(1)日本史、初のミスコン女王
常盤御前(1138~?)とは無関係ながら、私は「常盤」を「ときわ」ではなく「じょうばん」と読む癖がついていた。たぶん、常磐(じょうばん)炭鉱は知識のひとつとしてしっかり覚えていたが、身近に「ときわ」と読むものに縁がなかったからだろう。「常盤御前」の固有名詞に出会っても、脳細胞は「じょうばん、いや、ときわ・ごぜん」とワン・クッション置く有様であった。
常磐炭鉱は、エネルギー革命(石炭→石油)によって、1970年代に廃鉱となった。そして、常磐ハワイアンセンター(現スパリゾートハワイアンズ)に生まれ変わった。その頃、常磐炭鉱の労働組合役員の話を聞いたことがあり、「へぇー、なんとまぁー」と驚いた記憶がある。「常磐炭鉱」と「常盤御前」は、連想ゲームならば、「男どもの中の美女」ということかな……。
さて、本題の常盤御前ですが、主に『平治物語』に登場します。『保元物語』『平治物語』『平家物語』『承久記』の4作品は、中世の頃から「四部之合戦書」と言われている。保元から承久の間、武士が歴史の主役に躍り出た時代である。この4作品は、いずれも作者不詳である。なお、『源平盛衰記』は『平家物語』の異本、改定・増補版で、史学的価値、文学的価値は『平家物語』よりも劣るが、興味深いお話が多く、後世への文芸的影響は大きいとされている。
『平治物語』では、「常盤」ではなく「常葉」の文字となっています。「常盤」の意味は「永久なる岩」、あるいは「平な板」(例えば、将棋盤)といった意味が強いですが、「常葉」だと「常緑樹」の意味が強い。したがって、私も「常葉」のほうがふさわしいと思うのですが、一般的に「常盤御前」となっています。
常盤御前のお話は、『平治物語』の中巻「常葉注進並びに信西子息各遠流に処せらるる事」「常葉落ちらるる事」と下巻「常葉六波羅に参る事」などに書かれてあります。
常盤御前は間違いなく絶世の美女である。『平治物語』の「常葉六波羅に参る事」に、その美貌が次のように書かれてある。
「これほどの美女をば、目にも見ず、耳にも聞およばず」
「よきこそ、ことは(わ)りなれ。大宮左大臣伊通公(近衛天皇の中宮・九条院(藤原呈子)の実父)の、中宮御所へ、見目よからん女をまいらせんとて、よしときこゆる程も女を、九重(宮中の意味)より千人召されて百人えらび、百人より十人えらび、十人がうちの一にて、此の常葉をまいらせられたりしかば、わろかるべきやうなし。さればにや、見れども見れども、めづらかなるかほばせなり。唐楊貴妃・漢李夫人が、一度咲ば百の媚をなしけんも、これには過じ」
美女1000人の中から100人を選び、その中から10人を選び、10人の中のトップというのだから、まさに日本史初のミスコン女王である。
(2)雑仕女から源義朝の側室となる
1138年、常盤御前が生まれた。父母はわからない。母は白拍子(しらびょうし)との説もあるが、なんにしても、大した家柄ではない。白拍子とは、平安末期から鎌倉時代に流行った歌と舞をミックスにした芸能、および芸能人。芸能人兼高級遊女という側面も強い。有名な白拍子としては、平清盛に寵愛された祇王と仏御前がいる。2人の美女の確執は、興味深いが省略。源義経に寵愛された静御前も有名です。
1142年、わずか満2歳5ヵ月の近衛天皇(第76代、在位1142~1155、生没1139~1155)が即位した。父は鳥羽天皇、母は藤原得子(なりこ、美福門院)である。
やや横道にそれるが……、
この美福門院が(1117~1160)がスゴイ女で、保元の乱、平治の乱の元凶とする見解もあるくらいだ。美福門院は、玉藻前(たまものまえ)なる妖狐のモデルになったくらいスゴイ女である。妖狐のなかでも、最上位は「九尾の狐」であるが、玉藻前は九尾の狐の化身とされている。玉藻前(=九尾の狐)は、最後は那須で殺されるが、死してなお毒石となり近づく人・動物を殺し、殺生石として恐れられた。
