先頃、新聞・テレビで「脱サラし、起業に失敗しても、失業手当をもらえるようになる」という話が報じられた。報道によれば、厚生労働大臣の諮問機関である労働政策審議会がまとめたもので、今国会にも雇用保険法の改正案を提出する見込みだという。


 経験した人もいるかもしれないが、失業手当はハローワークに届け出て、受給資格を得る。受給期間は雇用保険の加入期間によって90日から最大330日間で、退職後1年以内に届けなければならないことになっている。ただし、妊娠や出産、病気の場合は、届ける期間が4年になっている。報道記事は起業に伴う退職に対しても同様にするという改正案だ。


 現行制度では脱サラ後に起業した場合、収入があれば、失業手当を受給できない仕組みで、もし起業に失敗して失業状態になったときには1年間の届け出期間を過ぎているため、失業手当を受けられない。それを避けようというものだが、裏から見ると、起業に失敗するなら4年以内に、と言っているようにも聞こえる。


 それはともかく、安心して起業するように、という配慮なのだ。新聞・テレビでは、この改正で「セーフティネットがひとつ増えることで、スタートアップ企業が増加し、経済の活性化が期待できる」と好意的に報じていた。


 その報道に続く数日後に「昨年、希望退職を募った上場企業は84社に上った」という東京商工リサーチの発表が報道された。リーマンショック直後は85社が希望退職を行なったそうで、それに迫る状況だと伝えていた。


 加えて、前出の失業手当の届け出の延長を伝えた朝日新聞では、厚生労働省の話として「失業をハローワークに届け出た人のうち1%ほどが再就職せずに起業する」そうで、「その人数は昨年度で1万5000人だ」と伝えている。政府は失業後、ベンチャーの起業に挑戦する1万5000人に安心して挑戦してほしいということなのだろうか。


 そういえば、昨年9月にサントリーの新浪剛史社長が副代表幹事を務める経済同友会の夏季セミナーで「45歳定年制」を提唱したことが大きく報道された。SNS上では「テイのいいクビ切りだ」「人材切り捨てだ」という批判が飛び交ったが、むろん、新浪社長の発言は人減らしを目的にしたものではない。45歳になるまでに起業すべきで、そのオプション(選択肢)をつくるべきだ、45歳を迎えても継続雇用を希望する人とは雇用契約が続けるのが基本で、リカレント(学び直し)や職業訓練を受けるのが前提、という趣旨だと強調している。


 確かに、新浪氏に言われなくても、若いうちに起業すれば、万一、失敗したとしても、再就職することも可能だ、2度目の起業に挑戦する余裕もある。だが、45歳定年制に納得できるだろうか。理屈はそうでも、その通りに行かないのが現実である。


 新浪氏は三菱商事から出資先のローソンに出向し、ローソン社長時代にたびたび新聞・テレビに登場したことで知名度が上がり、サントリーの社長にスカウトされた人物だ。決してご本人が起業して成功した人ではない。それでも本人の努力だと言われれば、それまでだが、恵まれた立場である上からの目線での発想には誰もが同調も賛成もしないだろう。


 希望退職でも45歳定年制でも、さらに失業保険の受給資格期間の4年延長でも、これでベンチャーに挑戦する人が増えるとは思えない。失業した人の多くは次の就職先を探すだろう。もちろん、この際、退職金を元手に起業しようとする人もいるだろう。しかし、起業して成功するのはせいぜい1割くらいではなかろうか。9割以上の人は失敗するのではなかろうか。それでも成功すれば成果は大きい。それを夢見るのがベンチャーだ。


 アメリカではベンチャーを興したものの失敗する人は多いそうだ。それは日本と同様だ。だが、アメリカでは何度失敗しても再びベンチャーに挑戦するという。失敗すればするほど経験を積むことができると考えるし、再挑戦に資金を提供する人も多いそうだ。一方、日本では一度失敗すればそれでほぼ終わりだろう。2度目の資金を出してくれるような奇得な人は滅多にいない。第一、家族も嫌がる。やむなく中小企業に再就職をすることになる。やはり、起業には勇気がいる。


 そんな事情からだろう、定年まで勤める人が多い。サラリーマンなら30代後半になると、誰しも自分がどこまで出世するか見えてくる。社長になれるかどうかはともかく、取締役になれそうだとか、部長クラスかなぁ、いや課長で終わるかも、など大体の予想がつくようになる。それでも、実直に定年まで40年間勤め上げれば年金で何不自由なく老後を送れるのだ。凡庸なサラリーマンにとって、失業保険の届け出期間が4年に延びたからといって、退職して厚生年金から金額が少ない国民年金に甘んじるようなリスクの大きい起業に走るだろうか。


 実は、こんな話がある、姉から聞いた近所の親しいKさんの話だ。Kさんは食品加工会社に就職後、自分には大した才能がないと気付いたらしい。ボーナスが出ると、全額をはたいて自社株を買い続けたそうで、40年勤め上げて定年退職するときには、なんと個人大株主になっていたのだ。そのとき、役員たちは愕然としたらしい。なにしろ、役員たちは今までは年上であっても「Kクン」と呼んでいたのが、退職後は大株主だから「Kさん」とさん付で呼ばなければならないのだ。


