今週は各誌とも年末年始の合併号。振り返ればここ数年、GWやお盆、年末年始の合併号と言えば、質・量ともにズシリと手応えのある週刊文春の特別企画が群を抜いていたのだが、今回の文春は正直、少し期待外れだった。


 今回の目玉は『談志、志ん朝、小三治…次の名人を探せ!文春落語「名人噺」』と銘打った16ページの特集だ。さまざまな関係者や愛好家が落語の魅力を語り合い、ファンにはたまらない読み物なのだろうが、門外漢にしてみればどうにも食指が動かない。万人が満足する企画などあり得ない以上、最後は読む側の好みの問題で、四の五の言っても始まらない。それにしても、いつものように第2、第3の特集があればと思うのだが、今回はそういった「厚み」という点でも弱かった。


 週刊新潮では『なぜ「皇室崩壊の危機」は訪れたか』という大型連載が始まった。初回につけられたタイトルは『「開かれ過ぎた皇室」の果てに……』。しかし、どんなものかと読み進むと、文中で持論を述べるのは、麗澤大学の八木秀次教授や国士舘大学の特任教授・百地章氏などおなじみの「日本会議メンバー」たち。「皇室への無理解がはなはだしい若者がたやすく皇族に近づき、あげく結婚してしまうという現実」を議論の出発点として、その原因を「皇室が国民に開かれ過ぎたこと」に帰するのだが、具体例として指摘してみせるのが、昭和天皇の侍従長だった入江相政氏がさまざまな回想記で戦後の宮中を描き、内実を国民に「見せすぎたこと」だったりする。


 これでは連載の底意があまりに見え見えだ。彼らが本当に問題視するのは、眞子さんの結婚問題より、戦後の皇室・天皇像なのだ。入江侍従長の話を持ち出すのも、昭和天皇の靖国観や平成天皇(現上皇)のリベラルな姿勢など、彼ら右派論者の意に沿わない皇室像が世に知られた不満なのだろう。連載の2回目以降を見れば、いったいどんな意味合いで皇室は「開かれ過ぎ」なのか、企画趣旨がよりハッキリするはずだ。


 同じテーマでも、サンデー毎日で先週号と今週号、保阪正康氏が書いた『新・皇室論』は真っ当だ。リベラルな昭和史研究家でありながら、皇室への敬愛も強い保阪氏は、現上皇の皇太子時代の結婚(美智子さまとのご結婚)、現天皇および秋篠宮の結婚は、戦前の皇室のあり方とは明確に異なる「新時代の方向性」を持ち、保阪氏もそれを肯定的に見るのだが、今回の眞子さんのケースはその路線と異なるあまりに特異な例だった、と困惑を見せるのだ。


 そのうえで今回の騒動は、①皇籍離脱と本人の意志、②女性天皇の将来像、③皇室行事の軽減・中止、④皇族の配偶者選び、⑤皇族の反論権と法的整備――といった問題点を浮かび上がらせたと論じている。現代人に課されるにはあまりに大きな制約と社会に期待される皇室像のギャップという「ことの本質」を正面から論じていて、そのスタンスは右派論者たちが抱く「皇室の実像を神秘のヴェールに隠したい」という願望とはまるで違っている。


 ちなみにサンデー毎日は来年4月に創刊100周年を迎えるということで、今号から『サンデー毎日が見た100年のスキャンダル』という特別連載を始めている。第1話は創刊の年に起きた作家・有島武郎の心中事件と翌年の関東大震災および朝鮮人虐殺について。また同じ号には元外務官僚の田中均氏と元長野県知事・田中康夫氏が相対した『2022年 日本の自立像』という「憂国対談」もある。この国の劣化を歯に衣着せず批判するふたりの論調は、ある意味終始、上から目線であり、一部読者には不興を買うかもしれないが、近年のあまりに思考力を欠く国の舵取りやネット世論に対しては、このくらい鋭利な物言いをしたほうがいい、と感じさせる爽快感がある。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。