(1)「阿国のかぶき踊り」のイメージ


 出雲の阿国(1572~?)は、歌舞伎の元祖である。ただし、「現在の歌舞伎」と「阿国のかぶき踊り」は、まるで似ていない。「阿国のかぶき踊り」が、急速に進化・変化・変遷して「現在の歌舞伎」になった。「現代の歌舞伎」から「阿国のかぶき踊り」を推測しようとしても、それはやめたほうがよい。


 それから、「阿国のかぶき踊り」とて、「無」から生まれたわけではない。各種の「踊り」があって、それらが「阿国のかぶき踊り」に吸収された。そして、「阿国のかぶき踊り」は絶大な人気を獲得して、阿国は「天下一」の女と見なされた。


 私の独断からイメージすると、「阿国のかぶき踊り」は、次のようではなかろうか。あくまでも、江戸時代に描かれた絵からの、私の勝手なイメージです。まず男女2人組である。主役は阿国で、イメージは宝塚の男役である。美女(阿国)が美男の武士に装う。もうひとりは男が女役(娼婦)に扮する。武士がエロチックに踊りながら、歌いながら娼婦を口説くのである。娼婦に扮した男は美男子ではなく、ひげ面男である。なぜ、ジャニーズのような美男子を起用しなかったのかな~と考えたのだが、「お笑い」の要素を含ませたのだろう。


(2)「舞」と「踊り」

 

 さて、「阿国のかぶき踊り」の前歴史を少々説明します。


 そもそも、明治以前までは、「舞」と「踊り」は峻別されていた。明治時代に「ダンス」の訳を「舞踊」とした。そのため、「舞」と「踊り」は、同じものと考えるようになってしまった。


「舞」は、「旋回」を重要要素とし、個人的動きである。そして、芸術的専門的である。


「踊り」は、「跳躍」を重要要素とし、集団的形態である。そして、生活的素人集団である。


「阿国のかぶき踊り」は、「踊り」の系譜にある。


「踊り」の起源は、たぶん、自然発生的であったと思う。狩猟時代、沢山の獲物がとれた。焚火を囲んで、たらふく食べて、みんなで焚火の周りを飛んだり跳ねたりして喜びを表現する。あるいは、災害・疫病に対して、大勢で悪霊退散を叫び騒ぎ、弾ける。そんなことが「踊り」に繋がったのかも知れない。


 日本史上、ハッキリしているのは、9世紀末、讃岐(現在の香川県)の「雨乞い踊り」の記録である。讃岐は瀬戸内海気候で雨が少ない地方である。それを、浄土宗開祖の法然(1133~1212)が見て、念仏を唱えるように指導した。これが、「念仏踊り」の起源とみなす見解もある。


 しかし、それ以前に、10世紀の僧・空也(903~972)は「念仏踊り」を実践している。


 そして、「念仏踊り」が広まったのは、一遍の時宗からと思う。一遍(1239~1289)は、時宗の開祖であるが、時宗とは「念仏踊り」そのものである。当時のインテリは「ありゃなんだ、ウサギや猿ではあるまいし、ぴょんぴょん跳ねている」とからかった。とにかく、全国各地で「念仏踊り」は流行った。あっさり言えば、集団で、念仏を唱えながら、各自自由勝手に、手を振り、腰を曲げたり、ピョンピョン跳ねたりするわけで、いつしか集団は我を忘れて恍惚の境地に没入するのである。


「念仏踊り」とは起源を異にするが、各地のさまざまな「田楽」が起源とされている「風流踊り」なるものが、応仁の乱(1467~1477)以降、流行し始めた。これは、とにかくド派手な衣装で飾り立て、鉦(かね)、太鼓、笛などでリズムをとり、歌いながら集団で踊りまくる。ド派手な衣装は、どんどんエスカレートして、安土桃山時代(16世紀末期)になると、常識を無視したド派手、異様なファッションとなっていって、それが大人気となった。


 安土桃山文化とは、絢爛豪華、金ぴか、ド派手を特徴とするが、「風量踊り」は、まさしく安土桃山文化である。衣装だけでなく、「踊り」の動作も、さらには日常行動でも奇抜さ、「カブク」ことが流行した。戦乱の時代がほぼ収束し、そこには自由奔放があった。まだ、江戸幕府の朱子学による自由弾圧政策は始まっていない。自由奔放の到来、そこに阿国は登場した。