源翁(げんのう、1329~1400)和尚が殺生石を打ち砕いた。その際、カケラが各地に飛散して、全国に殺生石なる石がある。那須の殺生石は、要するに温泉・硫黄が出る溶岩地域の巨大溶岩である。今では観光名所になっている。なお、石を砕く大きな金づちを「ゲンノウ」と呼ぶようになった。
1150年、近衛天皇は12歳で元服、3月14日、藤原頼長の養女・多子(11歳)が皇后となる。直後の4月21日、藤原忠通と美福門院の養女・呈子(20歳)が中宮となる。呈子の実父が藤原伊通である。この入内競争からもわかるように、藤原頼長と藤原忠通の権力争いは露骨になっていった。
1152~1153年にかけて、呈子の想像妊娠騒ぎがあった。
1155年7月、近衛天皇崩御。翌月、呈子は出家。
常盤御前が、いつ中宮・呈子の雑仕女(ぞうしめ)になったのか明確ではないが、藤原忠通・美福門院の立場からすれば、近衛天皇が呈子のもとへ1回でも多く通ってほしいのである。そのためには、あらゆる努力を厭わず、呈子の周りを飾り立てる、ということであろう。その一環として、絶世の美女、常盤御前の雑仕女採用ということだろう。なお、呈子の容姿が劣っていたわけではない。『今鏡』では、呈子は容姿もけはい(人柄)も洗練されている、と書かれてある。
しかしなんですね~、平安貴族の権力闘争は、戦闘・死刑もなく、入内競争とか想像妊娠とか、まるで御伽話のようで、実に麗しいですね~。それに比べて、武士が権力闘争の表舞台に登場すると、親子・兄弟が殺し合う血、血、血である。
中宮・呈子の雑仕女に登用された常盤御前は、どうやら、すぐに、源義朝(よしとも、1123~1160)の目にとまって、側室になった。
源氏は天皇別の「源氏21流」といわれるように多種あり、そのなかのひとつが清和源氏である。清和源氏にも、摂津源氏、大和源氏、河内源氏などいくつかある。源義朝は河内源氏の棟梁の血筋であるが、河内源氏は、内紛やらなにやかやで、パッとしていなかった。
源義朝は幼少期から父・源為義(1096~1156)と不仲であった。そのため少年期に東国に移り、東国を根拠地とした。あれこれによって東国に一定程度の地盤をつくった。あれこれのなかの重要手法には、東国の豪族(三浦氏、波多野氏)の娘、あるいは遊女を次々に側室にして子をもうけるということがあった。
そして、遊女といっても、おそらく家系図はなんでもないが、地域の実力者の娘ということではなかろうか。そして、京へ復帰した。少しは注目される存在になっていた。おそらく、その頃、常盤御前を側室にしたと思われる。
(3)源義朝は保元の乱では勝ち組、平治の乱では負け組
朝廷内及び藤原摂関家の権力闘争は、複雑な過程を経て、1156年7月の保元の乱となる。武士の武力が前面に出てくる。平氏と源氏に焦点を当てれば、ともに内部分裂した。しかし、平氏のほうは平清盛を中心に多くが勝ち組であった。源氏のほうは、多くが敗け組であった。
源義朝は東国武士団を率いて参戦し、源氏では数少ない勝ち組となった。要するに、平氏の多数派は勝利側となったが、源氏の勝利側は少数であった。そんなことで、保元の乱を通じて、源義朝は源氏の事実上のトップに躍り出た。
常盤御前は、小企業社長の側室から中企業社長の側室となったのである。もっとも、大企業は平清盛である。
権力闘争は継続され、4年後の1160年、平治の乱となる。
結果は、平清盛の「平氏の時代」となった。敗れた源義朝は東国へ逃れようとした。
源義朝は東国への逃亡中、京の常盤へ使者を派遣した。常盤は源義朝との間に、3人の子をもうけていた。今若(7歳)、乙若(5歳)、牛若(生まれて数ヵ月)である。使者は「ふかき山里にも身をかくして、わが訪れをまち給え」と言う。常盤、今若、使者の涙、涙の会話がなされる。
