『医薬経済』本誌の2月15日号では、2018年6月に石岡市、小美玉市、かすみがうら市の3市が合同で行った「石岡地域市民医療懇談会」(第1回)の様子を振り返りました。この懇談会を契機に「石岡地域医療計画」がつくられ、石岡市は公立病院の設立を目指していくことになります。


 懇談会を開催するために、市では事前に2018年度の総合計画の見直しに着手し、運営費用についても議会の承認を受けて、一般会計に計上されました。また、懇談会のメンバーは、3市の医療を提供している石岡市医師会、歯科医師会、薬剤師会の各会長、土浦保健所長。そして、3市の首長、市議会議長、市民代表が2名ずつという構成で、さまざまな立場から広く意見を聞く場となっていました。


 石岡市の公立病院設立計画は、執行部が強引に進めたという印象をもっている人もいるようですが、経緯をたどると、行政上の手続きを踏んだうえで、公正なメンバーによる合議によって計画が進められていたことが分かります。


 第1回の懇談会では、現場の声を聞くことで、地域医療の現状についての情報を共有し、課題の整理が行われました。


 当初、地域医療に対する市民の認識は、暮らしている地域ごとに温度差がありました。深刻な医師不足に直面している石岡市の八郷地区の住民からは強い不安が訴えられたものの、土浦市の大病院にアクセスしやすい立地にあるかすみがうら市の住民は、地域医療が危機に瀕しているという認識は持っていませんでした。


 でも、石岡地域の医療の提供体制の困窮状態は、明確な数字になって表れています。人口10万人あたりの医師数を比較すると、石岡市が属している土浦二次医療圏は223.2人で、茨城県平均の197.5人を上回っています。ところが、石岡市は123.2人、かすみがうら市は46.2人、小美玉市は68.5人しかいません(2018年「茨城県医師・歯科医師・薬剤師統計の概況」より)。


 こうした客観的なデータが示され、現場の医師から地域医療の実情が訴えられたことで、市民の認識は一変し、地域医療の課題解決に向けた動きが加速したのです。


 近年の医療制度改革のもととなっている2013年8月の「社会保障制度改革国民会議」の報告書でも、これからの日本の医療提供体制の構築には、「データの可視化を通じた客観的データに基づく政策」「データによる制御機構をもって医療ニーズと提供体制のマッチングを図るシステムの確立」が必要であることが指摘されています。


 社会は、さまざまな考えを持つ人の集合です。なかでも医療分野は、「医療の充実」という同じ目標に向かっていても、診療側、支払い側、患者など、利害が相反する人々が集まる場なので、つねに話し合いは紛糾します。多くの人が納得感をもって合意形成をしていくためには、人口推計や医師数、病床数などの統計を用いた客観的な分析は重要で、政策作りに欠かせないものになっています。


 その統計の元祖ともいえる貴重な歴史的資料が、常磐自動車道の建設に伴う発掘調査で、1979年(昭和54年)に石岡市から出土しています。


 常磐自動車道は、東京から千葉、茨城、福島の各県を経由し、宮城県までをつなぐ高速道路で、石岡市の「鹿の子」という地区を通っています。この道路をつくる過程で、広範囲にわたって古代の遺跡が発見され、地名をとって「鹿の子遺跡」と名付けられました。


 鹿の子遺跡からは、古代の一般的な住居である竪穴住居跡のほか、大規模な鍛冶工房跡や掘立柱建物跡、連房式竪穴遺構跡、それらを取り囲む溝などが見つかりました。どうやら、鹿の子遺跡は、一般的な住居跡ではなく、計画的につくられた特殊な構造をなす集落だったようです。


常陸国風土記の丘に復元された鹿の子遺跡の鍛冶工房 撮影:筆者 


 本コラムの第2回で、石岡市は奈良・平安時代に常陸国の国府があった町だったことを紹介しました。鹿の子遺跡は、この国衙跡から1.5㎞ほどの場所に位置しています。そして、当時、常陸国は蝦夷討征の最前線地域でもありました。こうした状況から、鹿の子遺跡は、蝦夷討征のための武器をつくったり、修理したりするための、常陸国衙に付属する官営工房だったことが明らかになったのです。


 それを裏付けるものとして、釘や小札などの鉄製品、責金具などの武器や武具、武器づくりに必要な砥石、鍛冶に使う鞴羽口などが多数出土しました。そして、同時に見つかったのが、「漆紙文書(うるしがみもんじょ)」です。


鹿の子遺跡(石岡市)から出土した「漆紙文書」のレプリカ 撮影:筆者 


 奈良・平安時代、貴重品だった紙は、写経や公文書の作成に使用したあとも、すぐには廃棄されず、官営工房などに反故紙として払い下げられていたようです。いうなればリサイクルで、その使い道のひとつが漆を入れた容器の落し蓋です。甕や壺など入れられた漆の上に、この反故紙をかぶせて落し蓋とすることで、漆の蒸発を防いだのです。通常、土に埋まった紙は、長い年月がたつと腐ってしまいますが、漆液が染み込んで紙が硬化したことで、腐食を防いで現代まで残ったというわけです。これが、漆紙文書と呼ばれるもので、当時の暮らしや政治を知る貴重な手掛かりとなっています。


 漆紙文書は、平城宮跡、他国の国衙跡などからも発掘されており、石岡市が初めての出土ではありません。ただし、鹿の子遺跡の漆紙文書の特徴は、その数の多さにあります。他の遺跡とは比べものにならないほど大量に出土し、最終的には289点(約2000文字)も見つかったのです。出土状態もよく、なかには直径30㎝ほどの円形で出土したものもありました。これは、当時の公文書が丸かったわけではなく、前述のように落し蓋として二次利用されたため、漆の染み込んだ部分だけが残ったからです。


 とはいえ、1000年前のものなので、肉眼では何が書いてあるかはわかりませんでした。そこで、赤外線をあててみたところ、たくさんの文字が浮かびあがってきたのです。


 発見された文書は、田んぼの場所や耕作者が記載された「田籍関係文書」、吉兆などが記載されている古代のカレンダーである「具注歴」、戦に出かける兵士が個人で負担する装備が記された「兵士関係帳簿」、班田収授の基本台帳である「戸籍」、課税のための「計帳」など多岐に渡っていました。当時の暮らしや人口などを知るうえで、貴重な歴史的資料が大量に出土したため、鹿の子遺跡は「地下の正倉院」とも呼ばれているのです。


 こうした漆紙文書を分析した結果、当時、常陸国(現在の茨城県)には、約22万~24万人の人が暮らしていることが推定されました。日本全体の人口は540万~590万人と推計されているので、畿内七道の68国のなかでも、常陸国は人口の多い地域に分類されそうです。


 当時の風習を描いた『常陸国風土記』には、「墾発きたる処、山海の利ありて、人々自得に、家々足饒へり(開墾された土地と山海の幸とに恵まれて、人々は心安らかで満ち足りていて、家々は富裕でにぎわっている)」と記されており、人々が豊かに暮らしている様子が描かれています。鹿の子遺跡から見つかった漆紙文書を分析すると、こうした風土記の記述は、たんなるおとぎ話ではなく、当時の実情を表していたと言えるのかもしれません。


参考資料:

「茨城県教育財団文化財調査報告第20集 常磐自動車道関係埋蔵文化財発掘調査報告書5 鹿の子C遺跡漆紙文書」(財団法人茨城県教育財団)

「常府 石岡の歴史―ひたちのみやこ1300年の物語―」(石岡市教育委員会)

「常陸国風土記 全訳注 秋本吉徳」(講談社学術文庫)