新型コロナ感染症が広がった2020年3月頃、「薬やワクチンができるには、早くても2~3年はかかるだろう」と考えていた。創薬から、前臨床、臨床試験、承認、製造という、薬ができるまでのプロセスを知っている人は、同じように考えたはずだ。


 ところが、驚くべきスピードで複数のワクチンが承認され、2020年末には米国でワクチン接種が始まった。少し遅れて日本もワクチン接種がスタート。2021年末には国民の約8割が2回接種済みとなっている。


『mRNAワクチンの衝撃』は、日本でも広く用いられたファイザー製ワクチンの開発過程を描いた一冊である。400ページを超える大部、かつやや難解なサイエンスに関する記述があるが、一気に読み通すことができた。


“ファイザー”で知られるワクチンを開発で重要な役割を果たしたのは、ドイツのバイオベンチャーのビオンテック社。メッセンジャーRNA(mRNA)をベースとした医薬品を開発しているが、新型コロナワクチンを手掛ける前はがん治療が主たる事業分野だった。


 本書は「mRNAワクチンの可能性」「緊急時における医薬品開発」など、さまざまな要素があるが、「大成功したバイオベンチャーのケーススタディ」として読んだ。


 成長するスタートアップには、強力なリーダーシップを持つトップがいる。ビオンテックでCEOを務めるトルコ系ドイツ人、ウール・シャヒンもそのひとり。


 欧州ではまだ緊張感がなかった2020年1月に、将来の感染拡大を予見。自社のmRNAワクチンの技術が新型コロナワクチンに適用できると考えて、大きくはない会社のリソースを新型コロナワクチン開発に集中する。


 多くの候補薬から4つに絞り込む開発戦略や開発スピードを上げる手腕は優れたものだが、“胆力”が発揮されるのはファイザーとの提携交渉だ。


 今回の新型コロナワクチンのように世界各地での承認プロセスがあり、大量かつ超低温のロジスティクスが必要になる薬では、世界的なネットワークを持つ大手製薬会社との提携は不可欠だった。


 こうした提携では、権利関係や義務など、各種条件をすり合わせて合意し契約を結ぶまでに通常6ヵ月程度かかる。しかし、ビオンテックとファイザーは基本合意書からわずか21日で契約に至っている。


〈大詰めの段階では、三六時間ぶっ通しで交渉した〉担当者の奮闘はもちろんだが、最終段階で交渉は行き詰った。会議に登場したウールCEOは、細かな争点に関する議論を遮り、最速で開発が進むよう〈それぞれの会社が自社の強みに集中する〉形を提案する。


 自社の権利を放棄するような内容もあって、担当者を慌てさせたが、何より〈効率的な意思決定〉を優先した。


■史上最も商業的に成功した薬へ


 日本と海外のスタートアップ企業の違い、としてしばしば語られる、技術者以外の人材の厚みについても痛感させられた。


 JPモルガンの医療関連ファイナンス部門にいた人物、マッキンゼー・アンド・カンパニーのコンサルタント……、上場間もないバイオベンチャーにもかかわらず、ビオンテックには、凄いキャリアの人材が集結していた。


 開発決定から提携戦略、製造工場の買収といった、新型コロナワクチン開発当初の企業規模からすれば、身の丈に合わないような大きな意思決定を、猛烈なスピードでできたのは、優れた技術者だけでなく、経験豊かな人材によるところも大きいだろう。


 意外だったのは、新型コロナワクチン開発における規制当局の対応だ。規制する側に対して持つ一般的なイメージは、「ミスしたくない」「融通のきかない」「前例踏襲」といった杓子定規な組織だ。


 だが、〈科学的データに裏打ちされた納得のいく主張を示しさえすれば、PEI(注:ドイツの医療規制機関)をはじめとする当局の専門家たちは「法律書」の解釈を柔軟に変えてくれる〉という。


 もちろん、審査に不備があったり重大な健康被害が出れば、規制当局も非難される。バイオベンチャーの画期的な医薬品が、迅速に医療現場に投入されるためには、規制当局の知見や経験、的確な判断が不可欠なのである。


 世界各地でワクチンの確保が政治問題化したり、「ワクチンにマイクロチップが入っている」といったデマが出回るなど、通常の医薬品開発とは異なるノイズも多かった。それでもビオンテックは着手から1年足らずでワクチンを医療現場に投入できた。


 海外では複数のワクチンが登場したにもかかわらず、残念ながら日本で“同着”といえるタイミングで投入できた製薬会社はなかった。その理由は、本書を読んでもらえばよくわかるはずだ。


 SARSやMERSといった感染症のように、薬の開発に乗り出した後で感染が収束しなかったことや、抗体依存性感染増強(ADE)のような致命的欠陥、重篤な副反応が出ていないこともあり、新型コロナワクチンは、〈史上最も商業的に成功した薬剤〉となるのは確実だろう。


 ただ、相次ぐ変異種の登場で、今も感染が収まりかけては拡大を繰り返している。新型コロナウイルス以外にも大きなポテンシャルを持つmRNAワクチンだが、ビオンテック社と新型コロナウイルスの戦いは当面続きそうである。(鎌)


<書籍データ>

mRNAワクチンの衝撃

ジョー・ミラー、エズレム・テュレジ、ウール・シャヒン著(早川書房2530円)