現代の医者が幕末の江戸にタイムスリップして、多くの患者を感染症やがん治療から救うというテレビドラマがつい最近、大ヒットしたことを記憶している人は多いはずだ。このドラマは、現代の医学を幕末期に適用することで、時代の改革に手を貸したという下敷きも目論んでいたが、治療の切り札としてペニシリンの製造開発に、世界に先駆けて成功するエピソードが挿入されていた。もちろんフィクションだが、ひとつの「医薬品」が世界を変えるという規模でいえば、これまでにはない珍しいストーリーだった。むろん、タイムスリップした人物の記憶に基づいて、「科学的知見」のもとにペニシリンはつくられるが、医師グループが医薬品を製造し続ける状況設定はフィクション的ではなく、時代考証的にはリアリティを重視している側面があったことも面白かった。
調剤=製剤製造という観点に立てば、江戸時代から薬は医師が「製造」していた。医師は薬問屋から原薬たる生薬を購入し、当時の知見やそれぞれの経験・論理・研究に基づいて医薬品がつくられ(調剤)ていた。問屋はあったが、医薬品製造業はなかった。国内に本格的に医薬品製造企業が登場したとみられるのは大正時代以降だが、その後、医師は薬をつくらなくなったものの、患者に渡すのは医師という時代は20世紀末まで続いた。患者からみれば200年以上も前から、日本では薬は医師から入手するのが常識だったのだ。その点でいえば、少なくとも17世紀前期から19世紀前期まで、日本の医薬品業界は、つまりは医薬品流通業界のことだった。
●品質確保、価格・供給安定の機能を担った道修町
毎年、11月22〜23日の2日間、大阪・道修町では日本の薬の神様「少彦名命」を祀る少彦名神社の例大祭「神農祭」が行われる。「神農」は中国の薬の神様で、「唐薬」(中国からの輸入薬)を扱っていた道修町の薬種屋は、当初、「神農さん」を祀っていたが、国内生産生薬も扱うようになって、京都の五條神社から少彦名神社を分霊、建立したという経緯が伝えられている。つまり、和漢薬の時代のスタートとともに、日本と中国の薬の神様を合祀したことから、神社主催だが祭礼名称は中国の神様ということになったことになる。
この神農祭は、大阪の年間主要祭礼の締め括りとして大阪人に認識されていること、23日が祝日ということもあって例年、多くの参拝者で賑わう。このとき配られるのが「神虎」。笹の枝に張子の虎をデコレートしたもので、1800年初頭のコレラの流行時から、魔除けとして信じられている虎を配したのが最初とされる。また、当時、道修町の薬種問屋が虎の骨を入れた丸薬をつくって、「魔除け」として売ったという話も残されている。阪神タイガースとは何のつながりも浮かばないが、大阪で虎の模様が大事にされるのは、こうしたいくつかの伝説も相乗している。
●流通センター「船場」の医薬部門
道修町が薬種屋の町としてスタートしたきっかけや、そもそも道修町という地名の由来についても実はわかっていない。周辺に緒方洪庵の適塾が開かれたことなどから「道を修める」は何やらいわくがありそうに錯覚しそうだが、豊臣秀吉が大阪の街をつくったときにはすでに町名としてあったらしい。
少彦名神社に隣接している「くすりのまち資料館」が97年につくった資料集をみると、1588年には道修町に関する記録が残されていることから、秀吉の時代にはすでに道修町は存在していたことは明らか。これがどうして「薬種問屋」街に形成されてきたかは諸説あるが、いろんな説を総合すると、元々は豊臣時代から大阪・船場が国内の流通センターとして機能してきたことが発端となったようだ。そこに集まったのは、当時の長崎を経由して流入してくる輸入物を流通させる「輸入商社」の集まりだ。
中国からの輸入薬を扱う薬種問屋は当初、東横堀にかかる平野橋あたりに集まっていたと考えられている。同資料館資料によると、1624〜1644年の寛永年間に、堺の小西吉右衛門が道修町1丁目に薬種屋を開いたのが、平野橋から道修町に移り始めた契機だと推定されている。しかし、道修町は薬種問屋が集合しただけの町ではなく、実は品質保証を看板にした医薬品流通のコンプライアンスの発信地として発展したことが、その後の国内医薬品産業の集積地として機能し、ブランド化を促進した背景となっている。
ちなみに、道修町に誕生した主な薬種屋には、「田辺屋」、「伏見屋」、「近江屋」などがあり、現在の田辺三菱製薬、小野薬品、武田薬品などの祖となった。その後にも多くの大手製薬企業の本社、あるいは支店の集積地になっていくが、道修町へ移る前の薬種屋の町だった平野町が、東京の神田と並んで「現金問屋」の集積地として代名詞化したのは、大阪の町が、業種別を表したり、その階層化を表したりするビジネスの区分機能を持っていたことをも教えてくれるのである。実際、現在の企業規模では大きく差をつけられていても、道修町に立地するか否かで、「看板の格が違う」といって憚らない経営者もいる。
●似せ薬の取り締まり
道修町に薬種屋が集まったのは、品質規制に関する情報収集が得やすく、またそこに立地することで、暗黙の販売承認を得られたという当時の「通念」が背景にある。道修町資料によると、「道修町に残る一番古い、明暦4年(1658年)の似せ薬(ママ)取締りについての文書には、33軒の薬種屋の署名捺印があり、8年後の寛文6年(1666年)の文書には108軒の薬種屋が2丁目を中心に1丁目、3丁目に存在していた記録もある」(要約)とされている。わずか8年間のうちに3倍以上に薬種屋の集積が行われたことがわかる。戦国時代を終えて、天下は平和を取り戻し、経済的にも安定期を迎えて、人々の健康への関心も増え、医薬に対する関心も高まったのだろう。
こうして市場が拡大するのに対応しながら、「道修町に残る一番古い文書が似せ薬の取り締まり」というのが、この町が果たしていく役割の萌芽を見せつける。
品質確保や適正販売を目的とした同業者の寄り合いが、道修町に集合して、やがて組織化される。1722年(享保7年)に8代将軍徳川吉宗は道修町の薬種屋124軒を株仲間として公認する。いわゆる「薬種商」の協業組織が誕生し、「諸薬種を吟味(検査)のうえ、適正価格をつけて独占的に全国に供給するようになった」(道修町資料)。つまり、協業組織に独占的な流通支配を認めたうえで、品質確保と価格安定、安定供給の機能を付与したわけだ。また、当時の徳川幕府は、輸入に頼っていた生薬について、和薬(国産生薬)の生産奨励と、流通開発にも株仲間への期待を示していた。当時から入超に対する厳しい評価があり、国産品開発と消費の推進が課題となっていたことが窺われるのである。その後、道修町薬種商は共同で薬品試験所の設置や、製薬事業にも共同でチャレンジしたことも記録として残っている。
こうした医薬品輸入商社が、薬種商として医薬品流通の担い手となり、産業基盤を形成したところで、明治に入り、西洋薬の輸入商社として機能し始める。同時に、薬種商仲間が共同して製薬事業を開始することも始まり、道修町発の大手製薬会社の基盤づくりも本格化する。実際に製薬企業としての本格化は、1914年に始まった第1次大戦による国際的な医薬品市場の供給不安からだ。流通の担い手が徐々に製造にシフトするなかで、それでも流通機能の主人公は、2つの大戦を越えても道修町薬種商の歴史を受け継ぐグループであったことは間違いなかったのである。(幸)