●医師の小説でにじむ行政の不作為


 このシリーズ「活字世界を通じてみる近代から現代の医療」では、最初のテーマとして新型コロナウイルスを取り上げた。スタートしたのは3月だ。その後、春からは医療従事者を皮切りにメッセンジャーRNAワクチンの接種が始まり、収束の光も何も見えないなかで、東京オリンピックが無観客で強行され、夏には東京や大阪で1000人を超える単位での感染陽性者がカウントされ、自宅待機のまま死亡する人も相当数にのぼる“惨事”もいうべき第5波が列島を襲い、いつの間にか風船が萎んでいくように、国内では感染者数が激減した。


 ワクチン接種率が急速に欧米並みの水準に達したこともあるが、この減り方には不吉な感じも漂う。むろん、第5波を超える第6波襲来の危惧だ。現に、隣国の韓国では12月初旬、1日数千人単位での感染者数も報じられている。対岸の火事だとはとても思えない。


 このシリーズは、新型コロナウイルスを再度テーマとして取り上げて、終わりにしたいと最初に述べた。その方針に変更はないが、そうしたコンテンツを示したのは、新型コロナウイルス感染が下火となっているか、収束に向かっているとの観測がなかったと言えば嘘になる。おそらく9ヵ月先には、このパンデミックを総括する活字世界を眺めることになるだろうという期待があった。


 しかし、その期待は崩れた。なるほど、日本では現段階では感染状況そのものは落ち着いている。しかし、前述した韓国然り、欧米の状況も下火になったとは、とても言いにくい状況が続いている。日本でも、その第6波の危惧を打ち出す世論はむろんなく、社会的関心はむしろ、ワクチンの3回目接種に集まっている。


 そういう意味では、このシリーズ掉尾のテーマもはなはだ不本意ながら中途半端に終わることを余儀なくされる。それでも、2021年秋までの新型コロナウイルス感染に関する活字世界を覗いてみよう。今回は、医師が書いたフィクションの世界で描かれた新型コロナウイルス感染をいくつか見ていきたい。


●衛生学の常識もわからない


「チーム・バチスタ」シリーズで、医療エンターテイメントの第一人者の地位を確立した海堂尊は、「コロナ黙示録」に続けて9月に出した『コロナ狂騒録』で、主として行政のコロナ政策を痛烈に批判している。このパンデミックが始まったころの国民的関心と論点はPCR検査を拡大すべきか、それは無意味なのかという議論だった。


 海堂遵は小説でPCR検査について、【厚労省、政府専門家会議、関連学会のスクラム体制の「PCR無用論者」はクラスター追跡戦略に固執し、『検査数を増やすと医療崩壊する』という摩訶不思議な理屈を世に広げ、一般人に『PCR検査は無意味だ』と洗脳した、検査拡充を訴えた医療界の声を無視した政府と厚労省は、有症者の検査アクセスを制限し、重症者や死亡者の数を増やした戦犯】――だと厳しく糾弾しつつ、「海外では検査が無意味という論文は一つもないこと、最新論文でも『検査と隔離』が感染症抑制対策の要諦だと強調するものばかりだ」と、フィクションの中の登場人物に語らせている。相槌を打つ別の人物にも「そんなのは衛生学の常識だよね」とダメ押しさせる。


 この小説は前記した内容でもわかる通り、基本は主として20年8月以降の政府、地方を含めた行政の新型コロナウイルス感染政策に対する問答無用の激越な批判のオンパレード。むろん、著者の医師としての矜持と識見に基づくものだ。GOTOキャンペーン、大阪都構想住民投票とそれに端を発する大阪の医療崩壊、相次ぐ緊急事態宣言の発出とそれに伴う政治家たちの暗闘、ワクチン開発と供給、オリンピック開催に関する駆け引きなどが、時系列的に語られ、それらが束になり丸められ、薄汚れた大きなボールになって読者に投げ込まれている。登場人物は架空だがモデルは簡単に推定できるので、語られている内容は事実をなぞる。


 作家の怒りは時の宰相が言葉で国民に語り掛けないこと、その能力に欠けることに大きな比重があるように感じた。「政治家は言葉が命だ。公約は国民との契約で、政治家の権力の源泉は国民の付託にある。だが国会で嘘をつくことを容認した政権は何でもありだった」と、著者は政治の劣化が対策の迷走を招いたことを明確に指摘する。そのうえで各論ではなく、総論的に何がダメだったかを検証する必要を厳しく訴える。


 主人公に日本の衛生行政を総括させて、「武漢株は日本ではさほど脅威にならず、ぬるい対策で抑え込めた。それで自信過剰になった政府が図に乗って、経済優先の促進政策『GOTOキャンペーン』を採ってしまった。でも年が明け、仕切り直しのオリンピック・イヤーを迎えた途端、強力な感染力を持つ変異株が登場し、日本をパンデミックに陥れた。日本の衛生行政は衛生学の基本をサボタージュし、表面だけ取り繕ってきたので、ひとたまりもない。正しい情報のアップデートもせず、未だにPCRは不確実な検査だと言っている医師連中もいる。日本におけるPCR検査率は先進諸国の10分の1しかないのに」。


●人間同士の繋がりを断ち切らない


 21年4月に上梓された『神様のカルテ』シリーズなどを書いた臨床医の小説家、夏川草介氏の『臨床の砦』は、コロナ治療の現場からの視点でストーリーが展開する。医療崩壊の真っただ中でヒリヒリした皮膚感覚が読者に伝わる。


