戦後から国民皆保険制度を経て、日本の医療供給体制は、アクセス、給付面のいずれについても、世界屈指の質量を持つまでに進化したと言って過言ではない。これが、人口1億人以上の国では信じがたい平均寿命の長さの背景であり、その要因である幼小児の死亡率の圧倒的な低さにつながっていることは、明確な事実と言っていい。 


 しかし、一方で「医療費亡国論」という懐かしさを感じるフレーズは、今でも日本の経済成長を阻害する負の印象として生きている。逆に印象としてはここに来て、国民世論の合意になる寸前と言えるかもしれない。 


●医療費亡国論が伝えた負のインパクト 


 医療費が亡国の要因と見做されるようになったのは、本質的には老人医療費無料化政策などの影響によって、国民の受療意欲が過度に高まり、医療保険財政に厳しさが増したことが原因だ。「医療費亡国論」そのものは、1983年2月に当時の厚生省保険局長だった吉村仁氏の論文が発端となったことは、よく知られた話だ。 


 吉村氏の主張は、このまま国民の旺盛な受療意欲が継続し、医学の進歩にも対応していくなら、国民の租税・社会保障負担は過大になっていくに違いない、そしてそれは国の成長戦略と相容れないものではないかとの問題提起であり、そのうえでその後の医療提供総量規制の必要を説いたものだ。実際、このときの吉村論文に沿うようにして、医療費抑制へのさまざまな政策展開に舵が切られた。 


 1990年代以後、吉村論文は同年(1983年)末に武見太郎・元日本医師会長が死去したことと合わせて、医師会の弱体化と医療費抑制策のスタートが両輪になったとの見方を固定させた。しかし、医療経済的視点のみで語られるこうした分析は、やや短絡にも見える。吉村論文が脚光を浴び、武見時代が終焉したというのは、確かに時代の転換点としては象徴的だが、医療費のインパクトはそうしたエポックがなくても、その頃から顕在化はしたのではないか。 


 吉村論文は、客観的にみればその後の高齢化、生活習慣病の膨張などを見越した、的確な観測だといえる。むろん、これには反対論もある。反対論の主流をなすのは、実際に国庫負担としての医療費が亡国的なものかという疑問だ。国民医療費は38兆円として、国が負担するのは約14兆円である。50兆円とも言われる公共事業費との予算規模での比較、あるいは、国民消費の観点から30兆円とされるパチンコ産業との比較で語られる国民負担の視点、20兆円規模に近づいているとされる葬儀市場での人々の負担との相関をみるとき、医療費の規模が過大だと見るのは妥当かという論理だ。とくに葬儀市場の拡大は多死時代を迎えた今、医療費との比較論が今後、台頭することを予感させる。 


●「医療」を「消費」としてみると 


 前記のような、医療費と、とくに消費における「国民負担」の相関は、論議として違和感を覚える向きも多いに違いない。現実的に、医療費は租税と社会保険料という国民負担の問題から見れば、純粋に財政政策の重要課題であり、パチンコや葬儀は、いわば内需消費、経済活力のバロメーター的な存在であり、それを比較することに無理があるのも認めなければならない。 


 しかし、吉村論文以前の時代は、医療提供体制の整備が進められたことに留意してもいいのではないか。それは「医療」を消費する時代をつくった歴史であり、医療を求める社会ニーズに応える時代だったのだ。多死時代を迎えて、葬儀市場のニーズが拡大するのは、ある意味、現代の必然であり、戦後の食糧難時代をくぐり抜け、セメントも供給が潤沢になった時代状況では、人々は健康であることを求め、医療がいつでも手に届くことを願っていた。テレビや冷蔵庫、エアコンが欲しくなり、車が欲しい、旅行もしたいという時代も同時に進行した。医療消費時代に、医療はいわば電化製品や自動車と同じく産業的構造で拡大しようとしたのである。 


 とはいえ、国民皆保険が始まった61年に、そうした「消費的ニーズ」に制度自体が機能しきれていたわけではない。前回にも触れたように、当時から公的病院の拡大にはブレーキがかかり、民間医療機関は資金調達に医療金融公庫以外に、公的な機能があったわけではない。皆保険は、すなわち自由診療の領域を狭め、診療報酬という計画経済、あるいは最初から量的規制が機能しやすい政策のなかで、医療消費時代の到来に対応した。 


