仕事柄、認知症に関連する本は数多あるが、多くは(1)認知症の治療、(2)認知症の人の介護、(3)認知症の家族を持つ人向け――である。


 最新の治療法・治療薬から、介護のノウハウ、家族の介護の苦労や疲れた心の癒し方等々認知症の人にかかわる人々に役立つ情報が記されているが、どこか認知症の当事者の気持ちが置き去りにされていないか?と手に取ったのが、認知症の当事者が自らつづった『認知症の私から見える社会』である。


 認知症といっても人によって状態は異なる。本書は、1人の視点を基本にしてはいるものの、当事者に見えている“社会”は、認知症ではない周囲の人々が想像しているものとは少々ズレがありそうだ。


 例えば、認知症の人に対するイメージ。しばしばマスメディアや書籍に登場するのは、〈重度の症状の情報〉だ。


 何もできない、何もわからない。それに周囲が振り回される……。


 しかし、〈実際には会話することができるし、笑い、考えることもできる〉。それどころか、周囲の期待に応えたり、気遣いまで、できてしまう人もいる。


〈「注文をまちがえる○○店」で働く当事者のおばちゃんが、「ここに来る人たちは私が間違えるのを期待しているんだから、間違えたほうがよいのでは」と周りの人に話していました〉といった具合だ。


 認知症の症状があるとはいえ、皆、意思を持った大人なのである。


 誰しも他人が決めた決まりやルールに従って動くより、自分のことは自分で決めたいものだ。しかし、認知症の人は意思を制限されることも多い。


 例えば、ケアプランの作成。著者は〈ケアマネージャーが家族の意見だけを聞いて良かれと思って作られたプランにより、介護保険サービスに当事者が当てはめられてしまうことが多いように思います〉という。


 一方で、〈当事者を無視して作られたケアプランに書かれているデイサービスへ行くのを「嫌だ」と言うと「拒否」と言われ〉てしまう。


 プライバシーがなくなることも。例えば、デイサービスや施設を利用すると、笑顔で過ごしたか、食事の進み具合といった、些細なことまで共有される。〈便秘や下痢気味だと排泄物の状態まで共有〉されるのだ。


 認知症でなくとも便秘や下痢を起こすことはあるだろう。周囲の人々が自分の便の状況をめぐって大っぴらに情報共有をしているとは、正直あまり気分のいいものではない。


■当事者ならではの“生活の知恵”


「○○をやってみたい」「△△に行ってみたい」という欲求は、認知症の人も同じだ。にもかかわらず、認知症だからという理由で〈何もできないという先入観を持たれている〉。認知症と診断される前には普通にできていたことでも「危ないからやめろ」と言われるケースも増える。


 実際、認知症の家族に、1人で出歩くことや、料理で火や包丁を使うのをやめるよう言った経験がある人は少なからずいるだろう(グループホームを見てもわかるように、認知症の進行を遅らせるという意味では、日常生活程度の家事はむしろやってもらったほうがいいようだ)。


 それほど問題がないのに、認知症の人が、あきらめや周囲の先入観や期待に従う形で、さまざまな欲求を抑えているとしたら残念な話である。


 本書には、当事者の経験を踏まえた、生活上の工夫が記されている。


〈派手なカバンを持つ〉〈保険証、診察券、お薬手帳を一つの入れ物に入れておく〉〈電車の乗り場、乗る車両をいつも決めておく〉といった実践的ノウハウは、認知症の人にとって、参考になるはずだ。


 家族が電気を消し忘れることにイラっとするなら人感センサー付きLED電球を設置する、眼鏡をよくなくすなら同じものを10個買って用意しておく(昨今の眼鏡はずいぶん安くなった)……。モノや機械を活用する方法は、普段の思考や態度を変えずに済む。認知症の人も支援する家族もストレスなく実行できそうである。


 認知症の人の生活上の制約を取り払ううえで、今後大いに期待できそうなのが、ICTの活用である。難しく考える必要はない。著者が行っているように、タブレットやスマートフォンで〈グーグルマップ〉〈電車乗換案内〉といった、既存のアプリを使ったり、少しカスタマイズしたりするだけで、認知症の人が1人でできることは大きく広がりそうである。(鎌)


<書籍データ>

認知症の私から見える社会

丹野智文著(講談社+α新書880円)