(3)ヤヤコ踊で人気獲得


 阿国の出自は、かつては出雲ではなく、京の周辺などと推測されたが、現在の研究成果では、ほぼ出雲に間違いない。島根県出雲市大社町に出雲大社(=杵築大社)がある。大社町は、大正以前は「杵築(きづき)町」と呼ばれていた。


 びっくりすると思いますが、現在の出雲大社は「杵築大社」と呼ばれていた。それが、明治4年に「出雲大社」に改称された。ただし、古文書には、さまざまな名称で記載されている。とにかく、明治4年以前では、「杵築大社」が一般的であった。


 さらに驚くと思いますが、古代において出雲地方のナンバーワン神社は、杵築大社ではなく熊野大社(島根県松江市八雲町熊野)であった。


 平安時代に、神職一族が八雲町熊野から杵築へ移転したため、杵築大社がナンバーワンになった。八雲町熊野の熊野大社と紀伊の熊野三山とは、さほどの関係はなかったようだが、中世になって紀伊の熊野三山修験道が大流行すると、八雲町熊野の熊野大社は熊野三山から勧請をうけて、なんとなく影が薄くなってしまった。


 だから、細かいことを言えば、「出雲の阿国」の「出雲」とは、「出雲大社」ではなく「出雲国」の意味である。


 話を阿国に戻して……。


 阿国は、杵築町の鍛冶屋の娘であるが、ただの鍛冶屋ではない。杵築大社御用達で、いわば杵築大社の準役人のような家であった。そして、杵築大社の巫女となった。


 当時の杵築大社は、神社であるが、神仏習合が顕著で、境内には大日堂や鐘堂が建ち、鐘の音が響き、読経の声が聞こえる、という感じであった。したがって、阿国は神道的兼仏教的環境で育ったのである。ということは、阿国が出雲で習得した踊りは、「神道の巫女の静かなるセクシー的呪術動作」と「念仏踊り」の2つであっと推測する。ここで、問題が発生してしまう。


「神道巫女の呪術動作」は静寂動作で、本質は神の声を聞くものである。しかし、「念仏踊り」の本質は全員参加の集団乱舞で歓喜恍惚を目指す。「神道巫女」は「演じる者」と「観客」を区別する。「念仏踊り」は、「演じる者」と「観客」を区別しない。そうした根本的相違があった。どちらに重点を置くか、それが問題だ。


 しかし、阿国が女芸人としてデビューする頃、「踊り」でも「演じる者」と「観客」が区別されるようになった。そうだからこそ、「阿国一座」が成り立ったわけである。

 

 阿国一座は、四国から佐渡まで勧進巡業したようだ。その目的は、杵築大社の経済的ピンチのためである。大社の建物はボロボロ、崩れる寸前なのだ。なんとか、造営費を捻出しなければならない。むろん、神職家は、豊臣・徳川ら権力者に援助を求めるべく手紙を出したり挨拶に言ったりしている。しかし、なかなか支援が受けられない。中級・下級神職は御師(おし)となって、「出雲の杵築大社へいらっしゃい」と全国へ営業活動を展開した。巫女も上級は神楽巫女で本来の役目を行うが、中級以下は「歩き巫女」(勧進巫女)となって各地へ出向き、大社のPRと造営費集めであった。


 阿国は「歩き巫女」(勧進巫女)となった。と言っても、ひとりで歩くのではない。いわば、「旅芸人一座」のようなものである。


 阿国一座は、いつ出雲を出発したのか不明であるが、各地を巡業したようだ。無名の勧進巫女の動静など、記録に残るわけがない。各地の有力者・寺院の日記に芸人の記録も若干あるが、名前不詳なので、阿国一座かどうか不明である。


 そして京へ出て、最初は五条河原で、墨染め衣で「念仏踊」を演じたようだ。しかし、「巫女的神秘性」でもなく、歓喜乱舞の「念仏踊」でもなく、どっちつかずの中途半端な踊りで、お客が来ない。