源義朝一行は再起を図るべく東国を目指した。しかし、平氏の追撃は激しく一行はバラバラとなる。
長男の源義平(1141~1160)の母は、遊女とも三浦氏の娘とも言われている。通称、「鎌倉悪源太」と言われる猛将である。源義平は途中、父・源義朝と別れ東山道から東国を目指したが、父の死を知り、京へ戻って平清盛を暗殺しようとしたが、捕らえられて六条河原で処刑された。
次男、源朝長(1143~1160)の母は波多野氏の娘である。東国への逃亡中、平家の追撃で負傷して死亡。足手まといのため、父・源義朝が殺害したとの話もある。追手は死体から首を持ち帰り、さらし首とした。
3男、源頼朝(1147~1199)の母は、熱田神宮大宮司の娘・由良御前(?~1159)で、彼女が源義朝の正室である。頼朝は東国への逃亡中、父一行とはぐれ、平氏に捕らえられる。命は助けられ、伊豆へ流罪となった。言うまでもなく、その後、平氏を打倒した鎌倉幕府初代将軍である。
ついでに、源義朝の4男から6男について。
4男の源義門は、早世している。
5男の源希義(まれよし、1152~1180)の母は由良御前である。土佐へ流罪となった。兄・頼朝の挙兵に参陣しようとしたが、土佐を出ることなく、すぐさま平氏に殺された。
6男の源範頼(のりより、1150?~1193?)の母は遊女とされている。平治の乱では、名前が出てこない。養父の藤原範季(のりすえ、1130~1205)に密かに遠江国で保護されていたようだ。頼朝挙兵後、当初は甲斐源氏と協力して動いていたが、源氏軍勢の大幹部となり活躍する。源氏勝利に大いに貢献したが、1193年、頼朝に疑われ伊豆国修善寺に幽閉された。そこで、殺害されたようだ。
さらに、ついでに。
7男、8男、9男は、常盤御前の子である。
7男・今若は、後の阿野全成(1153~1203)である。源義朝の死後、醍醐寺で出家させられた。しかし、寺を抜け出し、異母兄の源頼朝と涙の合流。北条政子の妹・阿波局と結婚。源平合戦でどんな活躍をしたのか不明だが、鎌倉幕府の有力御家人になった。しかし、源頼朝の死後、第2代将軍は源頼家が継いだが、反頼家派(実朝派)に与し、源頼家の命令で殺害された。
8男・乙若は後の義円(1155~1181)である。園城寺で出家。源頼朝が挙兵すると、その陣営に参加。墨俣川(現在の長良川)の戦いで戦死。
9男・牛若は後の源義経(1159~1189)である。鞍馬寺へ預けられ、その後、奥州の藤原秀衡(ひでひら、1122~1187)の庇護を受ける。源頼朝の挙兵を知るや、駆け付ける。一ノ谷・屋島・壇ノ浦で平氏を滅ぼし、軍事的最高功労者となる。しかし、源頼朝と対立し、奥州の藤原秀衡の下へ逃げる。藤原秀衡死後、攻められ平泉の衣川館で自刃した。
源義朝の娘は複数いたようだが、はっきりしているのは、坊門姫(ぼうもんひめ、?~1190)だけである。母は正室・由良御前である。平治の乱で、父・義朝が討たれ、3男・頼朝、5男・希義が流罪になった後、後藤実基(義朝に仕えていた武士)が都で密かに隠し育てた。貴族・一条能保(1147~1197)の妻になった時期は、はっきりしないが、源平合戦の前、平氏全盛の時期のようだ。昔は戸籍謄本がないから、出生を隠し通せたのだろう。
それにしても、一条能保は勇気がある。一条能保は、鎌倉幕府の京都の出先機関の役を担う。そして、源氏3代後、北条執権時代、京より将軍を迎えるが、第4代将軍は坊門姫の曾孫である。
(4)雪中の逃避行
本筋に戻って。
源義朝は東国への逃亡途中、尾張で家人に裏切られ殺害された。首は京で晒された。さてさて、常盤御前の運命や、いかに……。
