たしか戦後50年企画『映像の世紀』にあった1本のように思うが、NHKの現代史シリーズで印象的なシーンを見た記憶がある。第1次世界大戦の勃発時、ヨーロッパの国々では愛国心に駆られた若者が大挙して志願兵に殺到した(流された映像はフランスでの兵士募集風景だったように思う)。この時点で彼らはまだ、大戦が人類史上初の国家総力戦となり、死屍累々の地獄絵図になることを知りはしない。壮絶な戦いのトラウマは戦後もあとを引き、生き残った者たちは抜け殻のように虚無的な世代として後世に記憶される。フランスにとっての戦争は普仏戦争のあと43年ぶり。太平の世に「戦争を知らない世代」として成長した若者は、怖いもの知らずのヒロイズムで自ら泥沼の戦場に飛び込んでいったのだ。


 喉元過ぎれば熱さを忘れる――。多大な犠牲により刻まれた国民的教訓も、当事者世代が消え去れば、いとも簡単に風化してしまう。近年、とくに違和感を覚えるのは、少なからぬ素人論客が、まるで将棋指しになったかのように、大所高所から有事を語ることだ。いざ本格的な戦争が始まれば、ほとんどの国民は自分が無力な「駒」でしかないことを思い知らされる。先の大戦でも、開戦時あれほど勇躍歓喜した庶民の大半が敗戦時には、悲しみより安堵を感じている。身近に死が迫り来れば、国家の命運を云々するどころではなくなってしまうのだ。


 当事者が遺した文章や証言に数多く目を通せば、戦後世代でもそういった「低い目線で見た戦争」を追体験できる。有事を語る言葉も変わってくる。日テレで報道番組のキャスターを務める「嵐」の元メンバー・櫻井翔さんをめぐる先日の炎上を見て、改めてその差異を私は痛感した。真珠湾攻撃に加わった元日本兵の老人に「アメリカ兵を殺してしまった感覚はありましたか?」と尋ねたひと言が、「礼節を欠く」「戦争をわかっていない」と大バッシングを浴びたのだが、私に言わせれば彼を叩くネット世論より、櫻井さんのほうがよほど深く「リアルな戦争」を見つめている。


 そう感じたのは、たまたま今週のニューズウィーク日本版に櫻井さん自身の筆による「スペシャル・レポート」が載っていたためだ。先の大戦中、旧海軍将校として戦死した大伯父の足跡を掘り起こした長文の記事。『櫻井翔と「戦争」 戦没した家族の記憶』というこの記事は、今週号の「前編」だけで12ページ、次号にも「後編」が続く大作だ。


 櫻井さんは、戦争をより身近に理解するために、祖父の兄・櫻井次男という海軍少佐に着目した。群馬県の祖父母宅に飾られたその遺影を彼自身、幼少期から眺めていた。改めて祖母に尋ねると、この実家に大切に保管されてきた大伯父の任官証書類、自筆のノートなどを取り出して見せてくれた。東京帝大を出て商工省に入省した直後に大伯父は「短期現役主計下士官」という特別なルートで海軍士官になっていた。海軍での個人記録、同期の下士官らの回想録などをさらに入手して、櫻井さんは「大伯父にとっての戦争」を克明にたどってゆく。


 厳しい訓練期間が明け、巡洋艦や海防艦に乗り南洋での任務に就いたのは43年2月。45年1月には、敵機グラマンの攻撃で船が沈み、洋上を漂流する瀕死の体験もした。この恐怖で内地勤務を申し出たが許可は出なかった。一時帰省して親兄弟の前で「日本は勝てない。死にたくない」と弱気な言葉も漏らしている。次の出撃で不吉な予感は的中してしまい、ベトナム東岸沖でその乗艦は沈没、26歳の若さで大伯父は世を去った。


 戦死した同じ日付で階級は大尉から少佐に上がっていた。「前編」の文末に櫻井さんはその記録を見た空しさを綴っている。「後編」でさらなる展開があるわけだが、櫻井さんの眼差しは徹底してひとりの若者の「青春と死」に注がれている。無垢な若者が殺し殺される極限状況に追い込まれる不条理。炎上した番組インタビューでの質問も、その同じ視点から投げかけたものだったろう。建前でなく一個人としての心情をこそ櫻井さんは聞こうとした。私はそんな彼の真摯な探究に敬意を抱いている。


………………………………………………………………

三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。