霊視だとか占いだとか、いわゆるスピリチュアル系の物言いはまったく信じない。百歩譲って占星術等々の古くからの伝承を「昔の人はこういうことを信じていたんです」と紹介するまでが、ギリギリ許容できる限界だ。目の前にいる人の運命や前世がわかると公言し、相談料を得る人々には、いかがわしさしか感じない。昭和期には、この手の物言いで高価な壺などを売る「霊感商法」が批判を集めたが、私の感覚ではスピリチュアル系のビジネス全体が、似たような存在に映る。


 そんなわけで、占い師の細木数子氏と作家の瀬戸内寂聴氏の訃報が先週、相次いで流れ、一部のテレビ番組が2人を「ご意見番」という同一カテゴリーで追悼したことには、違和感を禁じ得なかった。雑誌媒体でも、たとえば女性セブンは『昭和の女傑が逝去 ありがとう瀬戸内寂聴さん・細木数子さん』というグラビア記事を載せ、週刊女性も巻頭で『2大“女傑”逝く』と報じたあと、本文で『細木数子さんの慈愛の「ことば」と遺した“予言”』『瀬戸内寂聴さんが愛したモノ』というそれぞれへの追悼を「抱き合わせ」にした。


 私自身、瀬戸内氏の小説は、戦前のアナキスト・大杉栄への興味から大杉とその妻・伊藤野枝を描いた『美は乱調にあり』1作を読んだだけであり、さまざまな対談やインタビュー記事を目にしても、その言葉にさほど深い感銘を受けた記憶はない。つまり、瀬戸内氏の「偉大さ」を取り立てて強調する気持ちもないのだが、それにしても細木氏とセットで人生をくくられてしまうのは、気の毒に思えるのだ。


 文春や新潮は、さすがにそれぞれの死を切り離して報じている。細木氏を取り上げた新潮記事のタイトルは『『細木数子』テレビが報じない“魔女”の「裏街道」』。ここには、クラブのママやヤクザの愛人として「『裏』の住人だった細木」が、「表」に出たきっかけが1982年に刊行した『六星占術による運命の読み方』が大ベストセラーになったことだったと書かれている。


 記事によれば、細木氏が占いの本を書けたのは、「真理占星学会会長」という肩書の人物の知己を得たためで、この会長の証言では「自叙伝を書きたいから占術の本を貸してほしい」と細木氏に頼まれて資料一式を手渡すと、彼女はその内容を無断転用してベストセラーにしてしまったという。文春の記事『細木数子がズバリ溺れた「男とカネ」 年収24億も寂しき晩年』にも、彼女のハングリーな人生が描かれている。


 瀬戸内氏のほうの訃報は別の意味で興味深かった。夫や子供を捨て不倫相手のもとに走り、奔放な半生を送ったあと出家した瀬戸内氏に関しては、テレビの追悼報道でも、晩年まで有名無名のさまざまな人々がその助言を求めて彼女のもとに集ったことが紹介されているが、週刊誌報道ではちょっと違ったニュアンスの「人臭さ」描かれている。


 たとえば週刊朝日には、作家の佐藤愛子氏が追悼文を寄せていて、押し出しの強い瀬戸内氏に佐藤氏はむしろ引き気味だったといい、瀬戸内氏の話術には「話を盛る」傾向があったと明かしている。このため、瀬戸内氏の親友だった歌人の河野多恵子氏は、彼女より半日でも長く生きたい、先に死んだらいったいどんな「懐旧談」をされてしまうか、と心配していたという。


 また、文春に載った作家・林真理子氏の寄稿によれば、瀬戸内氏はその晩年、自身の評伝を林氏に書いてほしいと口にしていたのだが、一方で別の場では「あの人(林氏)、私のこと好きだとか、尊敬してるって言うんだけど、本当かしらね」と取材に答えたりもしていたという。つまり、尼僧の身になってもそれほど思慮深い言動をしていたわけではなく、むしろ無神経な物言いや人の悪口も時に漏らす天真爛漫な人柄で、その「人臭い部分」があればこそ、愛された人だったらしい。


………………………………………………………………

三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。