義朝の長男・源義平(=鎌倉悪源太)は処刑された。
次男・源朝長の首はさらされた。
3男・源頼朝は捕らえられ、死生いまだ定まらず。
常盤御前には3人の子がいる。
幼なけれども、みな男子なれば、「さてはあらじものを」(ただではすまない、殺されるだろう)など、世の人、申しあえり。
これを聞いて、常盤は、「夫に先立たれて嘆いているが、子を失っては、片時も生きていけない。幼い子を連れて、かなわぬまでも身を隠さん」と思った。母にも多くの召使にも知らせず、夜に紛れて屋敷を出た。足に任せていくほどに、清水寺へ着いた。当時、女性に人気があった寺院である。
一夜を明かし、清水寺を出て、大和大路を南へ向かう。
ころは二月十日の曙なれば、余寒、なお尽きせず、音羽川の流れも氷つつ、峯の嵐もいとはげし。道のつららもとけぬが上に、又かき曇り雪ふれば、行くべき方もみえざりき。
この雪中逃避行シーンは絵になりやすいのでしょう。常盤御前で一番多い絵ではないかしら……。
涙、涙の逃避行であります。しかし、世の人々の中には、情を持っている人がいます。
道すがら、見る者あはれみ、情をかけて、馬などにて送る者あり、徒歩なる者も見過ごさず、子供を負い抱きて、五丁十丁送る程に、思いのほか心安く、大和の宇陀の郡につきにけり。
常盤御前の逃避行は、大和国宇陀郡竜門牧(現在の奈良県宇陀市大宇陀区牧)に彼女の伯父がいたようだ。また、この地は大和源氏の根拠地でもあった。末の世まではしらず、とりあえず、かくまわれることになった。
(5)母か子か、ギリギリ命題
さて、平氏のほうは、源義朝の子供を放置しておくわけがない。六波羅から義朝邸へ兵が派遣された。すでに、常盤も3人の子もいない。縁者は、常盤の母だけがいた。常盤の母は六波羅へ連れていかれ、尋問される。母は実際に常盤と子の行方を知らない。「たとえ、知っていても言いません。60歳過ぎの老い身、どれだけ生きられるか。それに比べて、孫は10歳にもならない。露の命を惜しみて、はるかなる命を失うべきではない」と尋問に答える。
ここで「六波羅」の解説をしておきます。
元は仏教用語「六波羅蜜」です。求道者が実践すべき6つの徳目、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧(般若)をいう。951年、空也(903~972)が、現在の京都市東山区に、西光寺を創建した。その後、空也の弟子が「六波羅蜜寺」と改名した。その後も、その辺りは多くの寺院が建てられ、人気地域になった。平忠盛(1096~1153)が、この地に「六波羅館」を置いた。ここが平氏の軍事拠点となった。その子、平清盛は洛中(八条一坊)に「西八条邸」を建設して政治拠点にしたが、軍事拠点としての「六波羅館」は維持された。平治物語の「六波羅」とは、「六波羅館」もしくは、その地域をいう。
さて、大和国宇陀にいる常盤御前にも、母の捕縛・尋問の情報が届いた。
ここで、実存的大命題が発生する。
母を救うために我が子を犠牲にすべきか。それとも、我が子の生存のために母が責め殺されるのを黙認するか。
このテーマは、「命の選択」「トリアージ」「トロッコ問題」などと同類である。数年前、「ハーバード熱血教室」のマイケル・サンデル著『これから「正義」の話をしよう』も同類である。
ギリギリの土壇場、A氏とB氏の両人を救済することは不可能だ。A氏を救ってB氏を見殺しにするか。それとも、A氏を見殺しにしてB氏を救済するか。現状での結論は、「正しい解答はない。でも、真面目に考えてください。いろいろな考え方があります。考えて悩んでください」というレベルと思います。
常盤御前に話を戻して。
ギリギリ命題の彼女の解答は、「3人の子を犠牲にして自分の母を救う」というものであった。
