(1)武内宿祢の子


 葛城氏は奈良盆地南西部を本拠地とする古代豪族である。古代史を把握する手っ取り早い方法は、王朝交代説である。まず、①神武、②欠史8代、③崇神王朝、④応神王朝、⑤継体王朝(これが現代まで継続)を意識する。


 葛城氏の始祖が葛城襲津彦(そつひこ)である。葛城襲津彦は、武内宿祢の大勢の子の1人である。


 そこで、まず武内宿祢に関して。『日本書紀』では、孝元天皇(第8代天皇)の曾孫、『古事記』では孫とされている。孝元天皇は、欠史8代の1人である。欠史8代とは、第2代から第9代までの天皇を言う。この8代は、『古事記』『日本書紀』に、系譜のみが書かれているだけで、物語・歌などの記述がないため、後世(7世紀末頃)に天皇の起源を非常に古いものに脚色して権威を高めるために追加されたものと考えられている。ただし、100%フィクションではなく、若干の事実はあるかも、という見解もある。あくまでも若干の事実である。まぁせいぜい、「昔々の大昔、〇〇という名の先祖がいました」程度のことではなかろうか。


 誰の家系であろうと、先祖を探し求めれば、数十億年前のアフリカでの人類誕生に行き着くから、ぼんやりした記憶さえあれば、欠史8代どころか、何十代、何百代でも可能で、そのなかの若干の記憶が欠史8代ではなかろうか。


 武内宿祢の話に戻るが、孝元天皇の存在が疑問符であり、武内宿祢もまた疑問符の存在である。武内宿祢の血筋から、波多氏、巨勢(こせ)氏、蘇我氏、平群(へぐり)氏、紀氏、葛城氏など古代豪族27氏を輩出している。武内宿祢は、景行(第12代)・成務(第13代)・仲哀(第14代)・神功皇后(仲哀の皇后で、仲哀死後、摂政として実権)・応神(第15代)・仁徳(第16代)の5代の天皇と神功皇后に仕えた忠臣である。単純計算すると、300歳前後生きたことになる。


 だから、武内宿祢に関していえば、複数の伝説を1人にまとめあげて、「武内宿祢なるヒーロー」を創り上げたのであろうと想像される。若干の事実は含まれているだろうが、総じて言えば、「伝説の人物」「フィクションの人物」である。ついでに言えば、仁徳以外の、景行・成務・仲哀・神功・応神の存在も、疑問符の存在である。


 武内宿祢の存在はフィクションである。『日本書紀』では、武内宿祢は7男2女の子がいて、第8子が葛城襲津彦(そつひこ)とされているが、その存在は、どうであろうか。現在の研究によると葛城襲津彦の実在性は確実とされている。生没年は不詳であるが、4世紀末から5世紀前半の人物と推定されている。とは言っても、「葛城氏って、な~に?」「葛城襲津彦って、だ~れ?」。


 まず、葛城氏に関して。応神王朝(15代応神~25代武烈)の前半期は、天皇家(大王家)と並ぶ大豪族であった。歴代天皇の后は、ほとんどが葛城氏の娘であり、その結果、歴代天皇の母も大半が葛城氏の娘であった。しかし、雄略天皇(21代)によって葛城氏は滅亡した。とにもかくにも、当時の葛城氏は、最大の豪族と言ってよい。


 なお、応神王朝の前半期とは、「倭の五王」の時代であり、頻繁に中国南朝の宋へ献上物を持って参上し宋の官位を求めていた。413年から502年の約100年間に13回を数える。


(2)神功皇后


 次に、葛城氏の祖である「葛城襲津彦って、だ~れ?」に話をすすめる。


 前提知識として、神功(じんぐう)皇后について若干説明。


 仲哀天皇(14代)2年に、神功は皇后となる。仲哀は日本武尊の子である。同年、仲哀は熊襲征伐を開始。仲哀8年、神功は穴門(山口県)で仲哀と落ち合う。筑紫へ移動した2人は神託を受ける。内容は、「熊襲攻めは益がない。新羅を攻めよ」であった。仲哀は、その神託を信ぜず、熊襲を攻めたが、敗走し、仲哀9年に筑紫で急死。


 神功は、仲哀の意思を継いで熊襲を制覇した。


 仲哀9年、神功は男装して新羅遠征を宣言した。そして、妊娠(のちの応神天皇)したまま朝鮮半島へ出兵して新羅を攻めた。新羅王は、戦わずして降伏した。そして、新羅王・波沙寝錦(はさむきん)は、王族の微叱許智(みしこち)を人質に差し出した。


