(1)労働文学、童話、仏教書


 宮嶋資夫(すけお、1886~1951)の名前を知る人は極めて少数と思う。私も、連想ゲーム的に、「宮嶋資夫」→「プロレタリア文学者」程度の知識しかなかった。そのため、ウィキペディアで「プロレタリア文学」を検索した。そしたら、プロレタリア作家の名前の中に、「宮嶋資夫」はなかった。変だな~、私の記憶違いかな~、と思い、調べていたら、文学史の分類上、「プロレタリア文学」ではなく、「プレ(前)プロレタリア文学」あるいは「大正労働文学」ということになっていた。


 宮嶋資夫の代表的小説である『抗夫』『恨みなき殺人』を読んでみたが、内容的には、どう考えてみても「プロレタリア文学」と思うのだが、どうやら、書かれた時期が、『抗夫』『恨みなき殺人』は1910年代であるためらしい。プロレタリア文学は1920~1930年代のものを言うらしい。プロレタリア文学の中心的役割を担ったのは、1924年(大正13年)に創刊された雑誌『文芸戦線』であるが、その頃の宮嶋資夫は、童話作家としても活躍するようになった。


 となると、宮嶋資夫が書いた1910年代に書いたものは「プレ(前)プロレタリア文学」で1920年代に書いたものは「プロレタリア文学」ということになってしまう。面倒なので、宮嶋資夫は「労働文学」と表現する。


 若干、プロレタリア文学の動向に関して。


『文芸戦線』を軸に、プロレタリア作家が勃興したのであるが、無産政党の分裂・対立と似たような事態がプロレタリア文学の作家たちにも発生した。1927年(昭和2年)に「労農芸術家連盟」(労芸)「日本プロレタリア芸術連盟」(プロ芸)「前衛芸術家同盟」(前芸)の3団体に分立したり、「プロ芸」と「前芸」が合同して「全日本無産者芸術連盟(NAPF=ナップ)を結成したりした。


「ナップ」は『戦旗』を機関紙にし、小林多喜二(1903~1933)が『蟹工船』を発表し、また徳永直(1899~1958)が『太陽のない街』を発表し、脚光を浴びた。周知の事実だが、小林多喜二は、築地署で拷問死した。『蟹工船』も『太陽のない街』も、戦後、映画となった。1933年(昭和8年)の小林多喜二の拷問死事件に明らかなように、治安維持法、特別高等警察の弾圧によって、1932~1933年頃にはプロレタリア文学は衰退し、発表すらできない状態となっていった。


 さて、宮嶋資夫は、『抗夫』『恨みなき殺人』以来、執筆活動に励んでいたが、1930年(昭和5年)、突然、京都嵯峨野の臨済宗(禅宗)天龍寺派本山天龍寺に入門した。そして、書く内容がガラリと一変し、仏教系著作となる。『禅に生きる』はベストセラーになった。


 作家としての宮嶋資夫を眺めると、「労働文学」→「労働文学と童話」→「仏教書」と変遷したことになる。


(2)27歳まではデタラメ人生


 悲惨な人生である。貧乏な没落士族に生まれ、小学校を転々と転校し、砂糖問屋に丁稚奉公に出される。これだけなら、一般的な貧乏家庭であるが、父親がとんでもない暴君であった。父親だけが大きな息を呼吸し、笑ったり怒鳴ったりし、母親も姉も小さく縮まって息をしていた。「折檻」という虐待は、酷いもので、木に縛られ放置されこともあった。殴られて失神することもあった。そうした環境が、精神の良好な発展にいいわけがない。「反発心」だけは巨大化するが、愛を土台にした人間関係はまるでダメ、という人間に育っていく。