「私が我が子を思うように、母も私を愛しています。私が原因で母が苦を受けていると聞き、どうして母を助けないでおかれようか。前世の果報が少なく、義朝の子として生まれ、父(義朝)の罪が子に連座することは、理がある。そうした理もなく、我が母が苦を受けるのは、すべて自分に罪がある」
常盤御前は、そう決断して、3人の子を連れて、京へ戻る。
まず、元の住家に寄ったが、誰もいない。次に、九条院へ参る。九条院とは、かつて常盤御前が雑仕女(ぞうしめ)として仕えた藤原呈子(ていし、1131~1176)である。常盤御前の話に、
九条女院呈子はじめ女房たち皆、涙をぞ流しける。せめてもの、立派な井出達でで六波羅へ行かせようと、「親子4人、清げに装束させ、牛・車・下部、いづれも、それ相応にいでたたせて、六波羅へこそつかはそけれ」
六波羅での取調責任者は伊勢守(藤原)景綱である。平清盛の腹心・家人である。常盤御前の泣きながらのスピーチ。「聞く人、孝行の心ざしを感じて、みなみな涙をぞ流しける」
次いで、平清盛の前でのスピーチ。「(清盛も)傍らにうち向けて、しきりに涙を流されけり。兵ども、あまた並み居たりけるに、涙にむせびてうつぶさまになり、面(おもて)を上げたる者なし」
『平治物語』では、これに次いで、常盤御前の美貌が述べられる。「常葉がとし、二十三なりき。……世のつねに越えたり」そして、冒頭に記述した、「千人の中の…」の話となる。
取り調べが終わり、常盤御前は伊勢守(藤原)景綱の宿所に滞在する。
そして、結果は、源義朝の3男・頼朝の命が助けられて、幼き7・8・9男を切ることは「さかさまなるべし」ということで、助命された。
(6)清盛の愛人となる
その後の常盤御前の運命は、『平治物語』の下巻「牛若奥州下りの事」に記述がある。
「常葉は、大弐(清盛)に思われて、女子一人まうけてけり。大弐(清盛)にすさめられて後、一条大蔵卿長成に相具して、子共あまた有けるとかや」とある。
それゆえ、3人の子を助けるため、夫(義朝)の敵に美貌の身体を委ねざるを得なかった、とする。この男女関係を強調すると、なにやら三角関係のエロ本になってしまう。常盤御前ストーリーで、最も考えなければならないのは、実存的ギリギリ命題なのだが、やっぱり、抜群の美女を頂点とするドロドロ三角関係は面白いので大流行した。
まぁ、とにかく、一時期、清盛の愛人になって、その後、一条長成の妻となった。
一条長成は、中流貴族である。源義経が奥州の藤原秀衡に庇護されたのは、一条長成の支援による。常盤御前との間に生まれた嫡男・能成(1163~1238)は、源義経の側近となり出世するが、頼朝によって解任される。しかし、その後、再び官職を得、かなり出世した。
源義経が大活躍すると、常盤御前の身辺も大変化したことであろう。しかし、義経が兄・頼朝と対立し都落ちすると、1186年6月6日、常盤御前は鎌倉側に逮捕され、義経の行方を尋問される。素直に場所を答えたようで、鎌倉側はすぐに捜査したが、立ち去った後だった。常盤御前を鎌倉へ護送するかどうか検討されたが、すぐに釈放された。ちゃんとした文献では常盤御前の記録は、ここまでである。
一条長成と常盤御前との子・一条能成は、かなり出世し長生きしたから、常盤御前の晩年は平穏だったと推測します。
常盤御前の墓やゆかりの地は、全国各地に存在する。東京に限定すれば、渋谷や青梅にも伝承の地がある。思うに、「ニセ常盤」が流行ったのではなかろうか。ミスコン女王の常盤の名は、それを名乗るだけで価値があったのだろう。
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太田哲二(おおたてつじ)
中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。