(1)遁世僧である
無住(1227~1312)は、鎌倉時代の僧で、仏教説話集『沙石集』を著した。「沙石」は、「しゃせき」とも「させき」とも読む。
『沙石集』は、落語のネタにもなっている滑稽話が多い。文字を読めない一般庶民への仏教普及のためには、説法においては、難解なる仏教教学よりも、身近な世俗的事件、しかも笑える滑稽話・笑話、少しエロっぽい話もあるが、そのなかに仏教のポイントを含ませることがベターと思ったのだろう。『昔人の物語第90話』で取り上げた『神道集』のように、有り得ない奇想天外・荒唐無稽なお話よりは、日常生活で生まれる現実的なお話のほうが、無住の感覚にマッチしていたのであろう。漫画でも、『ガンダム』が好きな人もあれば、『サザエさん』が好きな人もいる。
ただし、無学な庶民相手の説法では、難解なる仏教教学は極小であったと想像するが、『沙石集』という文章化にあっては、仏教教学が随所に登場してくるので、読みにくいページが多々ある。やむなし、ということか。
さて、無住の生涯は……
どうやら、梶原氏の子孫らしい。梶原氏は坂東武者の氏族である。梶原景時(1140~1200)が源頼朝(1147~1499)の信頼を得て、権勢を振るった。坂東武士のほとんどは文字を読めない武力一辺倒であったが、梶原景時は武力・兵法にも優れ、さらには読み書きができ和歌も詠めた。
読み書きがしっかりでき、論理能力・事務能力に優れた梶原景時は、武力一辺倒の鎌倉御家人の間では評判が悪かった。源頼朝が死ぬと、一挙に、梶原一族は滅ぼされた(1199年、梶原景時の変)。なお、お芝居・物語では、梶原景時は源義経の敵役として登場するのが常である。だから、梶原景時は悪人イメージが強い。
無住の父は、梶原一族の生き残りと推測されているが、明確な家系図があるわけではなく、あくまでも推測です。
1227年、無住は鎌倉で生まれた。没落一族なので、幼少からお寺に入れられた。お寺及び親類の間を転々とした。でも、知能指数も高く、仏教の勉強・修行も熱心であった。18歳で出家する。よほど優秀だったのだろう、20歳で北関東の小さなお寺を譲られ住職となった。しかし、お寺を維持する経営能力がなく、寺を出て、遁世僧(とんせいそう)となる。
大雑把に言って、鎌倉時代の僧は「官僧」と「遁世僧」に区別される。官僧は、天皇から得度を許され、国立戒壇において授戒を受けた僧である。その官僧を辞めて自由な仏道修行をするのが遁世僧である。「遁世僧」イコール「世捨て人」「乞食僧」のイメージが強いが、確かに、「遁世僧」のなかには、完全な「世捨て人」「乞食僧」もいたが、「遁世僧」を広く解釈すれば、旧来の「官僧」中心の仏教界に満足せず、仏教改革・鎌倉新仏教を追求した僧たちと言える。旧仏教の「官僧」の第一目的は、国家鎮護であるが、「遁世僧」の目は個人救済・庶民救済・女人救済・非人救済に向かっていた。法然・親鸞・一遍・日蓮・栄西・道元らも「遁世僧」と言える。
無住は、奈良・京都、あるいは鎌倉の寺に移り住み、多様な教学を学んだ。
そして1262年、37歳のとき、尾張の長母寺に移り住む。以後、87歳で死亡するまで、ここが住まいとなった。
長母寺は、現在の名古屋市東区矢田にあり、矢田川の南側である。私は、小学校低学年のとき、長母寺の近接地に住んでいて、矢田小学校に通っていた。だから、長母寺及び長母寺の山は遊び場であった。蝉を取ったり木に登ったり……、矢田川では毎年、子供が溺死していたので、長母寺の山にお地蔵さんがつくられた。
無住が移り住んだときの寺の名は桃尾寺であった。その寺は、程なくして焼失するが、その地の領主など有力者の寄付により、再建された。そして、寺の名が長母寺となり、無住が初代住職となった。無住は、著名な僧になっていたのだ。
