海外でのフィールドワークを何度も体験し、多様な文化の人たちと一緒に行動することが多くなって、自分の中で大きく変わったなあと感じている感覚がいくつかある。なかでも、待つこと、待ち時間に関する感覚は、過去の自分のそれと最も大きく変わっているものではないかと思う。変わった、のか、変えた、のか、変わらざるを得なかった、のか、そのへんは判然としないのであるが。どう変わったか簡単に言えば、待つことができる時間が長くなった、のである。


 日本では、電車やバス、飛行機だって時刻表通りに運行されていて、電車などは秒単位で停車と発車のタイミングが図られていることも多い。日本に住む者にとっては、今や当たり前の、この公共交通機関の時刻表通りの運行は、世界的には実は「超」珍しいことではないかと思う。移動手段の交通機関が予定された通りに動くので、それを使って移動するヒトの行動も予定がたつ。到着時間が正確に予測できるから、待ち合わせ等も正確に時間を測って向かうことが期待され、遅れることは罪悪感たっぷりの結末を招くことが多いわけである。


2001年のカザフスタンーウズベキスタンの現地調査から。
この調査では、陸路でカザフスタンからウズベキスタンへ国境を越えたのだが、
そのカザフスタン側の順番待ちの車の列の中から。


 他方、日本以外の国、特に筆者が調査で訪れた先進国ではない国々では、公共交通機関が存在していても、その運行時刻表は、だいたいその時間を目安に動かされている、という目安時刻である場合が多かったし、そもそも、正確な時刻を表示している時計を探すのが難しい場合まであった。長距離バスの発着は、1時間以上のずれがあって当然、な感じだった。人々の集合時間や待ち時間に対する感覚も、総じておおらか。例えば、翌朝9時に宿泊所の1階入り口付近に集合、と決めて夕食後に別れ、次の朝、9時にくだんの場所に居るのは日本人だけ、なんてことは当たり前の光景で、10時までに現地研究者が揃って出発できれば、「今日はスムーズだね」という具合である。また、9時集合の約束で、10時前にやってきても、「遅れてごめんなさい」などと言う現地研究者はまずいなかった。


 そういえば、そもそも、相手に対して「謝る」行為は、日本人にとっては珍しくはない行為だと思うが、先進国であれ、発展途上国であれ、日本以外の国で、「ごめんなさい」と素直に謝られた経験は皆無に近い。こちらが明らかに正しくて、相手が不正であったと双方が認めても、それに対して謝罪する、行為はほとんどないように思う。幼少の頃から「あやまりなさい!」と躾けられて育った人間としては、自分の過誤を認めない態度に直面すると、文化が違うことを痛感する。周りを海に囲まれた島国の日本と違い、大陸では常に敵と隣り合わせで、「お前が悪い」と言われても、「“悪い”のではなく、“悪く見える”だけだ」とか、「それは過去の話だ」などと主張して、その理由を最大限述べて防御する、ことが優秀な生き残りの手段であるらしい。でも、正直なところ、この日本人ではない人たちの態度と、最近の10代、20代の日本人の態度はかなりダブって見えるようになってきた。これは、社会のボーダーレス化が進んで、日本もようやく国際社会で通用する態度を身につけるようになってきたということなのか、それとも、古来の日本文化が薄まってきている一端と捉えるべきなのか、どちらにも一理ありそうである。


 さて、話が少々ずれたが、待つ、ことに話を戻す。


 これまで筆者が海外で行ってきた現地調査は、時間と予算が限られた条件下で行うものがほとんどだったので、限られた時間の中で最大限の収穫を得ようとすると、決めた時間に面子が揃わないので待つ、という行為は、使えるはずの時間を削られるという非常に辛いことで、その待ち時間はおそろしく無駄な時間にしか思えなかった。慣れない間は、待ち時間が発生するたびにイライラしていたが、待っていた人間がようやく現れても、次の瞬間から山のような言い訳が始まり、それを聞かされて余計にイライラが募ることもしばしばだった。しかし、これが毎回となると、だんだんイライラに注ぐエネルギーが枯渇してきたのか、諦めの境地に達するようになった。そのうちに、集合時に待つことは織り込み済みで集合時刻を考えるようになり、それも通用しないと、事前にたてる行動計画を、最大限フレキシビリティーのあるものにする、ようになった。ここまで文章としては数行で書いてしまったが、実際に待つことに慣れてしまうまでには、10年以上かかったように思う。


2001年のカザフスタンーウズベキスタンの現地調査で、カザフスタンで使用した旧ソ連製のジープ。
山道の非舗装路や砂漠の中の道路など悪路に強いからとレンタルしたものの、砂漠を長時間走行した後、草原の道を走っている間にオーバーヒートしてストップ。
冷えて動き出すまで数時間待った。ボンネット内を見つめる男性は、カザフスタン人の共同研究者。



 不思議なもので、待ち時間が発生してイライラしまくるほど綿密に事前に計画をたてて行動したフィールドワークと、綿密とはほど遠いような緩やかな行動計画で動いたフィールドワークとを比べても、単純比較はできないながら、得られた収穫ブツに大差はないように思うのである。むろん、後者は筆者がフィールドワークにかなり経験値を得てからのものである、という差があるが、郷にいれば郷に従え、ということなのだろうか。


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伊藤美千穂(いとうみちほ) 1969年大阪生まれ。京都大学大学院薬学研究科准教授。専門は生薬学・薬用植物学。18歳で京都大学に入学して以来、1年弱の米国留学期間を除けばずっと京都大学にいるが、研究手法のひとつにフィールドワークをとりいれており、途上国から先進国まで海外経験は豊富。大学での教育・研究の傍ら厚生労働省、内閣府やPMDAの各種委員、日本学術会議連携会員としての活動、WHOやISOの国際会議出席なども多い。