 皆保険は一見、消費時代に適応したニーズ側へのインセンティブにはなったが、それを供給する側には、規制的な側面を持ったものだったわけで、「医療の非営利性」を足枷に、産業構造政策的に成長が主導されたものではない。政策として、思い出されるのは1県1医大構想、つまり、医師の供給を拡大したことが挙げられる。これとても、わずか数年後には需給抑制に方向が転換されている。 


●薬価差益のダーティイメージ 


 医薬品流通を経済学的にみると、医療の大量消費時代が、医薬品産業、流通の規模拡大につながったことへの言及はあるが、医療全体の「産業的構造の基盤整備」に、医薬品産業・流通が寄与したことの評価は小さい。逆に、医薬品流通におけるネガティブな取引行動、不透明な実態の連続、後から後から出てくる流通改善の検討、試みは医薬品流通、特にその中の「金融機能」を暗部として捉える見方から出発していることがほとんどだ。その象徴が「薬価差益」だろう。 


 少し穿った言い方になるが、薬価差益が現実に存在したという証拠は果たしてあるのだろうか。1961年の皆保険から1981年頃まで、「薬価差益」は、医療政策の中で最大の「暗部」であり、マスメディアの医療機関、医薬品産業に対する批判の最たるものだった。むろん、「薬価差益は潜在技術料」として、これを肯定してみせる医療機関もあったし、医療団体もあった。「医療は非営利性」で、「社会保障の一分野」で、聖域であるから、医療機関が薬の差益で儲けるのは「ケシカラン」というのが、メディアの単純な批判の背景であり、セレブであった医師の収入源が、「薬価」という公費からのカスリだという印象付けは、その後の「薬漬け」批判に軌道を合わせている。


 証拠は果たしてあったのかという疑問を呈したのは、医師の高級料亭やクラブでの飲食、高級車の購入に差益が使われたというイメージづくりが先行して、実際には、いわゆる薬価差益という存在が、医療提供体制の整備や強化に大半が費消されたのではないかという検証を疎かにしたのではないかという疑問からだ。 


●薬剤費の「差額」は今のほうが規模は大 


 薬価差益を丸ごと取り出し、これだけありましたというデータはない。データがないから「後ろ暗い」ものだということかもしれないが、そのこと自体、奇異ではないか。 


 非常にラフだが、丸めた数字を使って、薬価差益(のようなもの)の規模を推定する。国民皆保険からほぼ15年を経過した1975年(昭和50年)の国民医療費は約6兆5000億円。当時の薬剤比率は32%程度で推移していたから、30%に丸めると医療費中の薬剤費は1兆9500億円程度となる。1975年の医薬品生産金額は約1兆8000億円、医療用はそのうちの9割程度で、流通経費等を勘案すると、医療用の市場流通額は約1兆6000億円程度と推定。薬剤費と生産金額の差額は、3000億〜3500億円規模とみることができる。断っておくが、これは非常にラフな単純な計算であり、すなわちこれが「薬価差益」とみるのは早計ではある。 


 同様に、1980年をみると、国民医療費は約12兆円、薬剤比率30%で推計すると3兆6000億円。医薬品生産金額は約3兆5000億円の9割として3兆1500億円。両者の差額は4500億円程度となる。ちなみに、2010年度の医療費は36兆6000億円、薬剤費は比率21.2%、7兆8000億円。医療用医薬品生産金額は6兆円を上回る程度だから、差額規模は1兆8000億円ということになる。単純計算だが、これは妙な結果だ。 


 1975年から2010年までの35年間で、国民医療費は5.6倍に膨らんだ。一方、医療用医薬品生産金額は3.8倍程度にしか増えていない。しかし薬剤費と生産金額の差は5.1倍。ほとんど国民医療費と同様の伸びを示している。この間、医薬分業は飛躍的に進んだ。今や、この差額は調剤薬局の設立、人件費に消えているのだろうか。そうして、これをなぜ薬価差益と言わなくなったのだろうか。(幸)