作家で元東京都知事の石原慎太郎氏が2月1日に亡くなった。木曜発売の新潮と文春は、前者が『追悼「石原慎太郎」が本誌に語り尽くした「我が『太陽の季節』」と「裕次郎」』、後者が『「太陽の孤独」石原慎太郎逝く』と銘打って、それぞれ2ページ、4ページの追悼記事を掲載した。締め切りギリギリのタイミングで仕方のないことなのだが、両記事とも目ぼしい内容はない。新潮は1年ほど前に行った単独インタビューのときのこと、文春は手分けして集めた「とりあえずのデータ」で簡略な評伝をつくっただけだった。
本格的な記事は各誌、来週以降に出してくるだろうが、私個人は正直、石原氏のとくに「政治家としての生涯」に共感は覚えない。大ファンと大アンチ、両極に分かれるその評価は、折々に彼が発してきた放言の「破壊力」に由来するわけだが、私が抵抗を禁じ得ないのは、個別の発言内容にもまして、彼が政治という世界を、公共の理想実現(または課題解決)より彼自身の個人的美学、痛快さを追求するステージと捉えていた節があることだ。
似たタイプとして浮かぶのは、石原氏と同い年だった前任の都知事・青島幸男氏の名だ。右と左、イデオロギー的には真逆に見えるかもしれないが、私には両人とも、他者や社会に興味を示さない自己愛の塊のような人に見えるのだ。人々は彼らを表面的な発言から右や左に色分けし、愛憎を感じていたわけだが、私には2人ともまれに見る徹底した個人主義者としか映らない。自分自身が面白おかしく痛快に生きる。その他のことは二の次三の次ではなかったかと。
石原氏の訃報が流れたあと、コメンテーターの三浦瑠璃氏はツイッターに「偉大な先輩でした」と追悼の言葉を記した。石原氏も彼女も神奈川県立湘南高校の卒業、ということでの言葉なのだろう。湘南卒の保守文化人には、石原氏と親交があった江藤淳氏もいる。ただ私自身、同じ高校の同窓生として、こうした「そっち系」のOBばかり目立つことにモヤモヤ感がある。私の知る70年代の校風はむしろ圧倒的にリベラルで、当時の生徒の間ではプロ野球ニュースのキャスターだった佐々木信也氏(49年に甲子園優勝)と石原氏という「2大著名OB」を絡めたこんな冗談が囁かれていた。
グラウンドの狭い湘南で佐々木氏が流し打ちの名手になったのは、サッカー部員だった「いけすかない石原氏」に何とか打球を当てようと、狙い続けたためだったと。佐々木氏本人が同窓会などで実際に語った弁なのかは不明だが、少なくともあの時代、2人のOBをそんなニュアンスで並べる程度には、多くの在校生は颯爽たる著名人・石原氏に「いけすかなさ」を感じていた。
今週の週刊文春では、このほかに『「なぜ私ばかり……」NY総領事に「旧知の官僚」眞子さん佳子さまの不信 秋篠宮の「転向」』という記事も目を引いた。「結婚したら私人になれる」。秋篠宮の娘2人はそう教えられ、そう願ってきたのだが、長らくその思いを支える「同志」だった父親は、いざ眞子さんの結婚話が持ち上がると、諸々の現実から自由放任の立場を変え、佳子さまの将来の結婚相手には介入も辞さない構えになったという。こうして父娘には埋めがたい心の溝ができてしまった。皇族として生きるストレスは、かくも当事者を苦しめる。皇位継承の問題や皇室制度の将来には、何よりも「人道上の困難」が大きく立ちはだかることを改めて私は認識した。
ところで、国家主義的なタカ派として知られた石原氏は、一方で天皇制については驚くほど冷たかった。その昔、三島由紀夫氏に「天皇陛下を信じると言え」と日本刀を手に迫られたが、「オレは自分以外の権威にかしずかない」とこれを拒否。都知事になってからも「君が代って歌は嫌いだ」と公言した。軍備増強やその行使には前のめりだが、天皇制には冷淡、無関心。それでも右派の多くは石原氏を敬愛した。本当は、右派にも左派にも属さないひとりの「価値紊乱者」。彼自身その昔、そんな書名で本を書いているように、彼の本質はあくまで己の感覚にのみ従い、そのことを快楽とする人だったように思われてならない。
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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。