 それどころか、K氏が定年退職後の暇にまかせて株主総会に出席して何か発言されては困る。やむなく、役員たちが鳩首協議して考え付いたのが、Kさんを監査役に迎えることだった。Kさんの退職はさらに2年延びた。いや2期4年延びる。今まで電車で通勤していたKさんはときどき社用車で帰宅するようにもなったそうだ。


 資産運用コンサルタントが聞いたら、Kさんの資産運用ぶりに泣いて喝采を叫ぶかもしれない。Kさんほどではなくても、多くのサラリーマンは失業保険の申請期間の延長に期待して起業するよりも、失敗しないばかりか、確実に老後を優雅に暮らせる定年退職を選ぶほうが賢明なのだ。


 実は、私もベンチャーに挑戦して失敗した口である。起業は資金がいることと、先を読み過ぎてはいけない、ということが教訓として残った。ジャーナリストはどうしても先を読んでしまうが、これがダメなのだ。半歩先でなければ、世の中がついてこない。


 私の場合は、マクドナルドが銀座4丁目に1号店を開いたとき、これからはテイクアウトの時代になる、と思い、イギリスのパブのように自由に飲み食いできる店をつくった。だが、資金がないから住宅街にしか出店できない。半年ほど続けた末、レストランに衣替えし、なんとか利益を出せるようになった。近所に医科大学と付属病院があったことが客をとれるようになったのだ。


 学生と軍隊は消費しかしない存在である。ただ軍隊は完結型組織だから食事は隊内で可能だし、服も支給されるから消費にはあまり結び付かない。学生だけである。大学は春休みと夏休みが長いけれど、大学がある近所は商店街が成り立つ。私の場合も近くに医科大学があったことが幸いした。近所の商店主たちは大学生を陰で「財布が洋服を着て歩いている」と言っていたが、言い得て妙だと思った。


 実際、原価率を少し高くしても美味しい料理を出し続けていたことで、学生だけでなく、教授たちも週に1回はステーキなどを食べに来てくれた。おかげで税務署から「正直ばかりでは長続きしませんよ。もう少し理由が立つ経費を増やして所得を多くしたらどうか」と忠告された。


 だが、数年で辞めた。サラリーマンの家庭で育った人間には1日10数時間も立ったまま仕事をするのが苦痛になったからで、脱サラする前と同様にジャーナリストに戻った。まだ30歳そこそこだったから転職も容易だったし、いい経験になったが、教訓として得たものは、ベンチャーの事業は一歩先ではなく、半歩程度先を読んだ事業でなければ、人がついてこないということと、飲食店は味よりも立地で決まるということで、それには資金がいることだった。


 後年、週刊誌時代に住宅街の一般家庭で料理好きの人が自宅を改造してテーブルを置き、人に知られないようなレストランを開業することが流行った。だが、最近はそういう話をあまり聞かない。出前をする寿司屋、蕎麦屋は別として、住宅街という立地では不特定多数を相手にする飲食店は難しい。やはり、飲食店は立地で決まる。


 起業を盛んにし、ベンチャーを増やそうというのなら、45歳定年制や失業保険申請期間を延長するよりも、年金を充実させることのほうがよほどベターなのではなかろうか。ベンチャーに失敗しても、40年間勤め上げた人とほぼ同様の年金を受け取ることができたら、安心して起業に走ることができる。


 不況になると公務員が持て囃されるが、それも希望退職がないことに加え、老後が安泰だからだ。産経新聞の記事によれば、昨年、希望退職を募った企業は日本たばこ産業やホンダ、パナソニックなど84社に上るという。親しい経済記者に聞くと「指名解雇ができない日本は退職金を上乗せして希望退職を募るのだが、経営者は優秀な人ほど希望退職に応募し、平々凡々としている人ほど残る、とこぼしている」という。先程の例ではないけれど、そういう人ほど、将来を見通して定年まで我慢したほうが得だということなのだろう。


 もし脱サラしても、しなくても同じ程度の年金だということになったら、会社にしがみつく人は減る。いいことかどうかはともかく、自分のやりたいことを目指して起業に走る人が増えるだろう。


 しかし、今の日本では無理だろうなぁ。日本の年金は国民年金と厚生年金の2階建てだ。年金をスタートさせたとき、国民年金だけの人は農民と資産のある商店主を対象にしていた。農民は生涯を通して働けるし、商店主は自分の店という資産を持っている人だから、2階部分に相当する厚生年金は不要だった。


 だが、その後、商店で働く人、契約社員、アルバイターといった非正規雇用が多くなり、彼らは自営業という括りで国民年金だけになる。同じ自営業でもそういった人たちは資産がないから国民年金だけでは暮らせなくなっている。その結果、生活保護世帯が増える。年金と生活保護は反比例するのだ。


 しばしば週刊誌で生活保護が多くなりすぎる、と問題視するが、今は生活保護家庭は高齢者が多い。年金が減れば、生活保護が増える。生活保護を減らすためには年金を充実させることだ。それを書いても納得はしてくれても誰も声を大にしてくれなかった。


 そればかりか、現実には年金の受給年齢の引き上げ、受給額の減額が続いている。年金が破綻しかねないからだそうだが、年金が減る社会で、どうしてベンチャーに走る人が増えるだろうか。起業を増やそうというのなら根本の年金改革に手を付けるべきではなかろうか、45歳定年制とか失業給付金の申請期間の延長など、くだらない小手先の話に過ぎない。(常)