●医薬品は消費されればいいのか
当たり前のことだが、製薬企業にとって医薬品開発は企業活動の源泉であり、ブロックバスターとなる戦略製品が生まれれば、その利潤によって、社会に対して「成長」という有形の果実を提供し、自らも潤う。一方で、社会に対しては「安全」という責任も負っている。その責務は、製品やサービスを提供するあらゆる企業に一律であり、それを免れることを許される企業はまずない。
なかでも医薬品製造企業は、その製品そのものが極めてリスキーであることを社会が常識として携えている特別な責務があるといって差し支えない。そのため、ひとたび、そこに企業も、承認許可を与えた国も、患者に処方した医療者も想定できなかった副作用が現出すると、たちまちそれは「薬害」に変貌する。あるいは「薬害」という印象はなくとも、「依存」という弊害にも目を向けなければならない。とくに後者には、医薬品企業の現状の関心は十分だろうか。
医薬品副作用被害と一口に言っても、個々の「害」の出発と、その規模、印象と社会的インパクト、後世代に与えた影響は大きく違う。国内では、「サリドマイド」、「スモン」、「血友病因子製剤」が代表的なものといえるが、そのインパクトは微妙に違うし、社会的反応も一様だとは言い難い。
●被害者は何番目だとかは関係ない
サリドマイドに関しての活字は、昨年12月に出された『0番目の患者』(リュック・ペリノ著)が印象的だ。ペリノが語るあらましはこうだ。
サリドマイド副作用被害を受けた最初の子どもは、グレゴールという。いわばサリドマイド副作用被害の初めての患者、いわゆる同書のタイトル「0番目の患者」だ。彼は耳を持たずに56年のクリスマスに生まれた。父親は、当時のドイツの大手製薬会社の社員で、なんの疑いもなく会社が開発した新薬のサンプルを妊娠中の妻に渡した。
「全社員に気前よく配布されたサリドマイドのサンプルを持って帰ってきた夫は、吐き気を抑える効果もあることを妻に伝えた。夫は販売量と利益を押し上げることになるこの新たな適応症について、最初に知った社員のひとりだった。妻も、他人より早い情報入手というある種の特権を与えられた。吐き気はさほどひどくはなかったが、進歩の恩恵を受けずにいる理由もない」。さらに、「この妻が服用したのは2、3回だけだった」。
今ではわずか1錠の服用でもそのリスクが高いことも語りながらペリノは、その後の多くの親たちが罪悪感という受難を背負ったとも語ってはいる。しかし、この0番目の患者の両親に対しての表現はやや意地が悪い。開発したグリュネンタール社の社員だったこと、その“特権”を使って、いち早くサリドマイドを入手したことに、彼らがその対価を支払ったが、それ以外の人とは一線を画したいという底意が見える。しかし、グレゴールとその両親が払わされた対価は過酷なほど大きすぎる。
確かにペリノの憤りはわからないわけではない。開発した企業、グリュネンタール社は61年に告発した小児科医のヴィドゥキント・レンツに対し、さまざまな対抗措置を繰り出したほか、06年になってもテレビのドキュメンタリー番組にクレームをつけた。ペリノがその企業姿勢を厳しく批判するのに違和感はない。また、サリドマイドが他の疾患への適応開発が継続されていることも企業の営利追求として不快感を示している。
●病気より健康の方が儲かる
この私の印象は、74年10月13日の日曜日に行われたサリドマイド被害和解調印式に、私自身が取材に参加、深い衝撃を受けたことで相乗されている。どうしてもこの副作用被害だけは目の当たりにしたことで客観的にはなれない。とくに、そのとき私は、数ヵ月後に初めての子に恵まれる予定があった。調印式会場ではしゃぎ、騒いでいる特有の症状を持った子どもたちに対するいたたまれなさも消すことはできなかったが、その子たちを産んだ親たちの悔恨に打ちのめされた姿の記憶が強い。彼らは製薬会社というより、自らを責めていた。
当時、日本でも、OTCではあるが比較的高価な睡眠剤だったサリドマイドは、悪阻の吐き気を抑えるとして富裕層が好んだという根拠の薄い言説も出回っていた。その悪意も親たちは受けとめていた。一方的に企業を責めることはなく、そこにある「子どもたちに対する加害感情」のようなものが大きく存在していたことが、この副作用被害の特徴で、それゆえに、企業と国のペースでの和解交渉が進んだという経緯も踏まえておかなければならない。
企業も国も許されていたわけではないが、加害感情は親たちと分け合っていたという点では、特殊なケースだと思う。それだけにグレゴールの両親にもそういう加害感情は存在していたはずで、それが“特権”ゆえにより強く非難されている。ペリノはその意味では、その“特権”を強調したことで、企業責任を曖昧にしてしまったように思える。
