●歪められたコロナ検査制度


 前回は、新型コロナウイルス感染症に対応するための戦略の重要性について、厚労省やWHOで感染症危機管理の任を担ってきた阿部圭史が21年8月に上梓した『感染症の国家戦略』を読んだ。戦略的重要性の必然は理解したところで、その戦略の前提となる感染実態の把握、戦争理論からいけば対敵情報の把握というところだろうが、実はその前提的戦略で、現状は国論は二分されている感がある。


 卵が先かニワトリが先かの議論に堕してしまいそうだが、実はこの2年間、主にPCR検査のあり方を巡って議論が続き、積極的な全件検査を求める意見がある一方で、政府はPCR検査の積極化には及び腰の姿勢を崩さなかった。このベクトルの違いには、医療への影響に対する考え方の落差が当然ながら反映している。PCR検査の拡充は、感染実態をより正確に表す可能性はあるが、その先の医療の需要増を招きやすい、という不安が消極派、とくに政権側には強かったとも思える。


 一方で、このパンデミックが全体を表し始めた20年3月頃には、西浦博京大教授らの感染拡大シミュレーションが脚光を浴び、メディアの大きな煽動材料になった感は否めない。現実に検査が実態に即したものであり、その動静が正確に国民に知らされていたら、過大なシミュレーションに惑わされた大きな煽りは起こらず、経済活動や、同調圧力に伴うさまざまな不愉快な社会問題は起きなかったのではないかとの見方もある。


 そしてそれから2年を経ようとするなか、市中の無症状者を対象にしたPCR無料検査が1月にスタートした。ようやく、とも言えるが、しかし、これが戦略的にどう活用されていくのかが、実はよくわからない。


 PCR検査に関する戦略批判に関してここでは、東京理科大学の山登一郎名誉教授が医療ガバナンス学会のメールマガジンで表明している見解を代表例としてみたい。


●大本営発表だけが感染実態を映すのか


 山登氏の1月17日配信のメールマガジンの投稿から、政府や報道に対する批判をみてみよう。


「彼ら(政府機関)も報道も、行政・保険適用検査陽性者数だけが全感染者数を表すとの建前で、その増減についての説明のために仕方なく、無理やりの理屈をつけているように映る。(中略)感染者のうち無症状者割合を3割と考え、有症者中心の行政・保険適用検査陽性者数と、その周囲の濃厚接触者検査による残り約3割の無症状者特定で、全感染者を日々の公表新規感染者数として把握していると説明する。


 決して市中無症状者の滞留を認めないように見受けられる。そして民間自費検査を非感染者の検査と位置づけ、陽性者は検出されないものと考えているように見受けられる。本当は市中無症状感染者として、ワクチン以前は公表新規感染者数の50~100倍、以後は1000倍程度滞留しているはずなのに。その情報を収集も公開もしないのが日本の感染症対策なのだ」


 同氏は、こうした日本の本年1月時点でも検査に対する政治の無策ぶりを概括したうえで、諸外国はすべての検査情報をオープンにしていることを明らかにし、フランスやアメリカでの検査実績に基づいた感染者数、陽性率の情報を例示している。そして、それから割り出される推定感染者数が、かなりの確率でおおよその実態を反映すると示唆する。


 正確には昨年12月26日から市中無症状者対応の無料PCR検査がスタートしているが、これについても山登氏は、情報面での課題を指摘している。


「市中検査数も、そこでの陽性者数や陽性率の情報も全く収集公開しない。市中民間自費なり無料検査陽性者には行政検査を再受診させるという複雑でややこしい検査制度にしてしまっており、結果、民間検査情報を無視、隠蔽できることになってしまっているようだ。もちろんこの制度においては、行政・保険適用検査でその日々の感染陽性者は網羅できていることにはなっている。しかし、そのうちの市中・無症状感染者数が分からず、その比率や陽性率などの市中感染状況情報が全く入手できないことになってしまっている」


 そのうえで山登氏は、日本では公表された新規感染者数しか感染者はいないと、専門家も報道も考えているらしく、市中無症状感染者はいないものとみなされているようだと述べる。報道を中心とする日本社会が、外国との違いを考えないのか、厚労省の定めた検査制度が無謬であると信じているのか、思考停止に陥っているのではないかと厳しく追及している。


●対策はお手上げ、を認めた?