 小説の舞台は20年末頃から1月にかけての第3波。このとき、菅政権は1月8日から2月7日まで緊急事態宣言を発出している。小説は呼吸状態が悪化した62歳の男性コロナ感染者を地域の基幹病院と思しき「中央医療センター」へ救急搬送する場面から始まる。舞台は北アルプスの盆地都市で、物語は宣言前の1月3日からスタートする。


 患者に付き添う主人公は、200床と規模は小さいが、当該地域で唯一の感染症指定医療機関病院の中堅内科医。病院は「診療開始初期は、感染対策は不明、治療法は不明、死亡率は不明、後遺症も不明という、何もかもが未知の領域であり、文字通り手探りの医療」でコロナと向き合ってきた。対峙する医師は、腎臓内科医をリーダーとする専門外の内科医、外科医7人程度で構成するチーム。この7人のキャラクターを描き分けながら、最後までチームから脱落する医師は出ない。


 むろん、たびたび、彼らの葛藤、激しい議論が展開されるわけだが、それを通じて行政のコロナの診療体制整備のお粗末さ、政策の一貫性のなさも浮き彫りになっている。また、政策の不在、メディアをはじめとする「社会」「世論」の不誠実さに腹立ちまぎれに向き合いながら、それでも医療従事者が前を向き、戦う姿を描きつくそうとする。


 臨床の現場を知らない側からは、一方的で一面的に見える世界だが、読者が少しでも異を唱えたくなると、知らないでいい加減なことを言うなと、作家が主人公を通じて怒鳴り返してくるのだ。


 例えば、臨床現場が激しい波に蹂躙されるシーン。1月半ば、第3波の渦中。


「入院かホテル療養かを判断する診断ガイドラインも日ごとに変わっていく。感染爆発前は、『CTで肺炎像があれば入院』と言うのが原則であったが、すぐに『軽度の肺炎像のみであれば入院不要』でホテル行きとなり、今では『3センチ以上の影が複数か所に同時にある場合のみ入院検討』となっている。入院を考慮すべき年齢の基準も、日を追って上昇し、もはやガイドラインの意味そのものが失われつつある」


「増加する感染者を治療しなければならない医療者は、直接命の危険を感じながら働いている。毎日のように感染者と接する中で、すぐ足元に『死』を見つめながら働いている。その点は、客が来ないと嘆いているレストランのオーナーとは根本的に危険のレベルが違う」と主人公は考えつつも、「負の感情は次の負の感情を生み出すだけである。社会のあちこちでくすぶるその感情を野放しにしていれば、互いにただぶつかり合うだけで、立場の異なる人間同士のつながりを断ち切っていくことになるだろう」との踏みとどまりを示すのも、小説に借りた作家医師の信念に読者は心を打たれる。


●司令塔不在の惨状


 患者を引き受ける医療機関と事態を静観して動かない病院の実態も描かれている。


「(大病院の)コロナ診療については、どこに全体の司令塔があるのか、誰が戦略を立て、どのような理念で動いているのか、現場の敷島たちにはほとんど見えてこない。信濃山病院のような小さな病院がコロナ患者の大半を受け入れているのに対して、はるかに大規模な病院が事態を静観して我関せずという態度を維持している。民間病院の中には、かなりの感染病床を確保したと宣言しながら、実際は、院内で発生した患者の治療に専念し、地域の患者は断っているようなところもある。歪みはたくさんあるが、単純に善か悪かの問題ではない。そのような行動を誰が主導し、責任がどこにあり、どのような理念に基づいて動いているのか。現場にはまったく見えてこないのである」


 作家は保健所と民間大病院のパワーバランスの不均衡、大学病院の意思統一の不全、行政の事態認識の緩さなどに問題点を嗅ぎだしていくのである。コロナ診療が万全さを欠き、救急車での放置、在宅死の頻発など、その後の波でみられた事態も観測されている。この小説の重大な視点は、冷静で客観的な分析と判断を重視するリーダーの存在の必然。今もって、私はこの国の感染症対策の司令塔が誰なのかわからない。


●医療現場の苛烈さ


 大阪府内の救急病院に勤める救急科専門医が今年2月に出した『前線』というタイトルの歌集もここでは取り上げておきたい。歌人の筆名は犬養楓。19年末から21年1月頃まで、コロナ時系列でいえば第3波の最中までを詠んだ歌。


『前線』について著者は、


「新型コロナウイルス感染症に関わる状況においては『最前線で働く』とは『命を懸けて働く』と同義に捉えられているようだ」


「救急医療の従事者は、もとより目の前の命に『命を懸けて』仕事をしている人間である。(中略)救急医療の現場では『救える』『救えない』不連続面はいつも目の前に存在する」


「緊急事態宣言が連発され、本来の非日常が日常化していく中で、言葉が持つ力が次第に弱まっていくことを危惧している。しかし映像では伝わらない出来事や、声にならない声を言葉にすることが、現在の第三波まで続く不連続な局面を打開する希望になると信じている」


 などと、前書きなどで語り、この歌人が働く医療現場の苛烈さを歌にしたことを明らかにしている。ここでは私の余計な解釈は避け、何首かを紹介する。後半の3首は第三波の最中で詠まれている。


  使命感で続けられる強さなく 皆辞めないから辞めないでいる

  変わりゆく街を背にして変わらない信号を待つ影たちの群れ

  マスクでも感謝でもなくお金でもないただ普通の日常が欲し

  頻繁にアップデートを求められ生身の体を再起動する

  望むこと言えぬ空気の悪さありマスクの中で息が籠れり

  毎日の死者数よりも意味を持つICUを生きて出た人

  「どうしても無理なら他をあたります」受け入れ要請二件を拒む

  感染に対応できる葬儀屋の一覧渡す家族揃えば (幸)