サリドマイドの市場からの回収は欧米では62年初頭だ。日本は62年9月。企業も国も対応はいつも遅い。対応の遅さは企業の社会的責任として、もっと大きなテーマだという認識の醸成が、未だにできていないように感じる。
サリドマイドでは私の印象はよくはなかったが、ペリノの著書では、企業がやや品のない行動をすることも明らかにされている。アルツハイマー病(AD)に関する歴史は、概要は知っていたが、ADという疾患名とアルツハイマー医師の存在が一時期忘れられていた話をペリノが明らかにしている。実は医師の名はいつしか埋もれていたのだが、80年代に入って甦った。
「メディアを通じて広まる情報は、健康医療に関する情報を市場が掌握して広めたとしか説明のしようがない。(中略)産業界は本当の病人の研究は、健康な人間に関する研究ほど儲からないことにすぐ気がついた。そこで、老化が早まる要因や老化プロセスの恐怖に関するあらゆる情報を広めることに方向転換する必要があった。数ヵ月の間に老年性痴呆という診断は姿を消し、アルツハイマー病にとって代わった」。つまり、商業主義がADと医師の名を広めたというわけ。
著者は、製薬会社がアルツハイマー氏の生家に記念館を建てたことを記しながら、「多くの伝説的人物の足跡を保存しておくことは大切だ」としながら、企業行動にはシニカルな印象を伝えている。
●ベンゾ依存症の嫌な状況
活字を追っていくと、医師の処方姿勢に企業があまり違和感を持たないことに、逆に読者が違和感をもつこともある。薬物などの依存症治療で発信を続ける精神科医、松本俊彦氏の『誰がために医師はいる』(21年4月刊)では、精神科治療におけるベンゾジアゼピン系薬剤の“濫用”ともいえる状況が明らかにされている。松本氏の批判は主に、精神科医に向けられているが、企業側が放置していていいのだろうか、企業責任として適正使用への行動が必要なのではないかという照準もくっきりし始める。
著者は、ベンゾジアゼピンに関して「医師はなぜ処方してしまうのか」との章をもうけて実態を明らかにする。前提として、精神科を訪れる人は他の疾患の人よりも、自分の症状や苦痛を医師に理解してもらいたいという気持ちがはるかに強いことがある。それでも精神科医は10分も患者の話を聴くとつらくなってくると松本氏は言う。多くの場合、「それではいつもの薬を出しておきます」という言葉で診察を切り上げる、らしい。同書でもそういう姿勢を示唆する話が出ている。
その結果、増加しているのがベンゾジアゼピン系の睡眠薬や抗不安薬(以下、ベンゾ)の服用だ。著者によれば、覚せい剤依存症患者の多くが仲間の存在するなかで「快楽希求的な動機」で使用を始めるのに対し、ベンゾ依存症は「不安や不眠の解消」「抑うつ気分の解消」といった単独的な理由で始まるとの決定的な差を示したうえで、「快感は飽きる」が「苦痛は飽きるわけにいかない」と、ベンゾ依存症の深刻さを語る。日に何十錠ものベンゾを口に放り込む人が増え、ハシゴ受診してベンゾを入手する。
そうした素地が作られる背景として著者は、精神科医が統合失調症の患者にいかに薬を飲ませるかの技術を覚えることを挙げる。統合失調症の治療はほぼ生涯継続されるので、精神科医は服薬させる技術には熱心だが、服薬を止めさせることには無関心になる。
そして20年前頃から、「修行を終えた精神科医たちが、郊外の精神科病院を抜け出して、大挙して都市部駅チカにパラシュートで降り立ち、『メンタルクリニック』という店を開き始めたのだ。しかし、不幸にも、すでに彼らの技術は患者の病態にマッチしなくなっていた。外来に押し寄せた患者は、統合失調者ではなく、これまで精神科医療にアクセスしてこなかった層だったからだ。その多くは、仕事の問題、家族関係の問題、込み入った恋愛の悩みなど、薬だけでは解決できない問題を抱えていた。そこで医師が自慢の『薬を飲ませる技術』だけを発揮したならばどのような結末になるのか――」、そんな事態がやってくる。
患者の長い話に倦み、薬を飲ませる技術に長けた医師が、かなり安易に処方してしまう場面が浮かんでくる。精神科受診の垣根が低くなり、精神科医がクリニックを開業する時代に爆発しているベンゾ依存症と、処方。
著者はベンゾ依存症を憂えて機会あるごとにかなり激しく批判を続けてきたが、そのために身の危険を感じるほどの非難を受けたという。また、松本氏の主張に同調するメディアがいくつか勘違いしている現実も明らかにしている。
そのひとつが「薬物療法偏重は金儲け」というロジック。
「率直にいって、精神科医療の収益において処方料など微々たるもの、真実はその反対で、我が国の精神科医療が薬物療法偏重となるのは、薬がもっとも低コストで、しかも時間がかからないからなのだ」
利潤だけを考えているわけではない。低コスト、と医師が言うなら企業もそれほど利益が大きいわけでもあるまい。それなのに、過剰なニーズにブレーキをかけることもしない。企業の社会的責任は、その辺にもあるような気がするのだがどうだろうか。(幸)