連載初回に、日本の医薬品流通業者、卸売業がこの数十年に劇的に減少したことを示したが、このことは実は業界に身を置く者であるなら常識的な事実である。減らしてきた背景も周知のことであり、それは医療用医薬品に関する制度改革に伴う経営的対応の結果だし、また製薬産業のグローバル化、再編と構造改革を受けて余儀なくされたものであることは間違いない。しかも、医薬品流通の構造改革はまだ途上の問題であり、解決していないというのも一般的な見方だ。


 しかし、日本の卸・問屋が実は医薬品産業全体の主役として、その役割を果たした歴史的事実があるのも承知しておかねばならない。前回に紹介した、大阪(大坂)・道修町の話題はその点で、いかに日本の医薬品市場が流通、販路の業者によって成立してきたかを知る材料になるはずだ。ここでは、第2次大戦の統制経済下まで、医薬品市場がどのように形成されていたかをみる。


●問屋が価格決定力を持っていた時代


 医薬品流通や市場を研究している経済学の専門家は、第2次大戦が終わるまでは、江戸期に成熟した医薬品市場は大阪を中心にした体制で、大きく変動することはなかったという見方で共通している。販売力の強い伝統的な薬種問屋が流通支配してきたことが窺えるのだが、それが崩れたのは戦時中に敷かれた統制経済であったこと、そして戦後に、薬種問屋から衣替えした医薬品製造・輸入業による流通体制づくり、とくに直販の仕組みから、地方系列卸問屋の誕生という流れが生まれてきたのである。


 流通の変遷は、すなわち市場価格を形成する力がどこにあったかどうかを視座にすることでみることもできる。つまり、江戸期から戦前までは大阪・道修町が市場価格形成の中心であり、統制経済下で価格統制が行われてそれが崩れ、戦後の混乱期を経て、公的医療保険制度の中で、薬価基準を軸にした市場価格競争という新たな競争ビジネスに入り、製造業が価格決定に大きく関与できる仕組みになっていった。現在の卸の実態をみると、結局、戦後に生まれた医薬品卸業は価格決定力のない流通中間取次事業体のような印象になる。その意味で、戦前と戦後の医薬品流通が決定的に違っていることは理解しておきたい。


 1997年に「くすりの道修町資料館」が作成したパネル資料によると、戦時までは道修町が全国の薬種流通の中心地だったとして以下のように紹介している。


『江戸時代の大坂は、天下の台所といわれるほど、物流・経済の中心。諸国の物産は大坂に集まり、大坂で売り買いされてから全国に出荷された。道修町の薬種中買仲間は「くすり」の原料である「薬種」を商売にしていた。長崎で輸入した「唐薬種」も、各地から集まる「和薬種」も、目方を改め、品質を鑑別し、価格を決定して諸国に売りさばいた。現在でいう、大問屋、元卸問屋的な存在だった。


このような流通経路は享保年間(1716〜1736年)に定まった。道修町薬種中買仲間の成立後は、大坂に入る唐薬種を独占的に取り扱う権利が認められるようになる。安永8年(1779年)からは、全ての唐薬種は大坂を通じて扱うことが法制化された。


 和薬種については法的な独占権は得なかった。しかし全国に取引網を持つ道修町薬種商の実力により、和薬種も仲間で取り扱い、量的には唐薬種の3倍に上っていた。


 明治5年(1872年)に株仲間が解散になってからも、道修町薬種卸仲買商の間で取引される薬品相場は、全国に影響を及ぼしていた。道修町の薬品市場は。戦時経済統制が実施され、固定価格となるまで、薬品の価格形成の発信地だった。』(要約)


●元卸を軸に成立した流通


 ここで戦時統制経済までの医薬品流通体制を簡単にさらっておくと、明治から戦前までは前記資料のいうように、薬種卸仲買商およびそれを祖とする「問屋」が、基本的に価格決定力を持った医薬品流通の要として機能していた。医薬品製造業、いわゆる「メーカー」が、現在のような企業形態で機能し始めるのは、内外ともに1900年に入ってからである。


 このため、明治時代は、生薬をベースとする伝統約製造所のほか、中国からの輸入品、欧州からの輸入品は、バイヤーを通じて元卸と呼ばれる問屋が一手に受け入れ、それを「店売屋」「注文屋」と呼ばれる問屋に仲買し、さらにそこから小売、医療機関に販売されるというルートが一般的だった。元卸という看板は戦後まで生き残っており、大阪には元卸商を名乗る協業組織も残っている。


 この時代も、流通の実態は単純ではなかったようだ。例えば、「店売屋」は大都市部での小売直売をする一方で、「注文屋」への仲買機能も果たしていたらしいし、地方問屋や小売店、医療機関を販路とした「注文屋」は、仕入先は元卸と「店売屋」の両方を使い分けていたようだ。商品あるいは、その時々の決済状況、価格変動状況によって、取引先間の力関係も変動し、複雑な流通ルートが形成されていったことは想像に難くない。


 1900年代に入って、メーカーが独立した存在として機能し始めると、製品の販売・流通機能を受け持つ卸(大手問屋)が明確な存在として浮上してくる。一部の卸は自ら製造機能を持つようになったほか、薬種問屋から成立した問屋の再編によって、大手卸、国内医薬品製造企業へと枝分かれも行われた。こうした中で、特約店のような直販形態の流通ルートの開拓も行われ、従来の「店売屋」、「注文屋」に新たな形態として加わるようになっている。この頃まで、医薬品流通は江戸期からの大手薬種問屋の支配下にある状況が続いたとみられ、その中から輸入商社機能、製造機能が培われていった。


●統制会社による配給の時代が崩壊導く


 簡単に、第2次大戦中の統制経済時代の医薬品流通に触れると、政府による「日本医薬品生産統制会社」の下で、原料の割当、配給という統制が行われるようになり、製品は統制品として配給によって地方問屋へ卸され、小売、医療機関に供給された。一方で、軍や官庁を対象とする製品は「指定品」として、統制会社の販売部門から直接供給され、統制品から外されていた一部の非統制品は当時の統制販売部門の特約店を通じて、医療機関などに卸されていたとされる。


 この戦時の統制経済体制の構築を境にして、江戸期からの薬種問屋を軸とする、いわば「前期医薬品流通体制」は崩壊する。もともと、医薬品は生薬原料を販売する薬種問屋の価格決定力を基盤として流通が成立してきたわけで、それが戦時中の統制経済体制で崩壊し、戦後の新たな流通形態へと転じていく。しかし、戦後も価格決定力を持つ側が流通を形成する力学は変わらなかった。薬種問屋→元卸という体制から、メーカーが流通編成の実権を握るようになったのである。


 ただ、国内メーカーの母体は多くが江戸期の薬種問屋という構図を改めて思い出すと、戦後も問屋とメーカーの位置づけは、少し頭の整理が必要になってくる。終戦直後と医療保険制度下まで、多くの文献が医薬品流通を「混乱」と表現しているが、それは国内メーカーの成立過程とみていく必要もある。(幸)