●過去に学ぶか前例主義を排するか


 このシリーズは、再び新型コロナウイルスをテーマにして終える予定だが、前回も触れたように、そうした予定を組んだのは、2021年3月の時点で、21年末には新型コロナウイルス感染が下火となっているか、収束に向かっているのではないかと観測したからだ。むろん、その期待は実現しなかった。むしろ、新たな変異株、オミクロン株の登場で世界は何度目かの奈落に落ちている。国内でも、1月の第1週には、早くも第6波の襲来を予感させるに十分な急速な感染拡大モードに入り始めている。


 パンデミックはさて、当事者となると、その流行期間はかくも長く感じるものだろうか。100年前のスペイン風邪当時とは情報の速度が違い、またウイルスの正体も「科学的」にはわかるようになったとしても、人々の不安や恐怖はおそらく変わらないのだろう。


 昨年5月に訳本が発刊された米国の公衆衛生学者、ニコラス・クリスタキスの『疫病と人類知』でクリスタキスは、医学生に対する講義で、スペイン風邪のパンデミックを伝え、突出した死亡率に注意を促したが、学生たちはこれを奇妙で変則的なこととして扱ったとし、自らも「今はもう問題のない過去の遺物として話した。だが、このようなことは二度と起こらないと考えるのは愚かなことだった」と述べている。


 クリスタキスは、自らの経験を通じて、過去の経験を評価し伝えることが実はかなり難しい作業であることを強調している。彼はいわゆる日本の「津波石」を引き合いにもして、人間は過去の経験を自らも含めて、いかに蔑ろにするかも語っている。


 しかし、それでも2020年初頭から始まったこのパンデミックによる混沌を、今現在も人々は忘れるわけにはいかない。記憶は刻まれていく途中にある。東京オリンピックは遠い昔の過去の話になりかけているというのに。


●昔からある大敵


 しかし、それでも私たちは今ひとたび、冷静になり、この2年間と、これから「収束」に向けた時間のなかで起こることを、未来の人々に伝えなければならない。クリスタキスの言う「人類知」とはそのことである。例えば、感染拡大初期に、医療者とその家族を遠ざけ差別し、地域を差別し、特定の職業を罵ったヒステリックな行為が、メディアまで総動員して行われ同調圧力となったこと。恥ずかしいし、忘れたいが、伝えなければならない。


 クリスタキスは「疫病は、古くからなじみのある小さな大敵なのだ」と言う。大敵とは、何も疫病そのものの、身体的な致死能力だけを指しているのではなく、そのときに起こる差別、不平等、フェイク、利己と利他というさまざまな人間の知的活動の変容を含む。そして、それは人間が罹るという意味で、「小さな大敵」のほとんどは、実は人間であるために作られていく「敵」だという存在を知るべきだという示唆でもある。


●現代科学の屈辱的敗北


 一方で、20年夏に書かれたクリスタキスの本は、まだワクチンは世にはないが、その登場をかなりきちんと予測し、そのほかのいくつかの試み、起こったことなども予測し、それがあまり大きくずれていない。例えば、集団免疫に言及して、スウェーデンと貧困や健康不良等の多様なリスクを抱える米国を比較するのは間違いだと明確に主張、「パンデミックの管理に求められる細心の注意を要する複雑なステップを、著しく過小評価した」と、20年夏のリーダー、つまりトランプ前大統領を厳しく批判している。


 しかしよく考えれば、このパンデミックの始まりの頃にあったリーダーの蹉跌、誤謬は、実はこうした現代に生きる人々に共通したものかもしれない。「科学の進歩」への妄想に近い思い込みが、実は先人の知恵に学ぶことをやや疎かにしたのだ。そして、新型コロナウイルス感染症には歯が立たなかった。


 クリスタキスも、20年を、遺伝子検査の発明・利用、携帯電話データの主として人流監視の活用、ICUの整備、コンピュータ制御の人工呼吸器、新種の抗ウイルス薬と、ウイルス生物学と薬理学の深い理解があり、インターネットを利用して瞬時に幅広く情報共有できる時代だと位置づけたうえで、以下のように語っている。


「だが、こうしたことが実際にどれほどの助けになっただろうか? 先人の方が資源も少なかったというのに、ウイルスを食い止めることに関して、わたしたちは彼らと比べて大して成果を上げていない。前世紀に科学と医学でさまざまな進歩を遂げたにもかかわらす、事態がほとんど変化していないことを考えると、屈辱的で衝撃的である。公共の場所での集会禁止やマスク使用など、過去の疫学が用いる原始的なツールへと回帰しているように感じられる」


●フィジカルの強い戦略論の必然


 トランプに関しては、米国民でなくても彼の虚言は知っている。トランプは20年2月には、「そのうち暑くなって収まる」と語り、それから6月まで「いずれ収まる」と言い続けた。20年6月には米国の感染者は累計で250万人に達し、死者は12万6000人を数えていたのに、である。周知のように、トランプは狂信的な多数の支持者に支えられ、マスク(原始的なツール!)についても当初は否定的だった。


 こうした指揮官のでたらめさは、多くの人々に科学的根拠に基づいた正確な戦略と、オペレーションが必要なことを認識させた。


 このことを指摘したのは、厚労省やWHOで感染症危機管理の任を担ってきた阿部圭史が21年8月に上梓した『感染症の国家戦略』だ。サブタイトルは「日本の安全保障と危機管理」。クリスタキスがきわめて散文的にこのコロナ禍における人々のあり方、とくに心の持ち様を論じているのに対して、阿部は軍事的戦略観をベースに極めてロジカルな、しかし強い信念で読者に感染症対策の戦略的管理がいかに必要かを説く。クリスタキスが精神的内奥のなかに柔らかい思いやりや、過去から学ぶことを語るのに対し、阿部は強いフィジカルでまさに「俺についてこい」とばかりに私たちを叱咤する。


 例えば、『感染症の国家戦略』の前文で阿部は、「一貫して感染症危機管理に関するキャリアを歩んできた」との自己紹介がてら厚労省での経験、WHOでの活動実績を列挙して、「近年の感染症危機事案において、日本政府において実務家として感染症危機管理に関す染症管理に関するオペレーションの立ち上げと実行を経験した、唯一の日本人」ではないかと自己を語っている。そしてさらに、感染症危機管理について包括的に論じた書物はこれが世界で初めての試みだとまで言う。


 阿部はこの戦略論を編み出すにあたって、84年に戸部良一ら6人の研究者によって編まれた『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』と、普仏戦争後の1816年以降に書かれたカール・フォン・クラウゼヴィッチの『戦争論』をベースにしていることを明らかにしている。


 戦争は未知との遭遇の代表例であり、感染症危機管理も未知との遭遇だと阿部は言う。そして、道の脅威に体未知との遭遇の代表例であり、感染症危機管理も未知との遭遇だと阿部は言う。そして、道の脅威に体政府の危機管理対策以外の政策で語られる「前例主義」はここでは批判の対象ですらなく、存在しないものであり、事態対処行動は過去の経験に基づくことはあっても、情報の収集分析を通じて修正し、「不断の作用・反作用を切り返さねばならない」と述べる。


 クリスタキスの指摘する「過去に学ばない」人間の愚昧さには関心を示さず、「前例主義」を排することで、当事者戦略の重大性に言及する。次回は、この「戦略」を読みながら、具体的ポイントとして、この2年間のPCR検査に対する論議をノートしていくことにする。(幸)