 砂糖問屋の丁稚から始まって、転々と職を変える「迷宮のような流浪の生活」となる。


 1900年(明治33年)15歳から、1912年(明治45年・大正元年)27歳の略歴は次のとおり。


「羅紗屋」「三越呉服店」「三越時代、仕事をさぼって幸田露伴、尾崎紅葉の小説を読む」「露伴に弟子入りを申し込むが断られる」「簿記学校に1ヵ月」「歯科医富安の書生」「メリヤス工場」「絵葉書・絵草紙の彩色」「14歳の少女に恋をしてノイローゼの自殺願望」「羊牧場」「砲兵工廠の人夫」「雑誌の広告取り」「米相場に手を出し失敗」「兜町の大里の手代」「兜町の加東」「女性問題で兜町に居られなくなる」「大阪の鬼権(高利貸)の手代」「東京に戻って牛乳配達」「牛乳店を始めたが失敗」「茨城県の高取タングステン鉱山の事務員」「兜町で3ヵ月働く」「心中事件で女性だけが死ぬ」「土工」「ボイラー人夫」「下宿の家の母娘と乱倫関係となり、その家の主人に訴えられ拘置所で1ヵ月」「材木屋の人夫」「折箱屋の作業」「魚河岸の人夫」「魚の行商」


 まぁ、「貧困餓死」と隣り合わせの「滅茶苦茶人生」である。そうであっても、小説に限らず各種の本を乱読していた。


(3)アナキズムに生きがいを見出す


 そして、1914年(大正3年)、29歳のとき、露天の古本屋で思想雑誌『近代思想』を見ると、そこに大杉栄と荒畑寒村の名前を見つけた。1910年(明治43年)の幸徳事件(大逆事件)以後、アナキズム・社会主義は「冬の時代」となった。アナキズム・社会主義者の拠点が大杉栄(1885~1923)と荒畑寒村(1887~1981)が発行した『近代思想』である。幸徳事件のときは、大杉栄と荒畑寒村は別の事件で拘留中だったので難を逃れて健在だった。宮嶋資夫は、「雑誌の広告取り」をしていた頃から、社会主義に関心を持っていた。広告取りをしていた雑誌の関係者に、社会主義者が多くいて、自分の「反発心」と似ていると感じたのかも知れない。


 宮嶋資夫は『近代思想』によって、大杉栄と荒畑寒村たちの「サンディカリズム研究会」を知り、参加するようになった。サンディカリズムは、いわば「労働組合至上主義」で、資本家が経済運営をするのではなく、労働組合の連合が経済を運営するという思想である。


 ゼネストで革命を成功させ、その後の方向は2つに分かれる。ひとつは、資本家だけでなく国家も廃止して、労働組合の連合体が政治・経済を行うという、アナキズム(無政府主義)と結合した「アナルコサンディカリズム」である。スペインで大いに流行る。もうひとつは、革命成功後、国家機関に労働組合代表者が参加して政治経済を行うという、国家主義と結合した「国家サンディカリズム」である。イタリアで大いに流行る。


 大杉栄と荒畑寒村らは「アナルコサンディカリズム」である。ただし、日本では、略して、「アナキズム(無政府主義)」と呼ぶことが多い。


 宮嶋資夫の幼少時期に形成された「反発心」は、アナキズムに不可欠な「現社会への憎悪と反逆」に結合した。宮嶋資夫は、生まれて初めて「生きがい」を見出したのである。


 1914年(大正3年)は、宮嶋資夫にとって、画期的な年となった。


➀アナキズムと出会い「生きがい」を見出した。そして、アナキズム普及に駆け回るようになった。


②『坑夫』の未定稿原稿を窪田空穂(うつぼ、1877~1967)に読んでもらう。窪田空穂は、歌人、国文学者として名をなしたが、1914年に文芸総合雑誌「国民文学」を創刊した直後である。窪田空穂は長編小説にすることを勧めた。それは、小説家への夢実現の決定的自信となった。この年「都新聞」(現・東京新聞)の通信員となり、いくつかの原稿を書いた。なお、「国民文学」は、数号にして短歌雑誌の色彩を濃くしていった。


③万朝報社発行の「婦人評論」記者八木麗子(ウラ子)と結婚する。宮嶋資夫はサンディカリズム研究会参加の数ヵ月前、「哲学の会」という会に加入していて、そこで知り合ったのだ。宮嶋資夫の中心的精神は「反発心」であるが、そこに「まっとうな愛」が付加されたのであった。なお、彼女は、当時では珍しい「自立した女性」であったようだ。


