●治らない病気の治療薬をどう表現するか


 医薬品企業の社会的責任はこれまでのように、安全で効果のあるより有益な市民の健康医療に貢献する製品を供給することだったが、それすらも完全に全うされた時代があったわけではない。このシリーズでもみてきたように、薬害の連綿と続く実態は、医学の進歩が医療の新たなステージに奔流のように向かう状況下ではそのリスクが減ったとはとてもいえない。


 新型コロナウイルス感染が示すように、突如として人類を震え上がらせる感染症が拡大する現実を我々はみている最中であり、一方で、慢性疾患治療薬に関しては、企業のコンプライアンス軽視が目立ち始め、後発医薬品の供給不足という事態も経験している最中である。数年前には想像さえされなかった現実が目の前にある。


 医薬品からその現実をみれば、新型コロナウイルスに関してはメッセンジャー型RNAワクチンがかなりの速度で開発され、高齢者を除けば死亡要因としての脅威は遠ざかった印象があるが、それでもワクチン2回接種後のブレークスルー感染はすでに多くの国で現実化しており、国内でも3回目の接種は避けようがない。新たな治療薬の開発も進んでいるとはいえ、多くが治験途上であり、その社会的効果に関する結果が出ているわけでもない。


 後発医薬品の供給不安は拡大する一方で、すでに生産体制を見直している先発品へのしわ寄せも懸念が続く。特にこの問題は、医薬品企業の社会的責任という側面からみれば、もっともダイレクトで最も想定しがたい、最も責任から逃げ出しようのない問題だ。


 副作用被害と薬剤費の高額化に焦点が絞られていたような印象が時代とともに大きくなっていたが、感染症とコンプライアンスに起因する医薬品不足は、医薬品企業にとってその責務が実は多岐にわたり、複雑であることを改めてつきつけている。


●アデュカヌマブの承認問題が突き付ける課題


 このシリーズでは薬害を中心に見てきたが、前回のベンゾジアゼピンの乱用問題に対するテーマから気が付くように、医薬品企業が積極的に果たすべき最も大きな役割に、安全な医薬品を供給すると同時に適正使用への正確な情報提供と不適正使用に関する監視的な役割があることに言及した。今回は、認知症の医薬品問題からこうしたテーマを掘り下げてみよう。


 6月7日付で米FDAが、バイオジェン/エーザイの抗アミロイドベータ抗体(Aβ)「アデュヘルム」(一般名=アデュカヌマブ)を迅速承認した。この新薬の開発と承認をめぐっては、FDAの中でも異論が複数みられたことは周知の事実だし、専門家の間では異論も少なくない。


 承認のニュースは、「期待の新薬」、「根本治療への一歩」などといったインパクトの強いポジティブな見出しやヘッドラインも踊ったが、支持できないとの声もかなりのボリュームで報道されたことは、新薬の一般的なニュースとしては異例だった。メディアにすら慎重姿勢というより、半信半疑の雰囲気が漂っている印象が伝わる。


 この動向は米国民間医療技術評価機関「ICER」が承認に否定的な声明文を出したことが影響している。月1回点滴投与で年間600万円ともされる高額薬価の妥当性がICERの指摘だが、「認知症を完全に止める架空の薬物だけがこの価格のレベルに値する」とのステートメントは、皮肉以上のリアリティを感じさせたのである。それは医学的専門家の間では、認知症は不可逆的な疾病であり、「治らない」ものであることへのパフォーマンスとして正当な評価なのかという疑問を突き付けているものだ。治療できないものの治療薬は架空でしかないのである。


●本質を市民に伝える必然


 アデュカヌマブは、アルツハイマー型認知症(AD)患者の脳内に蓄積するAβタンパク質を除去する働きを持つとされ、それ自体の機序は画期的かもしれない。しかし、筆者が10年以上前までこの種の取材をしてきた記憶では、臨床や治療薬開発に携わる医師には、ADの原因がAβタンパク質だと決めつけることさえ消極的な人が多かった印象がある。


 関西エリアで取材してきたが、ADへの関心は病院や診療所に「もの忘れ外来」が雨後の筍のように標榜され始めた頃から、臨床現場の医師にようやく関心の程度が平準化されたような印象がある。彼らに共通していた臨床観は、老化のひとつの疾患態様であり、不可逆的なもので、治療はいかに患者・家族に寄り添うかが主柱だ。胃ろうの是非などを除けば、この20年間、診療の形は大きく変化はしていない。


 その頃、開発と医療適用が進み始めたのがPET。がんの診断装置として脚光を浴びたが、一部の神経科専門医や脳外科医にはAβを測定する、あるいはスクリーニングする技術への期待が強く持たれていた。しかし、それもAβが要因だと決めつけられない以上、そのパフォーマンスに価値がるのかどうかさえわからない。


 7月に『認知症そのままでいい』を上梓した専門医の上田諭氏も、このアデュカヌマブ承認のニュースに同書で懐疑的な見解を示している。少し長いが引用する。


 認知症はアミロイドに関する限り発症する30年前くらいからたまりだす。発症してからでは改善させられないのだから、発症前の人も含む特殊な「薬」になる。


 薬がもし承認されたとしても、発売には課題が多い。アミロイドがたまっている人をどうやって確実に見つけるのか。アミロイドPET装置は国内にはまだ少なく、血液検査でみつける方法が検討されているが、いまだ見通しは立っていない。また、生活や仕事に支障がなくて、ごく軽度に認知症障害がある人をどう見極めるのか。逆に「認知症発症を食い止められる」という楽観的な効果予想だけがやみくもに伝わると、薬の希望者が急増して医療費がまかなえない。さらには、「認知症を発症する時期が遅くなった」「認知症が軽くすんだ」という期待される効果の判定も難しい。


(中略)6月に、この新薬(アデュカヌマブ)が米国で承認された。これで日本でも年内承認の可能性が出てきた。費用の問題など実際に用いるには壁がいくつもある。


 この新薬に注目はしても、過剰な期待はできない。認知症が治らない病気であることに変わりはない。だからこそ、治さなくてよい、いまのあなたでいい、と受け入れたい。


 専門医も「過剰な期待」はしないと明確に語っている。認知症は治らないと言い切って、高額な薬剤費用をかける必然に疑問を投げかけており、この論旨にまともに反駁できるエビデンスがあるとは、素人的には思えないのである。この問題はベンゾジアゼピンと違って適正使用の問題ではない。だが、治らない、とされる病気に治る期待を、あるいは進行をとめる期待を抱かせるインフォメーションのあり方はどうなんだろうという疑問は大きく残る。


 医薬品企業はこうした治療効果への期待値をどう表現して、市民や患者に伝えていくかの哲学的なアプローチに関する研究も必要なのだと考えるし、そのことがほとんど顧みられることなく、医師や患者に放り投げられたままでいいのだろうか。


 認知症治療薬にはすでに4種類の薬がある。しかし、どれも専門家には大きな期待をもって処方されているわけではない現実がある。それなのに、治療の現場、介護の現場では「早期発見・早期介入」の掛け声とともに、薬に頼る現実も存在する。ことに早期介入は、早めに軽度認知障害を診断して、既存の医薬品投与を開始するという文脈で扱われている状況は少なくないという。


 次号では、これらの状況をもう少し具体的に活字を追ってみることにし、新薬開発と医薬品企業の社会的責任についても考えてみたい。(幸)