 そこで、阿国は考えた。流行りの「カブク」ことを決断したのだ。当時、若い娘が幼児のように飛んだり跳ねたりする踊り「ヤヤコ踊」が流行っていた。阿国は、キンキラ衣装の幼女に変身して跳んだり跳ねたりの「ヤヤコ踊」を演じた。実演を見られないので、想像をたくましくするのみであるが、とにかく人気がでた。今のアイドルって感じかな……。


「ヤヤコ踊」で人気が出た阿国は、北野天満宮(=北野神社=北野社)へお願いに行った。北野社の最高実力者・禅昌(?~1612)が残した『北野社家日記』には、1591年(天正19年)5月に、「ヤヤコ踊りで勧進したいので」と申し入れが記されている。即OKにはならなかったようだが、ついには、北野社の東に舞台ができて、阿国一座の常設舞台となった。


 阿国と禅昌は親密になった。禅昌は当時の一流文化人で、連歌にも長けていて、阿国に連歌の知識を教えた。阿国は美貌だけでなく、連歌をものにする知識欲と文化的才能があったのだ。2人は、とても親しく交際しているので、なにかと噂の種になったようだ。阿国の立場からすれば、信頼できる大スポンサー獲得である。かくして、阿国の「ヤヤコ踊」は、ますますヒットした。


 1600年(慶長5年)7月1日の『時慶卿記』に次の記録がある。『時慶卿記』は、公卿の西洞院時慶(にしのとういん・ときよし、1552~1640)の日記である。なお、1600年の9月15日は関ヶ原の合戦である。


「近衛殿にて晩まで、雲州(出雲国)のヤヤコ跳、一人はクニと云、菊と云、二人、その外座位の衆の男女十人」


「ヤヤコ跳」について。「跳」は、「とぶ・はねる」の意味であるが、転じて「踊る」意味もある。だから、「ヤヤコ跳」は「ヤヤコ踊」と同じである。


 阿国一座は、1600年時点で、「ヤヤコ踊」で公卿邸へ招かれまでに人気を獲得していたことがわかる。


(4)天下一

 

 阿国は、「ヤヤコ踊」だけでなく、さらに大きくカブいて「カブキ踊」を発案した。人気急上昇で、自ら「天下一」を名乗った。


 この頃は「カブク」ことが、大流行、常識破りが格好いい、のである。


 1603年(慶長8年)5月6日、女院新上東門院の女院御所で「ヤヤコ跳」と「かぶきをとり」を演じた。そこには、大勢の観客が集まり、みんなキャーキャー大喜びしたのであった。とりわけ「かぶき踊」はスゴイものであった。ド派手ド派手のキンキラ金の若侍に扮した美女(阿国)が、歌と踊りで茶屋の娼婦(男が扮した娼婦)を口説くのである。


 歌の一節を現代風に直すと、「茶屋の女に7つの恋歌を歌おう。最初の1つ2つは、たわいのない歌で振り向かせ、残り5つは熱烈恋慕の歌ですよ」という感じかな……。


 ド派手ファッションのことで、NHK紅白歌合戦を思い出した。ここ20~30年は見たことがないが、昔は、1人2人はスゴイ衣装で登場して、もうそれだけで、「わぁー、すごいなぁ」と感動したものだ。阿国のド派手ファッションも、そんな感じだったのではなかろうか。NHK大河ドラマで「出雲の阿国」をやればなぁ、と思うのであります。


 女院御所で公演したことは、女院新上東門院が阿国のスポンサーになっていたということである。新上東門院(1553~1620)は後陽成天皇(第107代、在位1586~1611)の生母である。すごいですね~、天皇の生母がスポンサーになった。


 それだけじゃない。1603年(慶長8年)2月12日、徳川家康は征夷大将軍に任じられたが、『当代記』には、その年、阿国は「伏見城へ参上し度々踊る」とある。『当代記』は、姫路藩主松平忠明が編集したとされる歴史書で、寛永時代(1624~1644)に成立した。阿国は伏見城の徳川家康の前でも踊ったのである。


 そして、同時期、伏見城にいた家康の次男・結城秀康(1574~1607)の前でも踊った。幕臣で歴史学者の木村高敦(1680~1742)が著した『武家閑談』に、逸話が載っている。


 阿国が首にかけている水晶の数珠が見苦しいといって、自分の珊瑚の数珠を与え、「天下に幾千万の女がいるといっても、天下一の女と呼ばれるのは、この女である。我は天下一の男となる事かなわず、あの女にさえおとりたるは無念なり」といって落涙した。結城秀康の生涯は省略するが、勇猛武士ながら苦難・悲運の連続で、落涙も、よくわかる。