(4)アナキスト・労働文学作家


 1916年(大正5年)、処女作『坑夫』が刊行された。荒畑寒村らアナキストや社会主義者から高い評価を受けた。宮嶋資夫にとっては「流行作家への道」の自信となった。しかし、直後に発禁処分となる。


 ただ、私には、このときの発禁処分の中身がよくわからない。というのは、発禁処分でも『坑夫』はかなり流布されたし、2~3年後には、メインタイトルは「恨みなき殺人」であるが、なかは『坑夫』と『恨みなき殺人』の2小説という本が別会社から出版されている。推測ですが、宮嶋資夫はまだアナキストとしては新参者であるから、官憲側からの警告、といった意味合いで、厳格なる発禁処分ではなかったのだろう。


 ともかくも、一歩一歩、流行作家への道を歩み出した。同時に、アナキストとしてアナキズム普及にも熱心に活動した。宮嶋夫婦は、アナキスト仲間から重要人材と認識されるようになった。


 そんなとき、1916年(大正5年)、神奈川県三浦郡葉山で「日陰茶屋事件」が発生した。これは、馬鹿馬鹿しいほど野次馬が大喜びする事件であった。大杉栄は3人の女性(妻の堀保子、伊藤野枝、神近市子)との四角関係で、「各自の経済的自立、各自別居、各自のフリーラブ」を約束した。しかし、大杉栄と伊藤野枝の2人は無収入となり、別居できず同棲となった。神近市子が金を貸すようになった。あれこれあって、大杉栄と伊藤野枝の密会現場の日陰茶屋に神近市子が乗り込んで、2人を殺害しようとしたが、2人を傷つけるだけに終わった。神近市子は懲役2年の実刑判決となった。神近市子は戦後、国会議員として活躍した。大杉栄のデタラメな金銭感覚、性関係は、世間からもアナキストの仲間からも批判された。


 まったくの余談であるが、私が住む東京・杉並区のJR荻窪駅に駅ビル・荻窪ルミネがあり、そのなかに和菓子店の日陰茶屋(支店)がある。誰も、日陰茶屋事件のことを知らなかった。100年前の痴情事件は忘却されるのみか……。


 本筋に戻って。


 宮嶋資夫も、日陰茶屋事件を契機に大杉栄と疎遠になった。妻・麗子(ウラ子)との「まっとうな愛」からすれば、大杉栄の性関係は容認できるものではなかった。ただ、宮嶋資夫の「まっとうな愛」については、私にはよくわからない。宮嶋自身も「まっとうな愛」の姿がわからないままであったに違いない。そのためであろう、宮嶋は昔の相場師仲間に誘われて相場に手を出し、儲けた金で放蕩生活を過ごすという情けなさ。


 1919年(大正8年)暮れから1920年(大正9年)にかけて、妻子とともに比叡山生活を送る。大杉栄事件から、「まっとうな愛」とは何か、アナキズムに生きがいを感じていたが、なぜか、全面的に飛び込めない、人が生きる意味とは何か……、大疑団が湧いてきたのだろう。


 宮嶋資夫は、その大疑団の答えがわからなかった。ただ、「文章を書く」ことに、生きがいを見出した。書いた文章は大半が労働文学である。アナキズム普及活動も再開したので、基本的には「もとに戻った」ということであるが、「書く量」が大幅アップした。同時代の人気流行作家よりも、多いのである。作風は、自身の体験をベースにしたものである。


(5)童話作家


 労働文学作家宮嶋資夫と動揺作家(作詞家)野口雨情(1882~1945)とが、いつどこで親しくなったのか不明だが、その縁で童話を書くようになった。別段、労働文学を捨てたわけではない。労働文学に加えて、1921年(大正10年)頃から、続々と童話を書き始めた。なぜ、童話を書くようになったのだろうか。大正デモクラシーの影響で良質な児童文学の必要性が認識された。②自分の子どもが6人。③童話の原稿料は生活のため必要、④童話を書いていると楽しい……そんなことだろう。


