私が「大学探検部の人々」と実際に接した唯一の体験は、20年余り前、奥アマゾンの密林を縫う「マドレ・デ・ディオス川」(聖母川)流域の旅行中だった。20世紀初頭、ペルーにいた日本人移民の一部、総勢2000人ほどが三々五々アンデス山脈を越え、空前の天然ゴムブームを迎えていた密林の労働力として隣国ボリビアの秘境に分け入った。そんな移民史探索の目的で、私はペルーからボリビアに国境越えをして、聖母川の下流・リベラルタという町にいた。


 日本の某大学探検部の一行が、いにしえの移民と同じルートでやってくる――。町に暮らすゴム移民の子孫たちは、鳴り物入りで現れた若者の集団を、小旗を振り歓迎した。しかしその少し前、流域住民の小舟をヒッチハイクで乗り継いで、ひとり旅で現地に到達した私は、大仰にもボリビア海軍(海なし国のボリビアにも湖や川を管轄する“海軍”がある)の艦艇に護衛され、軍に食事のサポートまで受けながら、カヌー隊でやってきた学生らに正直興ざめした。


 安全確保のため、万全の事前準備をすることは大切なことだろう。だが、私はスポンサー付きの「至れり尽くせりの探検」に違和感を覚えただけでなく、学生たちの関心が日本人移民史よりアウトドア・レジャーの満喫にあるように感じられ、密林で半ば自給自足する日系人と交わろうとしないその姿勢に不満を感じたのだった。彼らは現地到着後、枕投げではしゃぐ修学旅行生のように内輪だけで祝杯を挙げ、盛り上がっていた。


 この落胆を裏返せば、私は青年期から活字の世界で読み知った「探検部の人々」に、過大な憧れを抱いていたのである。西木正明氏や船戸与一氏、本多勝一氏、関野吉晴氏等々、その昔、大学探検部出身の物書きは冒険小説の作家からジャーナリストまでさまざまな分野で活躍し、私は彼らが共通して醸し出す冒険家精神に強く惹かれたものだった。


 そんな時代も今は昔……とすでに思い込んでいた約10年前、30代にして彗星のごとく現れた「探検作家」がいた。チベットに残る人類未踏の地に挑んだ『空白の五マイル』で颯爽とデビューした角幡唯介氏だ。今週の週刊文春『阿川佐和子のこの人に会いたい』はゲストにこの角幡氏を迎え、グーグルアースが世界を網羅する21世紀に、それでもワクワクする冒険譚を生み出せる彼の世界観、仕事観について話を聞いている。


 実はこの角幡氏に関しては、その名前がまだほとんど知られないうちに噂を聞いていた。長く世話になってきた編集者が法政大探検部のOBで、早大出身の角幡氏とは出身校は違うものの「探検部つながり」のネットワークがあり彼の原稿に目を通していたらしい。「すごい書き手がいるよ」と私にも伝えてくれていた。実際、『空白の五マイル』を読むと、著者は文字通り「死の瀬戸際」まで追い込まれるのだが、それでも目的地を一歩ずつ目指してゆくすさまじい執念に読者はぐいぐいと引き込まれる。


 以来、氏はいくつかの探検ノンフィクション作品で大宅賞をはじめ、講談社や新潮社、本屋大賞、開高健賞などのノンフィクション賞を総なめにした。今は亡き立花隆氏はその傑出した文才を生かし「探検モノ」以外にもチャレンジしてほしい、と彼に求めたが、当人はあくまで探検にこだわる姿勢を崩そうとはしなかった。


 阿川氏との対談で印象的なのは、半ば謙遜の意味も含め、自身への高評価を「ただ競争相手がいないだけでは?」と分析した言葉だ。「探検家を名乗っている人ってどれだけいるのかな? 三人? 四人?」と、自分はあくまでもマイナージャンルの書き手だと強調した。阿川氏の対談後記によれば、「最後はクマに食われて死にたい」とも漏らしていたという。たとえその才能に憧れても、凡人が容易にマネできる書き手ではなさそうだ。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。