なお、誤解しないでほしいのは、長母寺が再建された、と言っても、長母寺は「官寺」でもなく、また、京都・奈良・鎌倉の有力寺院との繋がりもなく、極めて貧しい寺であった。寺領は約10町(≒10ヘクタール)というから、現地へ行けばすぐわかることだが、寺領と言っても山ばかりで、畑が少々あったくらいだったろう。もっとも、薪には困らなかったろう。そして、無住は、強く「遁世僧」を自覚していた。
長母寺が存在していた地は、言うまでもなく、京都・奈良そして鎌倉から離れている。さらに、東海道沿いでもない。要するに、文化が行き渡らない辺鄙な地域であった。それでも、広範な辺鄙な地域に点在する寺々は、そこそこ交流があり、そこでは、「どんな説法がよかったか」など情報交換がなされていた。『沙石集』を読むと、そんなことが窺がい知れる。
無住が54歳のとき、『沙石集』を書き始め、58歳で執筆を終える。
その後、無住は『聖財集』、『妻鏡』『雑談集』を執筆する。つまり、無住は『沙石集』を含め4部の本を書いたわけで、むろん『沙石集』がダントツで有名である。
そして1312年、87歳で入滅した。
(2)序文
あらかじめお断りを一言。私が参考にしたのは、『新編日本古典文学全集52沙石集』(小学館)です。他の本とだいたい同じですが、異なる部分もあります。これには、高校の教科書にもあり、また、落語にもなっている「児の飴くいたる事」はありません。
『沙石集』は第10巻で、各巻は10~25のテーマとなっている。だから、テーマは131あり、個々のテーマには、いくつもの小話が取り込まれている。『沙石集』の有名な話とは、その小話である「ああ、その話、聞いたことがある」という小話が多くあると思うが、まずは『沙石集』第1巻の序文を口語文(省略もあり)で紹介しておきます。
そもそも、粗野な言葉であれ温和な言葉であれ、言葉はみな、仏教の最高真理に帰一する(注、『涅槃経』に書いてある)。そして、生計を立てて暮らしを営むことは、真理そのものの姿である。
したがって、狂言綺語(道理から外れた言葉、飾り立てた言葉)のむなしい戯れを縁として(注、白居易(=白楽天)の『白氏文集』にある)、仏乗の妙なる道を知らしめ、世間の卑近なことを喩(たとえ)として、仏教の最高の道に導き入れようと思う。
それゆえ、老いの眠りを覚まし、見たこと聞いたことを、思い出すままに、良し悪しを区別せず、筆にまかせてかき集めました。
私のような老法師は、死後の準備をすべきなのに、興味本位の話を集め、卑しい俗事を期している。よくない行為に似ているが、愚かな人が仏法の大きな利益も気がつかないので、経論の明快な文を引き、先賢の残した教訓を載せたのである。
そもそも、仏道に入る方法はひとつではない。悟りを開く因縁もさまざまである。仏の大なる心を知れば、もろもろの教義は同じである。さまざまな行法を修行する趣旨は皆同じである。そのため、雑談のついでに教門を引き、戯れの言葉のなかに理論と実践を示した。
これを読む人は、私の拙い言葉をあなどらずに、仏法の理を悟って、涅槃の世界へ至る道しるべとしてほしい。これが、愚かな私の願いです。
金を求める者は沙(砂)を捨てて金を採り、玉を磨く者は石を破(わ)って玉を拾う。これにちなんで、本書を沙石集と名づける。巻は十に満ち、記事は百を超えた。
時に弘安三年(1280年)、酷暑の夏のころ、これを編集した。
林下の貧士無住
序文では、1280年に書き終えたことになっているが、その後、修正・加筆して、最終的に書き終えたのは、1283年である。
さて、無住の思想的特徴は、「教団・教派にとらわれない」ということである。鎌倉新仏教は、他教団と喧嘩をすることが多くなったが、それを苦々しく思っていたのだろう。
(3)恵心僧都の吉野参宮
『沙石集』第1巻のテーマ(記事)は10ある。
1.太神宮の事
2.解脱房の上人の参宮の事
3.出離を神明に祈りたる事
4.神明は慈悲を尊び給いて物を忌み給ふ事
5.慈悲と智とある人を神明も尊び給う事
6.和光の利益の事
7.神明は道心を尊び給う事