 それを見た、高句麗・百済も朝貢を約束した。戦前は、これを「神功皇后の三韓征伐」として教え込まされた。


 同年の暮、神功は帰国して出産した。後の応神天皇である。


 翌年(神功皇后摂政元年)、神功は大和へ帰ろうとした。しかし、大和には、仲哀の前妃の子、つまり仲哀の長男・次男がいた。長男・次男は、神功が生んだ赤子を次期天皇に押し出してくると察知し、神功の大和入り阻止のため兵を集めた。長男は合戦前に死去したが、次男軍と神功軍は大合戦となった。結果は、いわば「騙し討ち」で神功軍が勝ち、次男は入水自殺した。神功は皇太后となり、摂政となった。


 神功は摂政として70年間、実権を握った。そして、神功摂政69年、100歳のときに崩御した。

 

 神功皇后をめぐっては、実在・非実在があり、実在説にしても『日本書紀』とかけ離れた人物像になる。例えば、神功の妊娠・出産の月数が合わないので、赤子(応神)は仲哀の子種ではないのではないか……。神功は仲哀の筑紫における「現地妻」ではないのか……。仲哀の次期天皇は、当然、長男・次男が継ぐものとされていて、神功は筑紫の兵でもってクーデターを起こしたのではないか……。


 そうしたことも気になるが、それよりも重要なことは、4世紀後半から5世紀初頭の倭と朝鮮半島の関係である。広開土王碑には、「高句麗と百済・倭同盟の戦争」(391~407)が記録されている。朝鮮半島の古代歴史書である『三国史記』及び『百済三書』にも、当時の朝鮮半島と倭との交流・戦争が記されており、かなり深い交流であったことが推測される。そして、交流の中心人物が、葛城襲津彦であった。


 なお、『三国史記』は全50巻で、「新羅本紀、高句麗本紀、百済本紀、年表、雑志、列伝」となっている。日本語訳があります。


『百済三書』は、『百済記』『百済新撰』『百済本記』の総称であるが、現在は残存していない。しかし、『日本書紀』に『百済三書』の一部が引用されている。明示して引用されている数は、26ヵ所である。


(3)『日本書紀』


『日本書紀』のなかから、葛城襲津彦が登場する部分を要約してみる。


神功皇后5年

 新羅王の人質である微叱許智(みしこち)が一時帰国することになった。付き添いに葛城襲津彦が任じられた。途中の対馬で、新羅王の使者に騙され、微叱許智に逃げられてしまう。葛城襲津彦は怒って使者3人を焼き殺し、新羅の草羅城(現在、梁山市)を陥れて帰国した。このとき、捕虜を連れてきて、桑原・佐糜(さび)・高宮・忍野の4村の漢人の始祖となった。

 

神功皇后62年

 新羅が朝貢しなかったので、葛城襲津彦を派遣して攻撃させた。


『百済記』では次のように書いてある。

 新羅が倭に朝貢しないので、倭は沙至比跪(さちひこ)を派遣して討伐させた(注:「沙至比跪」=「襲津彦」)。新羅は着飾った2人の美女を、沙至比跪に差し出して、大変に歓ばせた。そのため、沙至比跪は新羅の味方になってしまい、加羅国(高霊)を攻撃した(倭と加羅と百済は友好関係にあり、新羅と対立していた)。加羅国の王や子は、人民を引き連れて百済へ逃げた。加羅国王の妹が倭へ出向いて、沙至比跪の行為を報告した。天皇(神功皇后)は沙至比跪の行動を知って、大いに怒った。そして、加羅国へ木羅斤資(もくらきんし)と兵衆を派遣して加羅国を回復させた、という(木羅斤資は百済の将軍)。


別の伝によると、

 沙至比跪は天皇の怒りを知り、密かに倭へ帰国したが、隠れていた。沙至比跪の妹は皇宮へ出入りしていたので、天皇の怒りが解けたか、問い合せた。天皇は酷く怒っていた。沙至比跪は罪を免れないと知って、石穴(いわつぼ)に入って死んだ、という。


応神天皇14年

 百済から弓月君(ゆづきのきみ)がきた。そして天皇に奏上した。「私(弓月君)の国の120県の民を倭へ連れて行きたいけれど、新羅が邪魔して、加羅国に留まっています」(弓月君の民の子孫は「秦」(はた)と命名された。養蚕・絹織の技術を有していた)。天皇は弓月君の民を迎えに行くため、加羅国へ葛城襲津彦を派遣した。ところが、葛城襲津彦は3年経っても帰って来なかった。


