ロシア軍がついにウクライナに侵攻した。冷戦終結後、もはや対テロの軍事行動や局地戦レベルの紛争しか起こらないと思われていた「油断」のなか、目を疑うような古典的な侵略戦争が再現されている。米軍もNATOも核戦争への発展を恐れて手を出せず、小国ウクライナは一方的に蹂躙されるまま。世界中がひとつの経済圏になり、人やモノ、情報の交流が格段に密になったこの時代に、ナチスの電撃作戦さながらの戦争が始まってしまったのだ。強権的軍事大国のリーダーには、歴史的暴挙と指弾されることを微塵も恐れない強硬派が未だにいることを思い知らされる。


 半世紀ほど前を振り返ると、経済的・技術的に世界が小さくなるにつれ、民主的価値観が広がるものと想像されていたが、現実は違った。何より想定外だったのは、必ずしも「政治的自由」を求めない民衆が、世界規模で見るとかなりの割合でいたことだ。私たちの日本も先の大戦以後、欧米の国々と「価値観を共有する国」になったと標榜しているが、現実にはアジア的、集団主義的な価値観もまだ引きずり、両者の中間的ポジションにいるように思う。


 ここ何日かの報道を見て少し意外だったのは、ロシアで一部著名人が反戦の意思を示したり、監視の目をかいくぐり反戦デモをする動きがあったりすることだ。中国ほど徹底したネット規制、情報統制は存在しないのか。だとすれば、プーチンとしては少々手抜かりであったと言えるかもしれない。あるいは、ソ連時代から見れば「それなりの民主化」がこの国でも進んだと理解すべきなのか。


 ベトナム戦争をはじめとして、かつての週刊誌は大きな戦争では、それなりの戦争報道をしてきたものだったが、今はもう、文春くらいにしか戦場に記者を派遣できる雑誌媒体はないだろう。あとは取材費を自分で工面する一匹狼のフリーランサーが、今後どれだけ各誌に取材成果を持ち込むか、来週以降の各誌を注意深く見てゆきたい。


 今週出た号では唯一ニューズウィーク日本版だけが、『緊迫ウクライナ 米ロ危険水域』という特集タイトルをつけ、さまざまな国の筆者からルポや論考を集めている。発売日が22日の火曜日だったことを考えると、ロシア軍が侵攻する前の記事ばかりだが、どの記事もかなり踏み込んで書かれていて、タイムラグは気にならない。米フォーリン・ポリシー誌記者による『軍事侵攻で恐怖の反ロシア派狩りが始まる?』や、インド人学者による『警戒すべきはロシアではなく中国だ』、イスラエル元外相の『「ウクライナ奪還」プーチンの本気度』といった短い記事のほか、特集本体の『ウクライナに迫るロシア人の心理と論理』『米ロ衝突の危機が核戦争の危機へ』といった長文レポートも掲載され、かなりの読み応えがある。


 個人的にとくに興味深く感じたのは、上記『ロシア人の心理』の記事。多くのロシア人が開戦目前の状態でも実際の侵攻には懐疑的で、そんな感覚になる理由として、両国間にある「家族同然」の近しい感情やウクライナ軍への「強兵イメージ」のリスペクト(第2次大戦中、ナチスドイツ相手に奮戦した歴史的記憶による印象)を挙げるという。それでもプーチンは、米軍によるアフガン撤退時の混乱や「AUGUS」(米英豪のインド太平洋防衛協力関係)締結時のNATOとの摩擦など、米バイデン政権の昨年来の軍事的不手際を見て、今こそが好機、と判断したらしい。


 記事終盤では、この戦争によって海外の包囲網が築かれるなか、中国からの協力に頼らざるを得ない状況になることで、大国ロシアが「中国の子分」に成り下がってしまうのではないか、という不安の声があることにも触れられている。もしかしたら、世界史の転換点になるのかもしれないこの戦争の行方を、私たちは真剣に見つめる必要がある。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。