●事態対処行動の指針の必要
前回に続いて、新型コロナウイルス感染症に対応するための戦略の重要性について、厚労省やWHOで感染症危機管理の任を担ってきた阿部圭史が21年8月に上梓した『感染症の国家戦略』を読んでみよう。同書のサブタイトルは「日本の安全保障と危機管理」。阿部は軍事的戦略観をベースに、極めてロジカルな、しかし強い信念で、読者に感染症対策の戦略的管理がいかに必要かを説いている。
著者は、今回この本を上梓した動機について、「国家に対して甚大な影響を及ぼし得る感染症に対する『危機管理』について、その知識体系を明らかにし、一定の指針を示すことである。すなわち、感染症危機による負の衝撃を阻止または低減するための活動について述べるのであって、安全保障の観点からいかに感染症危機を考えるかといった点について紹介することではない」と述べている。つまり、感染症危機管理の指針であって、政策論ではないと釘を刺しているのだ。軍事戦略と通底するのは、統率の取れた国家的規模の事態対処行動の必然だ。
同書では感染症管理について、第1章が目的、第2章がその特性について包括的に書かれ、第3章と第4章は準備・対処行動の具体的な戦略のあり方に及んでいる。ここでは第2章を中心に、この活字の論点を眺める。
●「前例はない」ほうがノーマル
戦争は未知との遭遇の代表例であり、感染症危機管理も未知との遭遇だと著者は強調し、未知の脅威に対する感染症危機管理に「前例はない」と断じている。政府の危機管理対策以外の政策で語られる「前例主義」はここでは批判の対象ですらなく、存在しないものであり、事態対処行動は過去の経験に基づくことはあっても、情報の収集分析を通じて修正し、「不断の作用・反作用を切り返さねばならない」のだ。
「前例がない」というのは、官僚用語として行政取材の経験の多い筆者などは、少し驚くし、その言い切りぶりに何となく粗野な印象さえ持つが、考えてみれば、今回のようなパンデミック、あるいは大震災、あるいは大風水害といったものの多くは、当事者たる現場のなかに「前例」を知るものがほとんどいないのであり、感染症管理に「前例はない」というのは至極当たり前なのである。
戦争についても、日本は明治以降、いくつかの大きな戦争を経験しているが、敗北はほぼ前例になく、勝利を前提にして戦って、無謀な戦略にしがみつき、最終的には大きな犠牲と痛みと屈辱を味わう羽目となった。そうして考えると、「前例はない」と考えるのがノーマルであり、前例主義が蔓延している状況こそがアブノーマルだということもわかってくる。
阿部はその第2章で、示唆に富むというか、目から鱗のような主張を何度か展開する。例えば、感染症危機管理を含む危機管理は科学的活動ではないという認識を求めることだ。
感染症危機管理は、著者によれば「感染症対処の問題」ではない。そうした扱いは問題設定が間違っているということになる。また「批判」にもこう述べる。「脅威発現当初は規模の大きい対策を講じ、状況の推移に応じて過剰になっている部分を削ぎ落し、対策の規模を調節している限りにおいては、批判されるべきではない」。結果論で物を言うということである。ただ著者は、批判は危機管理活動の改善には有用だとの見解も示し、それが害をなすこともあり、重要なのは批判の仕方と中身だと語る。批判する側は、修正に資する意見を考えねばならない。
●政策と管理は別物
危機管理に関して特に人材が逐次投入されることは避ける、未知への挑戦であることに対する外野からのたやすい批判は、実際の危機管理の実行が複雑で難解な営みであることを理解していないとの示唆と受け取れる。
この危機管理の営みへの無理解に対する反発は、阿部が最も強調したかった点ではないだろうか。戦争における一切の行為は、確定的な結果を目指して行われるものではなく、蓋然的な結果を目指して行われるというクラウゼヴィッツの『戦争論』を踏襲しながら、危機管理も同様だと述べたうえで、「感染症危機管理において科学やエビデンスばかりを強調する者」を俎上にあげる。さらに、その主張の先に「感染症危機管理においては、医学や公衆衛生学といった科学的知識を有しているだけでは不十分なのであり、軍事的概念の理解が不可欠なのである」を加えている。
軍事的概念についてここで論じていくのは手に余るが、著者は、危機管理は軍事行動における戦略レベル、作戦レベル、戦術レベルの3層構造がオペレーションの核だとの前提を提示。感染症危機管理における指揮系統のあり方を語ったうえで、いわゆる国家の方針は、「大戦略レベル」というその3層の上に位置する4層構造をトップが決めていくというスキームを示す。
政策と管理は別物だとの認識を読者は理解することになるが、「大戦略レベル」は政治指導者たちが担う行為であり、「大戦略」を受け持つ政治指導者は、「現下に発生する感染症危機に臨むにあたり、既存の法の範囲を超えた事態対処行動が必要になるのであれば、法を超える判断を行い、その責任を引き受けることである」と強調している。
●必須な安定的な経済提供
阿部はむろん、あからさまな批判をしているわけではないが、COVID-19以後の政治世界を思い返すと、法を超える判断はせず、責任を回避し、それでも「責任を感じる」という新語を編み出したリーダーたちの言葉を、思わず私は思い出す。
同書の第4章で語られる危機管理を指揮する作戦参謀は「総力戦」の概念が必要だとの指摘も読後の記憶に残る。ワクチンなどの危機管理医薬品が存在しない状況では、作戦参謀は「総力戦」を実行しなければならないが、総力戦を支えるには「重点は国民にある」という指摘だ。そしてそれは、国民への安定した経済の提供であり、不誠実と腐敗を排除し、「国民が総力戦への協力を拒否する事態を招いてはならない」と述べ、それによって国民の「抗戦力」が得られるという。
貧すれば鈍すでは感染症危機管理はできない。当たり前のようだが、それを教科書にしたのは、やはりこの本が最初かもしれない。それにしても、この活字を追った後で、現実のこの2年間を振り返ると、少し呆然とする。行き当たりばったりの政策に国民は翻弄されるばかりだった。突然の一斉休校、医療崩壊のための自宅療養での死亡、ワクチン3回目接種議論の行きつ戻りつ……。
この国の国民はそれでも政権を見捨てない。こんなに従順な国民は、阿部風にいえば「国民の抗戦力」ではないかと思うが、いやしかし、諦念と言うべきかもしれない。
●PCR検査をめぐる2年間の議論
この2年間のCOVID-19に対する防衛的戦略について、国民と政府の間で最も隘路があったのはPCR検査への対応ではないかと思える。今でも筆者には、政府が当初、全数的PCR検査に消極的だった理由が判然としない。このことは識者の間でも、戦略として最も批判の強かった、あるいは激しい異論が提示されたケースだと言える。
基本的にPCR検査によって、市中感染状況を把握し、そのことで国民に注意喚起することで国内のパンデミック戦略はより高い質を持ち、それなりの効果があったのではないかと考えられる。戦略論としてはPCR検査の拡大充実はイロハのイのように思えるが、政府はほぼ2年間、この戦略には背中を向け続けてきた。
そして実は、市中の無症状者を対象にしたPCR無料検査が実際にスタートしたのは、実質的にはこの1月からだ。それでこれが戦略的にどう活用されていくのか。
PCR検査に関する戦略批判に関しては、東京理科大学の山登一郎名誉教授が医療ガバナンス学会のメールマガジンで表明している見解を代表例としてみていこう。この場合、メルマガでの議論も「活字」としてみる。(幸)