応神天皇16年

 天皇は、葛城襲津彦が帰ってこないのは、新羅が妨害しているためと判断し、2人の隊長と精兵を加羅国へ派遣した。精兵が新羅の境界に到着すると、新羅王は罪を認めた。新羅王は、葛城襲津彦と弓月君の民を率いて、倭へ来た。


仁徳天皇41年

 天皇は百済へ紀角宿祢(きのつの・すくね)を派遣した(紀角宿祢は、武内宿祢の子、7男2女の第5子)。その際、百済王の同族である酒君が無礼をはたらいたので紀角宿祢が叱責した。百済王は謝り、酒君を鉄鎖で縛り、葛城襲津彦に従わせて倭に送った。酒君は倭で生き延び、最後には天皇は罪を許した。


 以上が、『日本書紀』に登場する葛城襲津彦である。すべて、朝鮮半島諸国の関係である。そこから想像できることは、朝鮮半島との外交専門官であり、かなりの月日、朝鮮に滞在していた、ということである。


(4)葛城氏の力の源泉


『日本書紀』に記されている年に関しては、無理な数字であるが、『三国史記』・『百済三書』及び他の資料から葛城襲津彦の実在は間違いない。そして、葛城氏の力の源泉は、朝鮮半島との交流であった。


 神功皇后5年に葛城襲津彦は、新羅の捕虜を連れてきて、その捕虜は、桑原・佐糜(さび)・高宮・忍野の4村の漢人の始祖となった。これらは、すべて葛城氏の本拠地である奈良盆地南西部に居住した。必然的に朝鮮半島の先進技術が、その地に植え付けられた。


 応神天皇14年と16年の記述にある弓月君の民(後の秦氏)も最初は、葛城氏の本拠地に移り住んだ。やはり、先進技術が葛城の地にもたらされ、葛城氏なる豪族の力量を増したと考えられる。


 仁徳天皇41年の酒君の話は、百済王と葛城襲津彦は親しい関係にあったと推理される。


 奈良盆地から朝鮮半島へのルートに焦点を当てれば、葛城氏と要所地域の豪族の関係は、先進技術の移転、あるいは婚姻によって親密性を深めていた。また、水上交通の利用の意義も、他の豪族よりも深く認識していたようだ。こうしたことは、少しだけ想像力を働かせれば理解できる。


 案外、無視されるのは、「女性」の観点である。葛城氏は大王家(天皇家)へ、ドンドン女性を送り込んだ。王の妻の実家は権力増大、これは世界共通であるが、葛城襲津彦は、「女性」に、それ以上の力を察知していたに違いない。


 葛城襲津彦は、『日本書紀』で新羅の美女2人に心を奪われた「美女に弱いダメ男」として描かれているが、果たして、そんな単純なものだろうか。そもそも、新羅をめぐる外交方針では、天皇と葛城襲津彦の間に相違があったのではなかろうか。天皇の対新羅策は強行一辺倒、これに比して、葛城襲津彦は強硬策もあり得るが基本は友好親善策ということではなかろうか。


 そう考えれば、「美女に弱いダメ男」ではなく、「美女を介して新羅王へ真意を伝達しようとする男」となる。つまり、葛城襲津彦は、情報伝達能力として女性活用を熟知していたのではなかろうか。


 現代では、情報伝達といえばSNSの活用ばかりであるが、かつては「女性の情報伝達能力」が大いに関心を集めたものだが……。


 なお、『万葉集』の第11巻2639番の歌に、葛城襲津彦の名が登場している。作者不詳で女性の歌である。


 葛城の 襲津彦真弓 新木(あらき)にも 頼めや君が 我が名告(の)りけむ


 当時は正式な婚姻が成立するまではお互いの名を口外しない慣習であった。葛城襲津彦は強弓の勇者であった、と伝わっていた。それを前提にすると、次の意味になる。


 葛城襲津彦が使う新木の強弓のように、あなたは私を新妻になさるおつもりなのでしょう。それで、私の名を口外なさったのね。


 女性が勇者のような男を獲得して嬉しさいっぱいの歌である。


 葛城襲津彦に焦点をあてれば、単に、強弓を使う勇者ではなく、葛城襲津彦は、女心を知り尽くしているイイ男なのだ。詠み手の女性は、私が獲得した男は、強弓のような勇者で、しかも女心をくすぶることに長けているとってもイイ男なのよ、ウッフフフ……。


 葛城襲津彦は「美女に弱いダメ男」ではないのである。

 

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太田哲二(おおたてつじ

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。