8.生類を神に供ずる不審の事
9.和光の方便にて妄念を止めたる事
10.浄土宗の人、神明を軽しむべからざる事
極めて大雑把に言えば、本地垂迹説のことが書いてある。本地垂迹説とは、「インドの仏が日本では神の姿で出現した」というもので、鎌倉時代から広まった。仏教側の立場からすれば、「本当は仏である」に比重が置かれ、神社側からすれば「神の姿で出現した」に比重を置く。
無住は、表向きは本地垂迹説を肯定しているようだが、仏教教学をしっかり学んでいるから、本地垂迹説を馬鹿馬鹿しいと思っていたに違いない。しかし、正面から批判するのは得策でないと思っていたのだろう。あるいは、前段の序文にあるように、「仏道に入る方法はひとつではない。悟りを開く因縁もさまざまである」ということで、本地垂迹説から仏道に入るのも、まぁ、いいじゃないの、仏教と神道で喧嘩するのはよくない、そんな感じでいたのではなかろうか。
そこで、「第1巻」の「4.神明は慈悲を尊び給いて物を忌み給ふ事」にある小話を紹介する。これは、エロい小話ですよ。
恵心僧都(えしんそうず、942~1017)は、源信と呼ばれることのほうが多い。天台宗関係は恵心僧都、浄土教・浄土真宗では源信と呼ぶ。『往生要集』を著した。なんにしても、スゴイ名僧である。
昔、恵心僧都が(吉野の金峰山へ)参拝した。巫女に御託宣が下りて、巫女は天台宗の教えなどを仰せられるので、めでたく貴く思えた。恵心が、天台宗の疑問点などを申し上げると、明快にお答えなさる。そうして、恵心は次第に神(=巫女)に取り入って、天台宗の大事な点を尋ね申し上げたとき、神がかりした巫女は、柱に立ちそひて、足をよりてほけほけと物思ふすがたにて、「あまりに和光同塵が久しくなりて、忘れてしまった」とおっしゃったのは、かえってしみじみ思われる。
※和光同塵(わこうどうじん)……『老子』にある言葉。自己の才能を隠して塵(ちり)の世に交わり入る。仏教では、仏・菩薩が衆生救済のため、光輝く本来の姿を隠して、煩悩だらけの衆生に対応している、という意味。
この小話の次の小話も似たもので、観音の化身と名のる人に、「証拠に神通力を見せてくれ」と言ったら「あまりに長い間経ったので、神通力を忘れてしまった」と答えた。本当に、観音の化身かどうかわかりません。本当かも。そんな小話である。
無住は、本当は本地垂迹説を信じちゃいないが、「仏道に入る方法はひとつではない」から、それは、それで容認しておこう、という程度だと思う。
それで、恵心の小話のどこがエロいのか。「神がかりした巫女は、柱に立ちそひて、足をよりてほけほけと物思ふすがた」がエロいのだ。
とりあえず、「ほけほけ」の用語解説であるが、漢字では「惚惚」と書く。青江美奈の大ヒット流行歌「恍惚のブルース」の「惚」である。「惚惚」の読み方は「こつこつ」ではなく、「ほけほけ」と読む。魂を奪われて、うっとりとしている様子を意味する。
巫女が立ったまま柱に寄りかかって、足をくねくねしながら、うっとりとしている様子がエロいのである。恵心は、そのエロい姿によって、仏教の本質的質問を忘れてしまったのである。
ついでに、巫女のエロ姿は、「第10末巻」の「12.諸宗の旨を自得したる事」のなかの小話「和泉式部の貴布禰祭」でも登場する。『昔人の物語第75話和泉式部』で取り上げましたので、ここでの紹介は止めます。
なお、和泉式部の小話は、「第5巻本」「第5巻末」に、いくつか登場しています。和泉式部ファンは、読むべきでしょうね。読めば、思わず、ニンマリ。
(4)能説房
この小話は、「第6巻」の「11.能説房の事」です。
嵯峨に能説房という説教師がいた。弁舌たくみな僧であった。隣に酒屋を営む金持ちの尼がいた。能説房は酒が大好きで、布施はすべて酒代になった。
この尼が仏事を行うことになり、能説房を導師に招いた。近所の者が、それを聞いて能説房に言った。
