天皇制について正直、強い関心はない。国民の総意として現行の形で続いてゆくのなら、異論は何も持たないし、穏便な形で制度の見直しや廃止があるのなら、それはそれで受け入れる。(憲法を改正して)法的には一般国民と同じ立場になり、そのなかでごく自然に敬意が払われる、そんな形でもいいように思う。


 同時代の著名人に「尊敬できる人」を探すなら、私にとって現上皇は間違いなく五指に入る人だ。南米移民や沖縄を取材テーマとする立場上、上皇ご夫妻がこれらを含む民衆史に専門家並みのご造詣をお持ちであることを知るからだ。象徴天皇としての責任を、あれほどストイックに目指されたご努力は、並大抵のものではなかったと拝察する。


 かたやこの国の歴史上、さまざまな時期の統治者が、天皇の名を己の「箔づけ」に利用して、最高権力者として全責任を負う立場を避けた側面には、日本人的な「小狡さ」を感じ取る。とくに明治維新から先の敗戦にかけての政府にはそれを思う。なので、システムとしての天皇制に関しては、一歩距離を置いて眺めている。


 そんな少々入り組んだ天皇観・皇室観をふんわりと抱いてきた私だが、今回の眞子さまのご結婚騒動を見て感じたのは、もはや21世紀の日本で、あれほどに雁字搦めの人生を強いられる境遇は、人道上の問題に思えるということだ。どんな相手と結婚しようが構わないじゃないか、放っておいてくれ。そのひとことを言いたくても言えない。政治家や芸能人にも有名税はあるが、皇族に関しては公的な立場を捨て去って、一私人になる逃避も許されない。「かくあるべし」という規範のストレスに、とことん苛まれる。このままでは、女系天皇の可否云々を論じるより以前に、究極の不自由さゆえのストレスで天皇制は内側から継承困難になるのではないか。そんな危惧を覚えるのだ。


 今週は週刊文春が『眞子さん小室さん「世紀の会見」全真相』、週刊新潮が『「小室眞子さん・圭さん」質疑拒絶の全裏側』と銘打って、先の結婚会見の特集を組んでいる。土壇場で記者との質疑を行わない形になり、事前提出の質問に文書で出された回答には「事実に基づかない情報」「虚偽の情報」という表現が頻発。小室家の金銭問題にまつわる質問は一切シャットアウトされた。ここまでの対応は公人としてあまりに頑なだし、両誌がそれに疑義を挟むのも理解できる。一方で、ネットなどの誹謗中傷を気に病んで眞子さんがPTSDになられた、という情報への心配もある。


 だが、何より私自身が感じたのは、「公人なのだからきちんと説明を」という問いかけが、「否応なく公人になられた皇族」にも突き付けられる残酷さだ。「何らかの職業に就き、その責任を負った人」と「もの心ついたときには、そうなっていた」という彼女を同列に論じるのは果たしてどうなのか。


 両誌の特集とも、識者の談話や寄稿が添えられているが、文春の記事には私が最近、少しはまっている作家・橘玲氏のコメントもあり、感想はかなり似通っていた。タイトルは『皇室制度という“無理ゲー”』。自分らしく生きたいという世界的潮流のなか、「理想の家族」であることを期待される皇室。天皇制を存続させるには、皇位継承者に基本的人権への制約を覚悟していただき、なおかつともに生きるパートナーも要る。今回の眞子さんへのバッシングを見て、将来、そんな皇室の一員になろうとする民間人は現れるのか。「私には疑問ですが、そうした結果も含めて『国民が選んだ』ということなのでしょう」。橘氏は諦めを漂わせてそうまとめている。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。