2024年度上期に北里柴三郎の肖像を使った新1000円札が登場する。新札発行に向けて徐々に注目度が高まりそうだが、医師で人気作家の海堂尊氏による『北里柴三郎』が刊行されたので手に取った。


 著者は2月に、小説『奏鳴曲 北里と鷗外』を上梓している。膨大な資料を読み込んだのだろう。若者向けのちくまプリマー新書ながら、成功や功績だけではなく、失敗など負の側面まで扱った、情報量の多い1冊だ。


 なお、医師としては脚気の細菌説にこだわったとして、医師としては批判されることも多い森鴎外(森林太郎)についても、近く刊行される模様だ。


 北里で評価されるのはまず、研究者としての業績だ。19世紀末、留学した北里が師事したのは細菌学の巨匠、ロベルト・コッホ。〈第5章 コッホ四天王としての快進撃〉には、朝から晩まで実験に没頭した北里の姿が描かれている。


 コッホの研究所では、世界初の破傷風菌の純粋培養に成功する。実験で嫌気環境を作る際に、大音響の爆発を何度も起こしたことで、「ドンネル」(雷)というあだ名がついたという。


 続いて、世界で初めて血清療法に関する論文を発表する。1901年、なぜか共同執筆者のベーリングだけが第1回ノーベル生理学・医学賞を受賞するが、〈後の血清療法の基礎となり免疫学の出発点となる、記念碑的な論文となった〉。


 留学後半の精力的な論文執筆には驚かされるばかりである。


 後半は、私立の伝染病研究所の設立から国営化と辞任、済生会の創設、北里研究所の設立、慶応義塾大学医学科長就任、日本医師会の設立……と、〈医療を司る政治家、即ち「医政家」〉としての北里が描かれている(研究者としての色は徐々に薄くなる)。


 東大閥(官学派)vs.北里一派(非官学派)の対立は、日本の医学の歴史をかじった人には、よく知られるところだが、第6~7章を読めば経緯がよくわかる。


 相手方を批判したり、双方のプライドがぶつかりあったり、“伝研騒動”をはじめ策謀的な攻防が繰り広げられる場面も多い。


 ただ、バチバチやりあいながらも、巷間に伝わるほど、まったく相容れない関係ではない印象も受けた。日本の医学や公衆衛生を発展させようという部分は、共通していたのではないだろうか。


 北里は、東大医学部時代の師である緒方正規教授の脚気菌研究を批判して(実際に誤りだった)、東大閥や森鴎外との衝突が始まっていった。


 だが後年、緒方教授の在職25周年祝賀会で、北里は祝賀会準備委員会の座長を務め、門弟総代で祝辞を述べている。〈学術上では争う場面も多かったが心情的には和していた〉という。学問やビジネス上の論争と私情を混同しがちな日本人には珍しい、健全な関係だ。


 東大医科大学長の青山胤道も個人的には悪い関係ではなかったという。


■変幻出没機略縦横測り可からざる人物


 盟友・金杉英五郎(医師。東京慈恵会医科大学初代学長、衆議院議員ほか)は北里を〈其の変幻出没機略縦横測り可からざるものがあった〉と評している。非常にわかりにくい人物であったようだ(個人的には、いわゆる“肥後もっこす”の行動様式によくあてはまる印象を受けた)。


 一方で、度量は大きかったようで、志賀潔(赤痢菌を発見)、秦佐八郎(梅毒の治療薬サルバルサンを開発)といった俊英が北里のもとに集まり、海外留学させ、その才能を開花させた。優秀な部下に嫉妬しないというのは、組織を強くするリーダーの条件だろう。


 伝研騒動で北里が辞任する際、所員がついてきたのも、人間的な魅力の成せるところ。ドンネルを落とすだけの人物には、人はついてこない。


 冒頭に記したように、北里は結核のツベルクリン療法(師匠のコッホ直伝)をはじめ、後日、効果がないと判明する治療を実施するなど失敗も重ねている。ただ、著者が言うように〈医学は、誤解と誤謬を是正しながら築き上げられていくもの〉である。日本の医学への貢献は失敗をはるかに上回る。


 明治から大正にかけての日本の医学の揺籃期に、どんな議論が行われ医療の仕組みが作られていったのか? 本書には、ほかにも後藤新平、高木兼寛、長井長義、長与専斎……といった現代も知られる医療界の巨人、福沢諭吉や森村市左衛門といった異分野の大物がキーパーソンとして登場する。彼らが物語のなかで動き出す『奏鳴曲 北里と鷗外』も読みたくなってしまった。(鎌)


<書籍データ>

北里柴三郎

海堂尊著(ちくまプリマー新書1012円)