面に立つと、取ってつけたように公益性やら報道の使命やらを振りかざす。そんな「都合のよさ」に嫌悪を覚えるのだ。


 今回のケースでは新潮、文春とも、容疑者の性格形成に彼の幼少期、父親が窃盗事件で逮捕され、母親と離婚した影響がある可能性を報じている。自らも取材に携わる人間として、こうした深掘りそのものを否定するつもりはない。ただ犯罪報道をする意義は昔から、類似事件の抑止のほか、犯罪を通し社会の病巣を描き出す点にあると言われている。今回の犯行は複数の命を奪ったし、感情のコントロールという点で精神医学的にも注目される点があるのだろう。それでもただ単に、陰気な少年が片思いに破れて逆上したという、シンプルな犯罪と見なすことも可能だ。飲み屋でのけんかや痴情のもつれなど、「ベタ記事で終わる殺人」と決定的に違うポイントは、被害者が2人、という以外に何が言えるのか。


 これはもう、報じ手の価値観の話になるのだが、いったいどんな犯罪が世間の関心を呼び、どういったものが呼ばないか。被害規模の大きさや手口・背景の特異性、そういった明白な特徴以外には、線引きの基準が正直、私にはよくわからない。今回は文春と新潮がともに大々的に扱った点から見て関心度が高いことはおそらく間違いない。私には、その判断の「センス」が欠けている。時に「徹底した深掘り」に戸惑いを覚えるのは、きっとそのせいなのだろう。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。