この作品に登場する人物及び出来事は架空のものであり、実在のものを描写するものではありません――。「社会派」と銘打ったドラマや映画には、決まってそんなニュアンスの文言が添えられる。下敷きになった実話が明白であればあるほどに、その言葉は重要になる。だが、私は迂闊にも、この「防御壁」はあくまで告発対象者の反撃に備えるものだと思い込んでいた。まさか「善玉」に描く側の人たちまで、「フィクションなんだからいいでしょう」と遠ざける道具に使うとは、考えもしなかった。
今週の週刊文春トップ記事『森友遺族が悲嘆するドラマ「新聞記者」の悪質改ざん』の内容は、そういった意味合いで驚きに満ちていた。問題のドラマは13日に配信が始まったネットフリックスの『新聞記者』(全6話)。主人公は東京新聞の望月衣塑子記者をモデルにした女性新聞記者(米倉涼子)であり、森友事件を思わせる公文書改竄で自死に追いやられる財務相職員(吉岡秀隆)とその妻(寺島しのぶ)は、誰の目にも赤木俊夫さん、雅子さん夫婦である。ところが、このドラマは、ストーリーの最重要人物である赤木雅子さんの意向を踏みにじり、その承諾を得ないままつくられたものだったのだ。
記事によれば、製作陣と雅子さんは事前に何回か話し合いを持ったという。雅子さんは「事実をできる限り正しく伝えてほしい」と望んだが、「あくまでもフィクションだから」とその願いは拒絶された。前評判が高いドラマだったため、私は配信直後に全6話を視聴。俳優たちの熱演もあり、かなりの好印象を持ったのだが、文春記事で内幕を知ると、なぜ雅子さんの希望を無視したのか、という疑念に包まれてしまった。脚本の変更によりストーリーが多少複雑になるにしても、基本的なテーマの重さは変わらない。それよりも当事者中の当事者たる赤木雅子さんに認められなかった作品、と認識されてしまうほうが、「社会派」の作品としては致命的だ。
もともと雅子さん役にキャスティングされたのは小泉今日子さんだったらしい。だが、彼女は「赤木さんのご理解とご了承がなければ」と食い下がり、最後は自身の降板か雅子さんの許諾か「2つに1つです」とまで迫ったが、製作陣を動かせず、降板せざるを得なかったという。私は彼女の判断こそ正解だったと思う。ドキュメンタリー以上に真実に迫る、そんな印象を与えてこそ、この手の作品は価値を持つ。モデルになった実話の当人に「認めない」と言われてしまったらそれまでだ。彼らはなぜ、そんなことがわからなかったのか。
もう一点、この記事で強く感じたのは、原作本の著者・望月記者への幻滅である。雅子さんとの交渉では途中まで番組プロデューサー以上に前のめりで関与したが、雅子さんの思いを汲み取ろうとする姿勢はまったくなく、ただひたすら製作陣の意向を押しつけようとしたらしい。現実の世界で雅子さんが夫の遺書を託したのは、1年以上彼女に寄り添って信頼を得た元NHK記者の相澤冬樹氏だ。ドラマではそのこともみな、主人公の女記者の手柄にしてしまったが、事実はそうではない。雅子さんのこだわりには、世話になった相澤氏への気遣いもおそらくあったことだろう。
これまで望月記者に対しては、官邸記者会見の食い下がりについてだけ、その奮闘をある程度認めてきた。具体的な報道の成果では、今ひとつぱっとしなくても、逆風にひるまない「タフな記者」の存在には一定の価値がある。そんなふうに思ってきた。だが、こうなって見ると、彼女の頑張りを支えるのは、救うべき弱者に寄り添う気持ちより、自身の虚栄心、自己顕示欲かもしれないと思えてくる。ドラマの製作陣にしても望月氏にしても、「面倒くさい雅子さん」を切り捨てた代償はあまりにも大きく、ジャーナリスティックな仕事をするうえで、そのスタンスの怪しさを露呈してしまったと言わざるを得ない。
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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。