 しかし、童話を書いていたためか、心境変化が起きてきたようだ。1920年代初め、アナキスト・社会主義者の間で「アナ・ボル論争」が発生した。「アナルコサンディカリズム」(アナ派、無政府労働組合至上主義)と「ボルシェビズム」(ボル派、レーニン主義)の論争激化である。宮嶋資夫にとって、理屈っぽい無益な論争に思えてきたのである。宮嶋資夫が抱え始めた大疑団、「まっとうな愛」とは何か、人が生きるとは何か……それと「アナ・ボル論争」は無縁と感じていたのだろう。


(6)禅から浄土真宗へ


 大疑団が巨大化し、1930年(昭和5年)5月、45歳の宮嶋資夫は、作家の仕事を放棄し、妻と6人の子供を東京に残して、京都嵯峨野の臨済宗天龍寺派本山天龍寺に入門する。理由は「まともなる生をもとめて」である。作家としての行き詰まりもあったかもしれない。10月には、正式に出家する。


 27歳までは、滅茶苦茶な生き方。


 29歳のとき、アナキズムに生きがいをみた。同時に、「まっとうな愛」を知った。


 45歳にして、生きがい喪失。行き詰まり、苦悩、絶望ゆえ、頭の中に死がよぎる。直観的・本能的に禅の中に光明があると感じたのだろう。それにしても、妻の宮嶋麗子は大したものだ。夫の苦悩を理解して、送り出したのである。


 ここで私の独断。社会をよくするための原動力のことである。ひとつは、「憎悪・反逆心」をベースに社会変革、もうひとつは、「まっとうな愛」をベースに社会変革、である。宮嶋資夫は、その矛盾のドツボにハマったのだと思う。


 宮嶋資夫は、入門・出家以前から、道元の『正法眼蔵』などの各種宗教書を熟読していた。したがって、かなり禅、宗教の知識を蓄積していたに違いない。その知識と妻子の生活費仕送りのため、「禅」の初心者ながら、次々と「禅」の本を著す。


 1930年(昭和5年)5月に入門、10月に出家。その年の12月に『仏門に入りて』。

 1932年(昭和7年)11月に『禅に生くる』。

 1933年(昭和8年)11月に『続編 禅に生くる』。

 1934年(昭和9年)2月に『雲水は語る』。

 1935年(昭和10年)3月に『華厳経』。


 おそらく、禅を少々かじった人は、「只管打坐」(しかんたざ)という言葉を知っている。もっぱら座禅をする、ひたすら座禅をする、という意味である。だから、数年しか座禅をしていないのに、よくもまぁ、禅の本を書くものだ、と内心呆れる。


 あっさり言えば、禅の初心者が禅について、あれこれ書いたわけである。禅の本としては「二流」であるが、考えてみると、禅の本に興味を持つ者は、なんらかの人生の壁にぶち当たった人で、まだ禅をしていない人である。初心者は初心者の気持がよくわかる。数学の大先生が高等数学を中学生に話しても、中学生にはさっぱりわからない。高等数学を理解していない高校受験直後の人が中学数学を教えたほうが、中学生には納得できる。たぶんそんなことで、『禅に生くる』は、大ベストセラーになった。


 宮嶋資夫は必死に禅をしているつもりでも、「禅をしながら、禅をネタに流行作家をしていた」のであった。


 したがって、「悟り」は得られなかった。


 1937年(昭和12年)、妻の麗子が死去。そして、「酒」と「若い女性との恋愛」に溺れるのであった。


 大戦に突入すると、石川達三や水上勉は「戦争の悪」を書いたが、宮嶋資夫は、「大東亜共栄圏のため死ね」と書く有り様であった。


 宮嶋資夫の「自力救済」は失敗した。


 戦争中の栄養失調、敗戦、原子爆弾の存在、永年のアル中、胃潰瘍……「自力救済」は不可能、宮嶋資夫は、次第に、「他力救済」の浄土真宗へ「宗旨替え」していった。そして、どうやら死の2~3年前に「悟り」を得たようだ。


 1951年(昭和26年)66歳で死去、南無阿弥陀仏。


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太田哲二(おおたてつじ

中央大学法学部・大学院卒。杉並区議会議員を8期務める傍ら著述業をこなす。お金と福祉の勉強会代表。「世帯分離」で家計を守る(中央経済社)など著書多数。