昭和20年代の世相を掘り下げる雑誌企画のため、80代後半から90代の高齢者に話を聞く仕事を昨夏から重ねている。彼らの回顧談を聞き、また当時の資料を見て気づくのは、あの時代、「民主主義」という言葉が会話でも文章でも驚くほど頻繁に使われていたことだ。ヤクザと癒着した自治体での抗議運動や選挙違反を告発した少女への「村八分事件」など、新聞を賑わした騒動を詳しく見てゆくと、当時の青年層は今では考えられないほど、新時代を築く使命感を持ち「正義」を熱っぽく語っている。


 いつの日かプーチンの圧政が打ち倒され、ロシアの政治体制が根底から変わったら、その直後には似たような空気感があの国にも生まれるのかもしれない。ウクライナ危機の報道を日々見ながら、70数年前の日本と対比して、ふとそんなことを夢想したりもする。


 今回、日本国内の論議で少し気になるのは、手放しで「愛国心」を賛美する声が目立つことだ。もちろん、ウクライナ人の不屈の精神に感銘を受けてのことだろうが、ロシア兵の戦いも、ロシア国民多数派の自国盲信も、彼ら流の「愛国心」に支えられている。問題は愛国心の強弱でなくその内実、普遍性のある「正義」との兼ね合いだ。77年前の敗戦で一度は得たはずの教訓を、私たちはもう一度思い出すべきだろう。


 週刊誌報道を見ていると、日本人のフリー記者も少しずつウクライナに入っていて、今週は週刊新潮、週刊文春のグラビアに日本人が撮影したキエフの惨状が掲載されている。ただ正直、ネットやテレビで日々、現地情報が入ってくる状況下では、どちらのグラビアにも新味はない。「無謀な取材」は禁物だし、彼らが得る報酬の乏しさも理解しているが、それにしても銃弾飛び交う郊外で這うように取材をするBBCなどのレポートに比べると、その内容は見劣りしてしまう。


 戦場カメラマンは実に因果な仕事である。その評価は撮った写真で決定づけられる。銃後に留まれば銃後の写真しか撮れないのだ。そのために、あのロバート・キャパも沢田教一も一ノ瀬泰造も、結局は戦地で落命した。今回のウクライナでも、すでに何人もの外国人記者が殺害されてしまった。


 つまりこの、どこまで危険な地に身を置くか、という問題は、個々人のギリギリの判断になるわけで、第三者に口を挟む余地はない。それでも敢えて個人的な思いを綴ると、命を懸け、「さらなる前進」で無理をするくらいなら、「その手前」でむしろ人々との深い対話を心がけてほしい。仮に写真でのスクープはとれなくても、文章の力で現地ならではの情報や感覚を伝えてほしいのだ。


 文春のグラビアには「不詳・宮島」として知られる宮島茂樹氏の写真と文が載っている。個人的な印象では、氏の「モノの見方」には時折、違和感を覚えてきた。とくに翁長知事時代の沖縄では、何回か取材先でその姿を見かけたが、写真の良し悪しとは別に、添えられた文章に実情とは異なる決めつけが時に見つかった。せっかくそこまで足を延ばしたなら、いくらでも周囲の人と話し込めるのに、シャッターだけ押して偏見塗れの文を書いてしまっていた。軽妙で魅力的な文体を持つだけに、その点は気になった。今後しばらくはキエフからのレポートを続けるだろうから、今度はぜひペンでも現地でしか知り得ない深い実情報告を期待したい。


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三山喬(みやまたかし) 1961年、神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒業。98年まで13年間、朝日新聞記者として東京本社学芸部、社会部などに在籍。ドミニカ移民の訴訟問題を取材したことを機に移民や日系人に興味を持ち、退社してペルーのリマに移住。南米在住のフリージャーナリストとして活躍した。07年に帰国後はテーマを広げて取材・執筆活動を続け、各紙誌に記事を発表している。著書は『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町・フクシマ爆心地の「こころの声」を追って』(ともに東海教育研究所刊)など。最新刊に沖縄県民の潜在意識を探った『国権と島と涙』(朝日新聞出版)がある。