 たぶん、山登氏がここでやり玉に挙げている専門家とは、政府や自治体行政のいわゆる「分科会」的なものに連なる人々、テレビに出てくるコメンテーターと称する医師などを指しているのだろうと思うが、実際にはウェブサイト上では、山登氏と同じ疑問や批判を投げかけ、主張する専門家は相当数に上る。メディアがそうした批判を報じないことで、実は批判はないことになっていると思えるが、大規模なモニタリング検査を行わない理由は、どうしても見つけることはできない。批判側の専門家が情報の独占と占有、隠蔽を疑うのも無理はないように見えるのである。


 山登氏は、1月24日に政府が打ち出した、市中無料検査陽性者は医師の診断なく新型コロナ感染と判断し、自宅療養に移ることを認めた方針転換について、「これまでの検査制度を度外視しており、この陽性者は保健所経由の感染者として確定はされず、医療処置の範囲外に置かれることになる。医療機関や保健所の負担軽減にはなる。でもそれがこれまでの厚労省や分科会のコロナ感染症対策と矛盾しないのだろうか」、「実は厚労省も分科会もついにコロナ対策がお手上げ状態であることを認めたことを意味するのではなかろうか。固執してきた感染症医療行政の一環としての検査制度を自ら放棄し、結局、国民に丸投げしていると映じる」と述べている。印象としては、筆者も同感だ。


 阿部圭史の『感染症の国家戦略』に照らしても、戦略としては稚拙に過ぎるように思えると同時に、メディアまでもが大本営発表しか信用しないという状況にはうすら寒い思いも禁じ得ない。


●怖いインフォデミック


 そのメディアは、このコロナ禍が始まってすぐの頃に、大本営発表と同時に西浦博教授(北大→京大)の発表するシミュレーションを大々的に取り上げ、煽りに煽った経緯がある。このシミュレーションは、結局、予測としては大きく外れ、そのうちメディアも報道しなくなった。メディア側は単に情報を「消費した」に過ぎないのだろうが、かつての報道ぶりへの反省も検証も、誰も行っていない。国民の間に不毛な分断や差別を生んだ最大の原因であるはずなのに、と筆者は思う。


 これについても怒りをもって活字にしている人がいる。昨年12月に『図解・医療の世界史』を刊行した医療経済学者の久繁哲徳氏だ。彼はこの本の最後に、「新型コロナウイルスのパンデミック――事実と根拠に基づく意思決定へ」を35ページにわたる付論を加え、見解を語っている。


 2020年10月現在の評価だとされているが、通底しているのは、まさしくデータに基づいた客観的で冷静な対応を求める姿勢である。世界の死亡者数101万人(筆者注:22年2月半ば時点では500万人超)は中世の黒死病に比べれば恐怖に煽られる状態ではないとして、毎年60万人は死亡するインフルエンザでは騒がないことと比して、必要以上に騒ぎ煽りたてる風潮に厳しい批判を投げ込んでいる。


 久繁氏がこのパンデミックで最も警戒し、厳しく批判するのはまさに「煽り」に対してで、数理モデルSIRを基本とした単純な感染予測を「荒唐無稽」と切り捨てている。20年3月、西浦氏を軸にした研究者のシミュレーションがメディアに大々的に報じられ、政治判断にも影響を与えたことを彼は難じる。


 いわゆる「インフォデミック」から身を守るために、必要で正確な情報の選択への呼びかけは無視するべきではないと筆者は思う。このため次回は、「インフォデミック」を主題に、久繁氏の活字を追って、このシリーズの一応の締めくくりを予定したい。(幸)