●実質的な受診抑制を経験してしまった
COVID-19(新型コロナウイルス感染症)が中国・武漢で発生してから2年以上を経過した。現在は感染力の強いオミクロン株のせいか、毎日減り始めてはいるものの(3月25日現在)、国内でも数万人単位での感染者数が報告されている。韓国では一時期、1日で40万人から60万人という感染者数が報告されたこともあったし、欧米では感染力のわりに重篤化しにくいオミクロンの特性に注目して、ロックダウンを解除したり緩めたりする政策もみられるようになったが、これらの国では感染者数は急カーブで増え始め、医療を圧迫しているというニュースも飛び込み始めている。
この間、メディアの関心はCOVID-19から遠ざかり、ロシアによるウクライナ侵攻に大きく比重は傾いた。ステルスオミクロンとかBA.2と呼ばれる次のコロナ株が蔓延するといわれているが、そうした情報があまり大きくは関心を持たれなくなった。BA.2はさらに感染力は強いが、重篤度は同程度とか低いなどという報道もみる。そうすると感染者はまた爆発的に増えるだろうし、またまた蔓延防止措置などといったものが検討されるのかもしれないし、4回目のワクチン接種、治療薬の開発と流通への関心ということになっていくのかと思うが、ウクライナの前には、コロナをはじめ、ほか一切の情報の価値は小さくなってしまった。
サッカー・ワールドカップ予選で来日していたミャンマー選手が、クーデターに異議を唱え反政権の意思表示し帰国できなくなってしまった。難民となった彼は、ウクライナ情勢をどう思うかをインタビューされて、「今起こっているのは戦争で、ミャンマーは内戦」としごく当然で冷静な回答をした後、市民が困るのは同じだと語って、インタビュアーを喜ばせていた。戦争でも内戦でもなく、COVID-19はタチの悪い感染症だが、パンデミックで恐怖に慄いているのは市民で、困っていることは同じだ。かの地の戦争はいつ終わるのかにメディアの関心は注がれる。ミャンマーの軍事政権はいつまで続くのか、コロナ禍はいつ終焉するか、への市民の関心は同じだろうに。
●ウイルスの行方を語っている時ではなくなった
前回、医療経済学者の久繁哲徳氏が、昨年12月に刊行した『図解・医療の世界史』の中で、新型コロナウイルスに関して、毎年60万人は死亡するインフルエンザでは騒がないのにCOVID-19では必要以上に騒ぎ煽りたてる風潮に厳しい批判をしていることを紹介した。
久繁氏は特に、数理モデルSIRを基本とした単純な感染予測を「荒唐無稽」と切り捨て、20年初めには西浦博北大教授(当時)を軸にした研究者のシミュレーションがメディアに大々的に報じられ、政治判断にも影響を与えたことを批判、パンデミックではなく、インフォデミックこそ警戒すべきだと述べていた。
久繁氏の指摘は、インフルエンザとの対比において、死者数は日本国内ではそれほど落差を感じさせないというデータが基になっていると思うが、それにしては医療に対する影響、社会経済へのインパクトは比較にもならない。ある意味、日本では過剰防衛によって、欧米諸国と肩を並べる対策をとる必要があったのかという問いかけも、久繁氏の指摘は内包しているようにも感じられる。
このパンデミック当初、メディアは欧米のロックダウンとの比較で、日本の行政の緩慢な姿勢を批判気味に報道したが、当時もWHOや欧米の公衆衛生関係者は日本の「自粛」基本の抑制効果の大きさに驚いていた。今更だが、実はこの国民性をもっと信じてもよかったかもしれないという言説が最近戻り始めている。ただし、日本における自粛は「ケガレ」信仰に伴う「同調圧力」であり、筆者はうっかりとそうした見解に同意するわけにはいかない、と思う。日本という「世間主義」は繊細でも何でもなく、ある意味鈍感な人間の集合体で、西浦シミュレーションというマジックには弱い。そしてそれが強みだというレトリックの世界にいる。
進化生物学者で医師のフランク・ライアンも、一昨年に書いた『ウイルスと共生する世界』で、2020年前半までの世界のCOVID-19感染状況を観察しながら、日本の状況に盛んに首をひねっている。人口密度の高い先進国で高齢者が多く、検査の実施率が低いにもかかわらず、強制的なロックダウンも導入せずに、どうして感染率や死亡率が低いのか。
結局、ライアンは「真実は誰にもわからないというのが実情」だとそれ以上の分析には匙を投げている。彼は日本が、WHOが「検査、検査、検査」と繰り返した勧告に耳を貸さなかったとも語っている。そのほかにも日本に対する彼の「不思議」は多岐にわたっているようだが、政府が検査の全件実施に熱心ではなかったというのは、国内の医療関係者からはかなり厳しい批判があったことは前回にも触れた。
ライアンは一昨年の時点で、コロナウイルスはインフルエンザウイルスよりもゲノムが大きく複雑で、RNAウイルスの中では「コロナウイルスが生物学的にそして遺伝学的にもインフルエンザよりも複雑であることを意味している」と語っており、このパンデミックがかなり長引く可能性があることを示唆していた。現状では次々に新たな株の発生がみられるという「複雑さ」をみると、彼の予測通りとなっている。その意味では、研究者にはこのウイルス自体が未解明であるということだけは、かなりはっきりしている事実のようである。
●高齢者の受診機会は急減する
コロナ禍がいつ終焉を迎えるかは、公衆衛生学者、感染症学者でもまだ明確な見通しがない。しかし、活字世界では「コロナ後」を語り始めることが増えている。それも昨年末あたりから急増している。社会経済の軌道を正常に戻さねばならないという意思が共通してきたといえるだろうし、そうしなければ国の進路さえ不透明になってしまうという危機感が横溢してきているようにみえる。それも一気に。
そのなかで多くにみられる分析ないしは論考が、社会システム、あるいは経済基盤やシステムが、すっかりと元に、つまり2019年以前には戻らないと考えられていることが基本的なベクトルになっている。そして繰り返せば、そうした観測、論考が今後、より具体的に、より幅広く、多様な場面で語られ始め出したのである。
昨年11月末に出版された本田宏編著の『日本の医療はなぜ弱体化したのか 再生は可能なのか』で、医療のコロナ後がいくつか語られている。
都立駒込病院の看護師、大利英昭氏は同書で「ポストコロナの時代に際して」を語り、2つの変化を予測している。ひとつは患者の受診行動の変化だ。フリーアクセスを原則とする制度的変化はないが、患者自身が受診を手控え自然治癒の経験値が大きくなると、必然的に受診が抑制されてしまうという。大利氏は受診が遅れれば重要な疾患を見逃す危険性が高まると懸念する。
このことが医療機関経営に大きな影響を与えるであろうことは必然だが、この稿の筆者の私は、制度への影響も小さくはないとみる。フリーアクセスではない世界を強いられてきた市民が、人頭払い方式などの制度変化を許容する可能性が大きくなり、為政者側にはひとつの口実を与える可能性も出てくるだろう。
同氏の2点目の指摘はリモート診療の拡大。いわゆるオンライン診療だが、これが定着すると、患者の通院負担は減る。しかし、ICTにアクセスできない高齢者は診療機会が必然的に減ってしまうというリスクも呼び込みかねない。むろん、この問題は技術的なサポート体制である程度克服できる可能性はあるが、Face to Faceではない診療に従前の信頼感を継続できるか微妙なところだ。
次回は受診控えの懸念を中心にコロナ後を占う活字世界をみていく。(幸)