「その尼は酒に水を入れて売るので、思うほどの味がしない。今日の説法の際に、酒に水を入れるのは罪であることを、こまやかに仰せください。我々にとってもありがたいことです」
能説房は「皆さんが言う前から、私も、そう思っていた。今日は、日頃から思っていることを説法してやる」と断言した。
能説房は言葉どおり、説法では経典の説明はほんの少々しかせず、酒に水を入れた罪状を考え集めて、なかったことまで交えて説法した。
さて、説法が終わり、尼は近所の者を皆呼んで、大きな桶に、たっぷりと酒を入れて、ふるまった。
能説房は上座に座り、盃を手にして飲んだ。
尼は「思いも知らず驚きました。酒に水を入れることが罪だなんて」と言った。
皆は「水が少し入っていても旨いのに、水が入っていない今日の酒はどれほど旨いことか」と期待した。
そのとき、能説房は「あっ」と叫んだ。
皆は、「この酒は、とても旨い」という感嘆の声かと喜んだが、さにあらず。
能説房は「日頃はちと水くさい酒であったが、これは、ちと酒くさい水である。どうしたことか」と尼に聞いた。
尼は答えた。
「そうでしょう、そうでしょう。酒に水を入れるのは罪とおっしゃられたので、これは、水に酒を入れました」
この尼は、洒落でしたのであろうか、それとも本気でしたのだろうか。
この小話の後に解説が続く。仏法も、その言葉を間違って心得れば、邪法となる。真言の教えを聞きかじり、仏法に背くけしからん教えを広めているのは、経文の解釈がおかしいのである。近頃は、邪見がはびこっている。邪見がはびこる国は、災難が襲うだろう。よくよく恐れねばならない。
たんに、大酒飲みのでたらめな僧と小ずるい尼、馬鹿と阿呆の絡み合いを面白がっているのではない。本物の仏教が忘れ去られていることを嘆いているのである。
(5)愚痴の僧文字を知らざる事
それにしても、当時の僧のレベルは、かなり酷いものであったようだ。「第8巻」の「3.愚痴の僧文字を知らざる事」というのがある。「愚痴」はおろかでアホ、という意味。
ある山寺では、『法華経』と『仁王経』の2つを、僧一人一人が暗誦していた。文字を見ずに暗誦する愚かな僧が多かった。
ある若い僧が師から『大般若経』を譲り受けた。虫干しのため広げたら、隣の若い僧が「何経か」と尋ねた。
「はて、何経だろうか?」
「その経を10巻ください。私は『法華経』を持っていないので、これを『法華経』にしよう」
ということで、10巻をもらって帰った。帰ると、別の僧が「その10巻の経典、どうしたのか」と尋ねる。「たくさん経典があったので『法華経』にしようと思って、もらってきました」と答えた。「『法華経』は8巻だ。余りの2巻をください。私は、その2巻を『仁王経』にします」と言って、2巻が譲られた。
お経の内容に関係なく、手あたり次第に経典が譲られるのは、愚かで滑稽である。
また、ある在家で『大般若経』を読ませたが、そのなかに愚かな僧がいて、経を逆さまに持っていた。進行役が「あの御坊の経は逆さまではないですか」と言うと、正しく持っている僧が持ち直して逆さまにしてしまった。それで、最初から逆さまに持っている僧は、自分は正しく持っているという顔で、持ち直した僧を間抜けな奴と思い、「私もそう思っていましたよ」と言った。
また、「大」という文字を知らず、「又のような文字は何と読むのか」と尋ねた僧がいた。
また、「般若」という漢字を知らず、「船か」と言った僧もいた。
こんな僧がいたとは、あまりにもお粗末です。末世には、いよいよこんな僧ばかりになるのであろう。
他にも紹介したい小話が沢山ありますが、取捨選択が困難なので、いずれかの機会に。
終わりに一言。『沙石集』をパラパラ読みながら思った。鎌倉時代が末法の世なら、今の世も末法だなぁ~。
…………………………………………………………………
太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。