 

 1604年(慶長9年)、阿国一座は、伊勢の桑名で5日間連続で勧進かぶきを演じた。評判はよくなかったようだ。そりゃそうだろう、伊勢神宮の近接地で杵築大社(出雲大社)の勧進をされちゃ、地元感情として評判が上がるわけがない。桑名以外の各地でも地方公演をしたようだが、その記録は発見されていない。「天下一」の女芸人になっても、一般庶民階級の記録は、なされないものだ。


 1607年(慶長12年)2月20日、江戸城内の庭に設置された能舞台で、阿国は「かぶき踊り」を演じた。ここらあたりが、阿国の絶頂期であったと思う。


 徳川家康が阿国を贔屓にした政治的理由を考えてみた。


 家康と後陽成天皇(第107代、在位1586~1611)とは、どうも相互不信にあったようだ。家康は、朝廷の動向を把握するのに、生母の女院新上東門院と連携するのがベターと考えた。女院新上東門院は阿国の大ファンである。そこで、家康も阿国の大ファンを真似て、女院新上東門院を通じて後陽成天皇の動静を探るのであった。阿国は、その要である。


 さらに言えば、家康と豊臣家の関係においても政治的意味がある。杵築大社(出雲大社)勧進の阿国を贔屓にすることは、豊臣家が杵築大社へ造営資金を出させる理屈にもなった。家康は豊臣家の財力を削る目的で、豊臣家に対して、さかんに神社・仏閣の修理・造営をせよ、と勧告した。徳川だって、阿国を通じて杵築大社造営を援助している、豊臣も杵築大社造営を支援せよ、というわけだ。そして、豊臣家から杵築大社)へ造営の莫大な資材が届くようになった。


 徳川・豊臣・朝廷のど真ん中に阿国を位置づければ、面白い物語になると思う。


(5)その後の阿国


 1607年頃が、阿国の絶頂期であった。そして、次第に「阿国のかぶき踊」は、大衆からあきられつつあった。


 遊女歌舞伎(女郎歌舞伎)が、急速の人気を集め出したのだ。これは、遊女屋が主催する大規模な興行である。遊女屋のトップスター(「和尚」と呼ぶ)を中心にして、50~60人の遊女が輪になって踊るのである。「阿国一座」とはスケールが違う。阿国の時代は、終わりつつあった。


 1608年(慶長13年)2月20日、公家・小槻孝亮(おづきたかすけ、1575~1652)の『孝亮宿禰日記』に、四条河原の遊女歌舞伎の記事があるが、数万の見物人が集まった、とある。見物客は、気に入った踊り子を指名して、夜の酒席に侍らせることができた。


 阿国は、どうしていたか。どうやら、一流芸能人として、京の上流階級の間で、人気者であったようだ。スポンサーの禅昌や新上東門院の存在も大きかったに違いない。上流階級の邸宅に招かれ、踊ったり歌ったり、禅昌から学んだ連歌も役に立った。また茶会にも参加していた。


 1609年(慶長14年)、杵築大社(出雲大社)の造営が終了した。阿国の興行の大義名分がなくなった。


 1615年(慶長20年)には、北野社の禅昌が亡くなった。その前後には、北野社の常設舞台も廃止された。


 1620年(元和6年)には、新上東門院が亡くなった。新上東門院は芸能大好き女性で、阿国以外にも多くの女芸人が出入りして、踊りや歌を披露していたが、ストップとなった。


 江戸幕府は、朱子学によって、自由奔放は秩序を乱す、として、1629年(寛永6年)に女性芸能を禁止した。以後、歌舞伎は若衆歌舞伎そして野郎歌舞伎へと変遷していく。


 阿国が、いつ出雲へ帰ったかは、不明だが、新上東門院が亡くなった前後のことであろう。郷里では、「ひとつの草案をむすびて、つねに法華経を読誦し、ことに連歌を好みて明暮のたのしみとなし……」と伝えられ、その草案の旧跡は「お国寺」または「連歌寺」と言われた。1620年秋に亡くなったと伝えられている。


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太田哲二(おおたてつじ) 

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。